Peter Weibel


このページではペーター・ヴァイベルの基本情報、講読テクストの訳(2002年度前期同志社(2001年前期から継続))を掲載していきます。


Biografie PETER WEIBEL

「1945年オデッサ生。パリとウィーンで文学、医学、論理学、哲学を学び、数学的論理学についての博士論文を書く。1976年から1981年までは講師として「形式の理論」を、1981年からは客員教授としてウィーンの応用芸術大学とカナダのハリファックス芸術デザイン大学で造形論と造形教育を教える。1979/80年にはメディアアート担当の客員教授、1981年には知覚理論担当の講師、1983年には写真担当の教授としてカッセルの大学〔Gesamthochschule〕で教える。1984年から、ウィーンの応用芸術大学にある視覚メディア造形担当の教授になり、1985年からは、ニューヨーク大学バッファロー校のメディア研究センターでヴィデオ・アートおよびデジタル・アート担当の教授になる。1989年からは、フランクフルトのシュテーデル校でニュー・メディア研究所の所長を務める。数多くの出版物を刊行。主だったところでは、『ウィーンの行動主義と映画』(1970年)、『イメージの加速』(1987)、『遠さの消失』(1990)、『最後の像の後にくるイメージ』(1991)、『コンテクスト-芸術』(1995)がある」。


…とARS ELECTRONICAには紹介があった。ちなみに唯一手元にある本『遠さの消失』は展覧会を機に編まれた論文集で、ヴァイベル以外の論者たちも遠隔通信と芸術をめぐる論稿を寄せています。
 私がこの奇妙なメディア理論家を知ったのは、『カメラ・オーストリア』という雑誌の「フロイトとさまざまなメディア」という論文でした。そちらの論文もいずれ紹介します。
以下試訳。推敲しつつ追加していきます。
※段落があまりにも長いところは見にくいため、適時改行をし、仮の小見出しをつけていきます(「・      」で表記)。
 
ぼちぼちと推敲しながら、授業時間内に不十分にしか触れなかった(場合によっては誤訳の可能性大であった(笑))ポイントを修整・捕捉しながら仕上げていきます。
 「巨大写真」は恐竜のごとく死滅したのか、それともさまざまなヴァリアントとなって復活しているのか、こうした議論が後々続いていきます。(010710)


ペーター・ヴァイベル 
速度の時代における巨大写真像

1 対象への忠実さの精神からの巨大写真の誕生

・忠実なる鏡としての巨大写真

 巨大な版型の写真に向けられた情熱は、写真が対象ないしは現実にたいして忠実であるとする信仰に由来していた。
 世界史初の写真は、1826年、年金生活を送っていた元将校であり、アマチュア発明家でもあったニセフォール・ニエプスが、庭を臨む自身の書斎の窓から8時間の露光の後に製作したものであった。ニエプスは数多くのリトグラフの実験を行い、その過程で、太陽の光だけを用いて、カメラ・オブスクラの奥壁に現われてくる自然の光景を化学溶液を塗布した錫板の上に一定時間定着させることに成功した。この方法が先の撮影の際に用いられたのである。「暗室の中に入り込んだ像が自ずと複製されていく過程」に本質をもつニエプスの発明、この発明を通じて、自然は自動的に写しとられたのである。しかもその手法は、――画家のラウール・ロシェットが1839年にパリの美術アカデミーの席上で「バヤール氏の写真製造法についての報告」で確認することになったように――「明らかに再現の完全な忠実さによって特徴」づけられているのである
(1)
  ドキュメントとして写真には証明力が具わっているとする見方、これは写真の客観性という考えに基づいており、さらに、この客観性という考えは、感覚によって捉えられる知覚世界のなかの対象を〔写真が〕完全に忠実に再現すると見なす見方に由来している。写真によるこうした対象の再現は、人間が直接介入することなしに行われるため――一見すると自動的に、いわば機械的に起きるように見えるため――、純然たるもの、真なるもの、まさに客観的なものであるように思われたのであった。

