祓わずに見る――心霊写真考 


 以下の文章は『写場写場』2号(2003年3月)に書いた文章です。掲載された文章に所々加筆修正をしていますが、ほぼ同じ内容です。なお、図版は省略しました。興味のある人はリンクにある心霊写真史サイトを検索してみてください。
 雑誌の性格、紙面の都合などの事情もあって、充分に展開できない問題は多々あります。そうした問題は、またお盆を過ぎてから考えてアップしていくことにします。
(2003.3)


心霊写真を考えるとは、過剰な「見る」/「知る」欲求に後押しされ、写真の厚みに分け入ることで現実の客観性のエッジに踏み出す――確信と不信の間のゲームに加わる――ことである。せっかくのスリリングなゲームを端から否定してしまうのはあまりにももったいない。心霊写真を考えるというゲームのための入口をいくつか挙げてみよう。

霊媒の写真から霊媒としての写真へ

 19世紀半ば、産業革命と科学技術に支えられて新たな世界観や現実感が定着していく近代社会の形成期に、その裏地のように心霊主義思想が世に広まっていく。この時代には、富裕な階層を中心に死後の霊の存在が信じられ、そのメッセージを受信するために夜毎どこかの邸宅で交霊会が開かれていたのである。それは、霊媒を経由して霊が引き起こすラップ音や自動書記、テーブル・ターニングや空中浮遊、霊本体の物質化など、あらゆる手段を用いた霊の存在証明のための見せ物かつ実験であった。ここには当時一流の自然科学者も加わっている。

写真は、こうした霊の物理的痕跡を採集するひとつの媒体として交霊会に利用される。交霊会の部屋につながる「キャビネット」という隣室から、トランス状態に入った霊媒が呼び寄せた霊が登場して部屋の中を動き回ったり、霊媒の耳や口から光り輝く紐状のエクトプラズムが流れ出てきたりする様子をそうした写真は記録している。現在の私たちの心霊写真イメージとはほど遠いが、それが当時としては説得力のある物理的証拠としての「心霊写真」であった。例えばその典型が、男性の検証者が脇に控え、女性の霊媒が足もとに倒れ、白いヴェールを纏った霊が官能的な表情を湛えながら佇んでいる写真である(図1)。ある研究者によれば、交霊会ではキャビネットという暗い部屋がカメラであり、女性が霊の姿を露光、現像するメディウム(媒体=霊媒)であったという。やがて写真自体が次第に女性に代わってメディウム=霊媒の役割を引き受けるメディアになっていく。

心霊写真と複製可能性

私たちのイメージに近い、ないものが写ってしまった型の心霊写真が撮影されたのも19世紀半ば以後のことである。この時期に欧米で活躍した代表的な「心霊写真師」たちは、スタジオを訪れた顧客を撮影してその数日後に見事に写りこんだ「心霊」肖像写真を手渡すという注文制作を行なっていた。例えば、元祖心霊写真師であるWH・マムラーは、故人が被写体を抱きすくめるように佇むスタイルを得意にしており、顧客たちはいわば「生きた遺影写真」を撮影しにやってきていた(図2)――※もっとも、遺影写真は生前に撮影するものではあるが。心霊写真師たちは、欧米の心霊写真ブームが一応の終焉を迎える20世紀初頭に至るまで、各々独自のスタイルや手法に磨きをかけていく。1870年代には、ブゲ(仏)による鮮明な霊とその霊を包むガーゼのようなヴェールが被写体に被さる「芸術的特質を具えた」スタイル、ハドソン(英)による立体感のある全身像スタイル、1890年代以降には、ワイリー(米)によるシールのような顔が写りこむ「エキストラ」型スタイル、ホープ(英)による「サイキックアーチ」型のスタイルがある(図3、4、5)。ここで重要なのは、その明らかな偽造性ではない。むしろ興味深いのは、感光板を用いた複製可能性とともに心霊写真が普及したという事実である。一点ものであるダゲレオタイプとは違い、同一の価値をもつ複数の像の際限ない複製可能性、そしてそれゆえに大量に増殖し、像の被写体すら統御不可能な「画像の洪水」、これが心霊写真の波及に貢献したのである。他人の肖像写真を持ち帰ってしまったという初期肖像写真の顧客のエピソードからも分かるように、当時の人々の写真における顔の認識は依然として不安定であり、顔写真の洪水のなかで人々は、たとえ匿名の顔が写りこんでいたとしても「それなりに」親類の顔を同定していた。しかし、そうした親類にはそもそもの顔写真は存在しなかった。それはある意味で、「ない」ものを「ある」ものとして見る実験でもあった。

