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都市写真への/からの迂回
(写研2期第1回)
写研の報告。TPNスケジュールにも掲載してあるように盛りだくさんの内容があった。
展評:米原敬太郎「ポラロイドコレクション:アメリカ写真の世紀(美術館えきKYOTO)」
特集:都市と路上の発見
(担当エディター:佐藤守弘)
展評:鮎川真由美「ロバート・キャパ展(エリゼ写真美術館)」
佐藤守弘「路上の採集者たち ――桑原甲子雄と考現学」
松美輝彦「昭和初期エロ・グロ・ナンセンス時代の写真」
金悠美「廃墟と無意識から、意識と再生へ
――宮本隆司の過剰な写真と大道芸人Junの空家再生PERFORMANCE」
共同討議「都市と表象、都市と写真」
司会 佐藤守弘
ディスカッサント 大平透、前川修
特集「都市と路上の発見」となってはいたが、都市写真への迂回路といった感じの内容となった。いくつかのポイントを挙げておこう。
佐藤氏が「路上の採集者たち」で述べるように、都市を埋め尽くしていた過剰な文字−画像情報、いわば都市の表象様態という次元があり、そしてまたこれに少なからず結びついた考現学の無目的な採集活動の次元があり、そうしたふたつの次元が桑原の写真には現われている。細部を志向するものの観察不可能性に陥っていく主体と表象不全に陥る写真、あるいは芸術性も実用性も欠いてしまった無目的性の細部に満ちた写真、いわば「犯人のいない探偵小説」と化す表象。そうした脱臼性を回避するために動員されるノスタルジーという批評言語。こういう筋と理解した。追加してもらいたいこともいくつかあった。無目的性や細部性は受けがよすぎる。いわば別種の回避の批評言語にはならないのか。展示されるものと−文字の同時的過剰性という問題。また無目的性というフェティシズム(とニヒリズム)に陥り易い言辞にどう抗することができるのだろうか。これは80年代の路上観察学批判にもつながる問題かもしれない。
もちろんこうした――新興写真とはまったく異なる――30年代の裏面としての文字-画像の氾濫とその無根拠な錯乱の様子を示してくれたのが松実氏の報告「昭和初期エロ・グロ・ナンセンス写真」であった。30年代を機械の美学やいわゆるモダニズム美学で片付けてしまうことがいかに不毛なことかがよく分かる。全てを網羅する視覚的過剰さの問題がバックアップされた。
ただし大正から昭和初期にかけての個と類、鳥瞰的眼差しといたずらに解剖学的細部へと向かっていく眼差しは都市の表象においてどのような関係にあったのか。もう一方の極である類的視線としての都市写真、そして細部への眼差しとのかかわりを話として聞きたくもあった。 金さんの話は――磯崎によれば――宮本の過剰の二乗写真、無意識を意識した、すでに廃墟化のプランに従った廃墟にすぎない廃墟の二乗写真、廃墟化スタイルで建築の零度までも律儀に撮影してしまう無意識性が議論され、これとは対照的な「空家再生」という試みが対置された。
80年代に回帰した無目的な細部の収集(路上観察学)と上記の廃墟×2式写真はどこか関連があるのだろうか。無目的な意味を失ったといわれる細部を訴える意味論的コードの堅固さ、これがひとまず両者に共通してはいないだろうか。という意味では空家再生の無目的性の「語り方」も充分に注意しないといけないことになるだろう。もちろん話は面白かったのだが。
ゲスト・ディスカッサントの大平氏には80年代から90年代にかけての都市論=記号論ブームで切り落とされてしまった非記号、読解不可能なエクリチュ−ルとしての写真の問題、バブルの裏面としての廃墟嗜好、宮本隆司的なものへの批判的視座などが呈示され、時間切れの観はあったがいくつかの補助線を引いてもらった。ほとんど宮本的なものに議論が終始していたが、補助線を延長していけばこういう繋ぎ方もできるのかもしれない。
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とはいえとにかく時間不足で討議も不十分であった。
都市-写真-問題、もう少し一般化しておこう。個人的なメモ。 そこで論じられている「都市」とは何か?/そもそも都市写真とは可能な表象なのか?/
都市「の」写真とは何か?/「都市写真」と「建築写真」の差異は何か?/都市と写真は平行した関係なのか?/19世紀の写真発明来の都市の表象の語法とそのポリティカルな次元とは?/都市の無意識なのか写真の無意識なのか写真家の無意識なのか?/無意識という意識的ジャルゴンの問題性は?/30年代の眼差しによるあらゆるもののカタログ化という表象の力学のなかでの写真の位置はどのようなものであったのか?/80年代以降の路上観察における視のフェティシズムとニヒリズムに拮抗するモデルはいかにして提示すべきなのか?
とまぁこんな感じ…。
写研の今後ということを考えたうえで一言だけ苦言。
時間と機会の限られた場であるため議論の流れを汲んだ姿勢で臨んでほしい。せっかくのコンテンツの大半が流れてしまう。これは準備にあたってもらっている人々に申し訳がない。あるいは発表の数を厳選し、ディスカッションの時間をもっと取るべきかもしれない。そういう気遣いで疲労した。
(6月下旬)
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