※ニエプス関連のサイトは多数あります。下記にその一部をあげておきます。

Presentation de Nicephore Niepce

Niepce

Nicephore Niepce - Inventor of Photography in France

Musee Nicephore Niepce

 ※ちなみにニエプスについての網羅的な本はオデット・ジョワイヨー『写真の発明者ニエプスとその時代』(パピルス)があります。

しかし、写真のなかで対象の大きさが極度に縮小されていたり、こうした写真に見られるように色がついていなかったりする等の場合、どのようにすれば完全な忠実さということを口にすることができるのであろうか? それゆえ、19世紀の写真家たちは巨大な撮影機器と感光板をあちこちに運んでいって、――場合によっては目で見る以上に対象を再現するような――鮮鋭な写真を撮影した。彼らが巨大な版型を好んだのは、対象にたいする忠実さへの憧れに端を発している。というのも、小さな版型の板を用いることで起きる極端な縮小化は、写真による「再現の完全な忠実さ」という主張に矛盾することになったであろうからである。
 彼ら19世紀の写真家は、後から焼付けを行う際に、それを――たとえ鮮鋭さを失うという代価を払ってでも――撮影対象の実際の大きさに調節していくという逃げ道を受け容れることはできなかった。なぜなら、このように鮮鋭さが無くなると、描写の完全な忠実さへの信仰が同様に妨げられてしまうからである。写真の真実性へのとどまることのない憧憬、ここから巨大な版型の写真への愛情が生まれている。写真家の場合でも、そしてまた写真を見る人々の場合でもこれは当てはまることである。事物の自然な大きさが写真によって妨げられてしまうこと、これは知覚世界に突然現れてはならないことであり、写真の真実性への信仰が崩壊させられるべきではなかったのである。それとはまったく逆に、対象への忠実さ、つまり、巨大写真によって対象の現実の大きさを忠実な再現、それによって写真イメージの真理性は保障されることになったのである。

※ここらへんの議論は例えば、京都駅で開催されたポラロイド・コレクション展での巨大写真を想起させる。現実に忠実なインデックスとしての写真を本来的な意味で実現させるためには等身大のサイズが要請される。写真=インデックス論ではこの部分は見落とされている。あるいは拡大−縮小という議論からも、この「実物大」論は脱落してしまっている。

 驚くべきことに、写真複製における空間的比率の変化は当初、当時の人々の意識にとっては、時間の変化よりもずっと不安を引き起こすものであった。現実よりも小さなものは、現実的ではありえない、という格言もあった。対象を再認する悦びは、まさに、同じ大きさで事物を再認すること、つまり実物を十全な大きさで再認することにあったのである。それゆえ、当時日常の、なじみの実物が見られることを約束するような予告をした広告も、「実物大、ライフサイズ!」ということを強調しなければならなかった。というのも、実物の大きさがなければ、本当に事物がコピーされていることにはならないからである。ライフサイズなくしてライフなしというわけである。実物大がなければ実物らしさ〔迫真性〕がないのである。先の1901年のイギリスでの広告では、興味関心を惹くための条件が何であるのかがよく心得られていた。つまり、遠くのもの(中国での戦争)のイメージであるか、近くのもの(バーミンガムの人々の生活)のイメージであるかはどうでもよいのであり、イメージの実物大の大きさがそうした条件だったのである。さまざまな人物があれこれと動いている様子のようにきわめて込み入った状況を再現する場合、露光時間の長さや時間的契機の消失といった当時の写真の技術的制約を克服するために、すくなくともフォーマットの忠実さ、つまり、大きさの比率と鮮鋭さによる描写の忠実さに重きがおかれた。こうして巨大なフォーマットを固持することで、当初、写真は現実的な空間を守っていたのであり、だから写真によって空間に引き起こされてしまう変化、つまり大きさの変化を除去していたのである。