自動書記としてのフォト・グラフィ

 そもそも見えてい「ない」ものが写って「いる」写真のどこに客観性はあるのか。写真の客観性は、人間の手を介さずに自動的な物理的作用によって画像が描出されるという点にあった。しかし写真には、肉眼で目にされる現実の情報量を優に超えた細部が包含されてもいた。このノイズに満ちた過多の知覚情報は肉眼の知覚に一致することはない。客観的で過剰な自動書記装置である写真は、それまでの現実の客観性を保証していた現実再認の回路を機能不全に陥らせ、逆に言えば、新たな現実らしさを組織していく媒体にもなっていった。また、19世紀末におけるX線、電磁波、放射線の発見等、見えない不可視光の発見も、そうした客観性の再組織化を促し、心霊写真を勢いづけていた――これは念写やキルリアン写真の源泉でもある――。そもそも写真を客観的な現実像と呼ぶように至るまでには大きな飛躍がある。心霊写真に限らず写真の知覚には、「見えないものを見えてくる」ようにするための現実と像と知覚の間の複雑な協同が必要であり、心霊写真が指し示しているのはこの協同のほつれなのである。やがて心霊写真(スピリット・フォト)が欧米でいったん終焉した後にその「インスピレーション」を受けついだのが1920年代以降の芸術的写真であったのは偶然ではないのである(図6)

心霊写真を見せる/語ること

 それから40年後の日本に目を移そう。『心霊写真』の小池壮彦氏が述べるように、日本では1970年代以降、心霊写真投稿誌による投稿鑑定システムが広まる。そこで主流のスタイルとなったのが細部三点認識による顔の同定であった。つまり、波打つ水面、木の葉のざわめき、立ち込める煙、所々に染みの残る壁面、この充満する細部の写真のなかに顔の要素である目と鼻を読み取り、それを送付された鑑定士がもっともらしい鑑定結果=物語を付加する仕組みができあがる。一方ではこの時期、アルバム写真の細部を必至に走査する心霊写真受容者の数は飛躍的に増大する。だがその反面、心霊写真の多様性が切り詰められ、画像の質は低下し、多忙な鑑定士はステレオタイプ化した物語を紡いだ結果、ブームは沈静化してしまう(図7)

1990年代以降に再び息を吹き返している心霊写真ブーム、その要因は単にこの間にアルバムに溜め込まれた写真のストックの量にあるのかもしれない。しかしそこには、これまで存在したが切り詰められていた多様なスタイルが復活してきている――撮影されたモニタに霊の写りこんだ入れ子式心霊写真、連続写真の一枚のみに姿を現す心霊写真、水面下で乱反射する蛸足に湾曲する心霊足写真、存命中の人物の心霊写真、撮影後に変化する心霊写真、「ある」はずのものがまったく「ない」マイナスの心霊写真…。しかも、呪いや祟りへと話を一元化しない複合的な語り口も登場し、「心霊写真新時代」を予感させる。

もともと心霊写真とは、光とガラスと感光剤の相互作用が生み出した確率論的に希少な画像であり、それを昔の人々はかけがえのないものとして大切に保存していた。恨みや祟りとは無縁の心霊写真がむしろ通例であり、しかも人々は自らその写真を語ろうとすることで、自らの知覚や記憶の細部を掘り返してはそれを写真を媒体に拡大するという実験的な試みを行なっていた。よく考えれば、写真を考えるということと心霊写真を考える作業は近いところにあるのかもしれないのである。 

図1 ケティ・キング(霊)とクルックス卿の交霊会記録写真(1874年)

図2 マムラー撮影の心霊写真(アルビュメン・プリント、カルト・ド・ヴィジット1871年頃)

図3 ブゲ撮影の心霊写真(カーボンプリントかウッドブリータイプ、カルト・ド・ヴィジット、1874年頃)

図4 ワイリー撮影の心霊写真(ゼラチン・シルヴァー・プリント、キャビネット・カード、1909年10月7日)

図5 W・ホープ撮影の心霊写真(ゼラチン・シルヴァー・プリント、1919年9月5日)

図6 『亡霊の領土――不可視のものの写真』展(スイス、ヴィンタートゥア写真美術館、1998年開催)のカタログ表紙。そうした試み。

図7 3点認識心霊写真の例(鴻上聡『心霊写真に挑戦』(汐文社)より)