 1850年から1900年にかけてのドキュメンタリー写真にとって決定的なものだった認識論的前提とは、したがって、「主題に相応しいやりかたで示すための」(マイブリッジ)唯一の方法がイメージと対象との1対1の摸像的比率だということであった。それは、一方で感光板の大きさと被写体の大きさとのあいだに可能なかぎり同一の対応関係があるべきだとする縮尺上の意味でもあるし、自己コピー化(セルフ・コピー化)という、もっと広く、もっと重要な比喩的意味合いにおいてでもあった。大きさに忠実なコピーを作成するという発想は、コピー化における他の対応関係にも転用されていったのである。対象とイメージとの大きさの同一性ということから、他の同一性願望や同一性要請が生じていく。大きさの同一性以外に、像と模像化されるもの〔対象〕とのもっと一般的な同一性として、色彩の同一性、時間の同一性などが生じていく。このようなコピーの一般的な同一性から、イメージの真実らしさへの願望の最終的な帰結として生じてきたのが、――実際、真理性〔真実らしさ〕の機能は同一性の機能でもあるのだから――コピーする者とイメージ(模像)との同一性という発想であった。もちろんそれは、セルフポートレートというよりももっと広範な意味で、つまり、コピーを行う者と、その対象全体の世界との同一性という発想のことである。

人物との同一化という機能に関して、人々が強く望んでいたのは、対象ばかりではなく、社会的な現実もイメージのなかで表されるということであった。例えば、労働者=写真家の場合において表現されるような、コピーする者とコピーされる周囲の世界との社会的な同一性、これはあのイメージに関する同一性の要請の最終的な帰結、つまり1対1のコピー化の規則の最終的な帰結なのである。そこでは写真は(対象、社会的現実、経験の)コピーであるばかりでなく、セルフ・コピー(自らを模像化したもの)でもあることになるわけである。

コピーされるもの(対象)はイメージそのものの中でコピーされ、イメージのなかで自らを指し示し、しかもそれを自ら行う、ということになる。つまり、ヴィデオ・システムによって私たちが心得ているような、自己参照性(自己言及性)のことである。したがって、セルフ・コピー、1対1のコピー、同一性、自己参照性、こうした言葉は将来、私たちがなじみの用語として用いることになるのである。このような説明によってすでに、巨大写真と社会的な写真との繋がりについての示唆も与えられている。その繋がりは同一化の機能を経由している。


 

 

 

1901年イギリスでの広告
見えにくいが実物大の大きさが強調されている。

1971年のフォトプラスティ−ク作品 
※分かりにくいが椅子の半分は実物大の写真が使用されている。

※写真には、1対1対応を字義通りに遵守する原理があり、その他のアスペクトのもとでの同一性もそこから派生してきた。しかもそれは、撮影者の同一性をも保障するような自己コピー化、合わせ鏡的な役割も担っていたという話。徹底してこの1対1写像論が面白いのは、通常写真の利点に関して強調される点とこの議論がまったく異なっているということである。写真は数多くの被写体をミニチュア化し、多くの視覚情報をポータブルにしたという説、あるいは逆に肉眼では認知できない細部を記録したという利点についての説、言わば縮小と拡大の両極に向かって話が進んでいくのが通常である。しかし1対1写真はこの常套句に対立する極ともなりえるのかもしれないのである。

社会的な写真においては対象への忠実さというものが、大きさの観点やイメージのレベルから真正性()や主体のレベルへと転用されている。社会的な階級は、その階級の中で生活する人々を通じてコピーされる。階級とコピーする者とが同一であるなら、写真は真なるものになるのである。同一化の機能=真実らしさの機能についてのこうした方程式は、かつて労働者の写真に当てはまるものであったのと同じように、今日では麻薬中毒患者や同性愛者たちが暮らす環境に当てはまるものである。つまり、写真をめぐる政治において重要なのは、当事者そのものによって、あるいは当事者とともに作り出される社会的な写真、言い換えれば、社会的な集団や社会的な諸問題が自ら描出される写真なのである。ただし、それはセルフ・ポートレート写真とうかたちで描写されるだけではなく、むしろ、写真を通じての相互作用というかたちで実現されるのである。

コピーとコピーされるものとの完全な同一性のみを巨大写真の中に認めること、これは、対象の領域における場合よりも社会的領域における場合の方が成功の割合がずいぶん低い。というのも、巨大写真であっても写真に具わる両義性から無傷ではないからである。それゆえ、イメージの両義的な意味にたいする実際的な矯正や統御として、介入ということが必要になる。例えば1対1のコピーといったような写真に関する統辞論は、写真についての意味論の中では解消してしまう。(なぜなら)イメージの多義性によって1対1のコピーは実現されなくなってしまうからである。しかもそうした理由のために、同一化の原理を担った写真の語用論は、真理へと意図的に差し戻されることになるのである。巨大写真にはしたがって、復古的契機と前進的=進歩的な契機が具わることになる。たんに視覚的な1対1のコピーに拘る場合には、巨大写真は復古的な作用に仕えるのであり、他方で、巨大写真が前進的=進歩的な作用を及ぼしていく原動力となるのは、それが1対1の原則を社会的な領野へと拡張していく場合、したがって統辞的な原則を意味論的にも、実用論的にも拡張していく場合なのである。

記号論の下位部門である、意味論、語用論、統辞論については適当な参考文献があれば呈示しておきます。
学部レベルならば、池上嘉彦の『記号論への招待』(岩波新書)が手軽。

2.巨大写真のクロノロジー

 シュルツェが1727年に発見した、チョークと硝酸銀の混合物を露光することで生じる型紙使用の像、そしてまたウェッジウッドやディヴィが発見した、硝酸銀を染みこませた紙の上に葉や草を置くことで産み出される「植物学的なシルエット」――もちろんこうしたネガでのコピー画像は依然、耐光性もなく、保存不可能であったが――こうした像は、1対1のコピーとしては最古の形式の巨大写真であった。


巨大カメラ、「マンモス」
1900年頃アメリカ

 ジャクソンが撮影したロッキー山脈の写真について、公式の発表にはこう書いてある。「これはかつてこの国で風景写真に用いられた最大の感光板である」、「これは、もっと小規模の写真であればけっして与えることのできないような、山々の崇高さと真の大きさという印象を伝えている」。〔そして〕こうしたドキュメンタリー的な物の写真からドキュメンタリー的な社会の写真へと移行が行われる際には、大きさの適切な関係への感情(例えば風景写真の場合のように)は、自然の対象から社会的な対象へと転移させられていった。そこに据えられていたのは同じ目的、つまり(真の大きさという印象を通じて)真実らしさという印象を伝えるという目的であった。したがって、巨大写真は真理(真実らしさ)に仕えていたのである。巨大写真のみが――例えば山々の――真の大きさを再現することができる。巨大な対象は、巨大な写真を通じてのみ真実らしくコピーすることができるのである。写真における現実の再現の忠実さは、現実におけるのと同じ大きさが写真においても対象に具わっている場合に可能になる。つまり、再現の忠実さに仕えるスケール関係の忠実さ、ここに巨大写真の源はあるのだ。巨大写真への嗜好がマルクスの定義した法則性、つまり新たな形の生産手段が当初は古い形のそれに支配されているという法則性の帰結でもあるということ、したがって巨大写真像が1800年頃に生起した巨大絵画から派生したものであるということ――こうした巨大絵画はテントやパノラマやジオラマにおける1枚の絵画の展示という形で公開されていた――、このことには異論の余地はないが、十分な説明という訳ではない。

パノラマというのは、巨大なキャンヴァスを一周させた円筒形の建物と絵画。地下の薄暗い階段を昇って中央の展望台に到達し、間接光に照らし出された360度の視野の風景や戦場の光景を享受させる視覚装置。巨大画像のご先祖とも言えるかもしれない。

細馬氏の近著『浅草十二階』に塔の視覚とパノラマの視覚についての詳細な説明がある。ちなみにパノラマ論は私も書いていたのでエッセイの「パノラマとその主体」をご参照いただきたい。

ちなみに写真史のオカタイ実証的論文ではマルクスのこういう導入はまったくすることがないでしょう。

というのも、このように古いメディアの原理が新しいメディアにまで延長されていく原因は、対象とコピーとの相同性にあるからだ。この相同性は19世紀の市民的なイデオロギーやその支配要求にとって必要不可欠なものだったのであり、またその結果として、ドキュメントとしての写真という考えが生み出されることになったのである。13×24mの巨大キャンヴァス、14×120メートルの巨大円筒形キャンヴァスは、1830年頃には風景写真やパノラマ写真では達成することのできない大きさだった。ただしポートレート用には1850年以降、実物大のフォーマット、例えば1,5×2,1メートルのフォーマットが生み出されてはいた。ニューヨークのフォトギャラリーを訪れたある人物は、1865年にこう書いている、「その数は無数であり、その大きさはマンモス級である」と。

 ブレイディは1858年にフィールド、フランクリン、モースの3名のポートレートを撮影した1,5×7,5メートルの大きさのトランスペアレンシー写真――背後から600本の蝋燭で照明が施された――を展示した。ただし、改良された引伸ばし機だけによってこうした特別なフォーマットが達成されたわけではない。引伸ばしはしばしばきわめて不鮮鋭な結果を引き起こすため、よりいっそう大きなカメラと感光板が作り上げられなければならなかったのである。上で概略を述べた市民による世界理解と自己理解からすれば、いっそう大きな画像が顧客からは要請されたのであり、それゆえに記念碑、探検調査旅行、開拓を撮影記録する写真家たちに用いられらる感光板のフォーマットは、1840年から60年に至るまでに、40×33cm、43×50cm、46×56cm、51×61cm、74×53cm、90×90cmというふうにしだいに拡大していったのである。この最後のフォーマットでの撮影に成功したのは、もっぱら芸術作品の複写を生業とし、パリで活動したアメリカ人であるC・サーストン・トンプソンであり、彼は直径33cmのレンズを具えた3,6メートルの長さの巨大カメラを用いたのである。1866年頃にはデジレ・ルブランが、0,28メートルのレンズと補助器具を備えた巨大対物レンズを風景写真用に作り出した。扱いにくい巨大カメラ、巨大対物レンズ、巨大フォーマット、こうしたものは、鮮鋭に適切な大きさであらわされる忠実な現実性というものへの――写真そのもののにつきまとっていた――強迫観念に捧げられた供物なのである。

 スイス出身でロンドンで活動していた写真家、オスカー・J・レイランダー(1813-75)――ヴィクトリア女王やルイス・キャロルの友人でもあり、ダーウィンのために働き、写真においては二重露光を用いて夢の世界を表現しようとした人物である――は、《人生の2つの道》という寓意作品を生み出した。この「活人画」とも言うべき作品は、この時代に典型的な写真であり、後景は岩や動物たちで占められ、その大きさは78×40cmというものであった。


レイランダー《人生の2つの道》1857年頃、アルビュメン・プリント、78×40cm←このサイズがポイント

 ヨーゼフ・マックス・ペッツヴァルというウィーン大学の数学教授でもあり、光度の明るい最初の対物レンズ――ちなみにこのレンズはウィーンの視覚機器製造社のフリードリッヒ・フォクトレンダーが権利取得の後に1840年にすでに製造していたのだが――の開発者でもあった人物、彼は自らの対物レンズのテストのために巨大カメラを製作させた。このカメラは三角形状の台に載せて移動させることができるものであった。ペッツヴァルが発見したのは以下のような事柄である。つまり、「引伸ばし、光度、視界、鮮鋭性といった、視覚装置に具わる諸々の長所は、それぞれが独自に、互いに無関係に達成される」のではない、むしろ逆に、「上で述べたさまざまな特性は互いに相容れないものであり、場合によっては互いに排除し合うのである、例えば、引伸ばしは光度や視界を犠牲にして獲得されるのであり、光度は引伸ばしを損なうしかたでしか獲得されないのである」ということであった。最初の10年でペッツヴァル式レンズは8000個ほど販売され、1857年に再度改良を経たレンズは20世紀に入るまで市場で販売されていた。1857年の巨大写真用カメラをペッツヴァルは、「正像鏡」用、風景撮影用、複写用のレンズの研究のために用いている。カメラの「三角形状の台の長さは1,59メートル、後方のフレームの長さは1,25m、高さ90cmであり、前方のフレームは長さが70cm、高さも70cmであった。レンズの直径〔あけられた穴の大きさ Ausschnitt〕が11cm、地面からのカメラ全体の高さが2m」であった。

 1898年、ロンドンで150×175cmの乾板を装填する複写用カメラが展示された。焦点の調節はカメラの中で行わなければならず、カメラの側面にはドアがあって中に人が入ることができるようになっていた。乾板の前方には2m四方の大きさの空間があった。レンズの焦点距離は144cm、しかも実物大の複写をするには、カメラには4mの伸長距離がなければならなかった。これは言わば中を歩きまわることができるカメラであったのだ。

こうした巨大写真の強迫観念によって生み出された最大の巨大カメラは、1900年頃にシカゴ&アルトン鉄道会社が自社製の豪華列車を細部まで鮮鋭に撮影してもらうべく注文したものであり、その製作に当たったのがシカゴのジョージ・R・ロレンスであった。「マンモス」と呼ばれたこの巨大カメラは、1,35×2,40mの大きさの感光板を露光させるものであり、225sのガラス乾板を装填すると総重量625キロ、操作に要する人手は15人であった。豪華列車の写真を現像し、焼き付けるのに、40リットルの化学溶液が消費された。このカメラが豪華列車を撮影した写真は、もちろんその大きさだけですでに万国博の審査委員たちを感激させた。つまり、「世界大賞」を獲得したのである。

 このカメラは表向きは2万5千フランの値がつけられていた。容易に想像がつくことだが、そうした巨大カメラは巨大であるというだけですでに経済的な観点からすれば歴史的に時代遅れのものであった。とくに1870年からは携帯用カメラの開発が始まり、1888年、つまり、イーストマンによるコダック・ロールフィルム・ボックスの発明以後、そしてバルナックのライカの発明(1913年)以後には、通常のフォーマットがいっそう小型のものとなっていったのであるから、なおさらのことである。経済的には採算の合わないものであるため、巨大写真用カメラは、その先史時代の先祖であるマンモスと同様に、消滅していった。このカメラとともに巨大写真は没落していったのだ。サイズの小さい写真がそれから数十年に渡る凱旋行進を始めることになる。ただし、コダックによる1889年の広告での約束が示しているように、写真はさらに、人間の手を介さずに機械によって作り出され、制御される客観性を具えていると見なす、市民たちの考えに同調していく。「あなたはボタンを押すだけ。後は私どもがいたします」という広告のことである。

 あの1910年〔1901年の誤り〕のイギリスの広告が示していたのは、もともと生き生きとしたイメージを写真によって伝えるには、実物大〔等身大〕の写真像〔の生産〕が必要であったということである。巨大写真によって初めて、ドキュメンタリー写真なるものが、世間一般の人たちに受け容れられるようになったのであり、それが世の関心を惹くものになったのである。〔それに対して〕小型の写真は、実に始めから私的な流通経路へと追いやられていた――もちろん、小型写真が絵葉書のかたちで複製される場合を除いてのことではあるが――。1855年のクリミア戦争、1861-65年の南北戦争、1871年のパリコミューンが原因となって生じた人々の貧困や憤激を伝える最初のドキュメンタリー写真、こうした写真は巨大な版型のものであり、職業写真家が製作したものであった。彼ら職業写真家は自分たちの用いる装置の巨大さと重さをものともせず、とりわけ現像室、暗室などを移動可能な幌馬車に載せて運ぶという工夫によって〔そうした難点を軽減する〕手段を講じた。しかし、経済的、技術的理由から生じた、大きさから複製性〔Vielfalt〕へのパラダイムの転換――
この転換は実際、〔大きさということと〕同じように、写真の本質の中に、つまり写真が潜在的に無限に複製可能であるという側面に具わっていたものであり、そして写真を最終的にはマスコミュニケーションの媒体であることを証明することになるのである――は、結果として即座にマス〔大量/大衆〕によるマス〔大量/大衆〕の生を描出することには至らなかったのである。

 20世紀の前半における社会的ドキュメンタリー写真の例が示しているように、同じく、1890年以来、つまり、『世の半分はいかに暮らしているか?』――
警察及び法廷担当記者ジェイコブ・A・リースによる17枚の写真と彼の写真を複製した19枚の挿絵〔版画〕を掲載したテキストとイメージによる本――の出版年である1890年以来、自分たちのドキュメンタリー写真によって世の意識に訴え、写真に描き出された貧困を変えさせるにいたった職業写真家たちの数は僅かだが何名かだけは存在した。というのも、とくにジョン・トンプソン(36枚の写真を担当)とA・スミス(テクスト担当)による『ロンドンの街頭生活』(1877)以来、写真の社会批判的な媒体としての適性が理解されるようになっていたからである。

 100万台単位で売られたカメラの存在にもかかわらず、その当時もはや国民の
う半分ではなくなっていたがそれでも依然としてその三分の一が生活を送っていた非人間的な状況をドキュメントしようと試みたのは、伝統的な絵画の美学を墨守していた職業写真家たちであった(例えば、ウォーカー・エヴァンズは長い間20×25cmの大型カメラで作業をしていた)。1900年頃には、そうした状況にいた人々、つまり労働者、失業者、外国人などが、たんなる経済的な理由から、自分たちの社会的現実そのものの写真撮影を行うことができなかった。というのも、生活に最低限のものすら不足していた彼らにとってみれば、当然のことながら、コダックの通常のカメラでもまだかなり価格の高いものであったからである。写真は贅沢品であるという受けとめ方がそれ以後の数十年にわたって、アマチュア写真家を特徴づけていたあのイデオロギー的な抑止(Inhibitionen)を生み出すことになったのである。

 アマチュアたちは、写真で「祝う」だけであった、つまり、結婚、休暇、旅行、自家用車といった自分の人生の特別な瞬間を記録し、自分たちの日常を記録しはしなかったのである。マイブリッジの言葉でをもじれば、「アマチュアたちには祝いごとだけが写真の価値ある主題なのである」。ルナシャルスキーの次のような要求――「進歩的な同志はみな、時計のごとくカメラも携行しなければならない」――によるプロレタリア(文化)運動が起き、そしてドイツの労働者写真家たちが登場して初めて、自分たち自身の社会的現実の撮影をもはや(職業的な)旅行報告者やシンパに任せるのではなく、自分たちで引き受けるようになったのである。巨大写真、巨大広告、広告板などが視覚的な環境の主要な要素になり、安価で鮮鋭な巨大写真を生み出すための経済的、技術的な前提――つまり引伸ばしのシステムの完成――が整った時代においてはじめて、再び巨大写真という考えが社会的写真に使用するためにもち出されるようになったのだ。通常の大きさの写真や小型の写真の時代以後に、未来の社会的写真は、ドキュメンタリー写真の初期に由来する巨大な版型の写真を想起することになるのである。巨大写真のレベルにおいて、私たちはその場合、別の移行を看て取ることができるであろう。つまり、――1対1の巨大写真への模倣的な憧憬に表れている――「自然自らに描き出させるという人類の夢」(W・ケンプ)、この夢が、人類そのものと社会を自ら描出させうるように、という夢へと推移しているのである。こうした私たちの理解のうえで重要な役割を占めるのが、写真家のダリウス・キンゼイ(1869−1945)であり、彼は二つの面で巨大なものの魅力に従っている。つまり、自然にある巨木、そして巨大版型の写真である。キンゼイが対象、つまり巨大な木々を自然における対応物であると見なし、しかも彼が生涯に渡って抑えることのできなかった――なぜなら彼は巨大な感光板を巨大な木とともに〔mit〕何度も感光させていたからである――模倣的な巨大写真像の魅惑〔Faszinosum〕、この魅惑は、今日の観賞者でも、かりに写真が書物用の図版に縮小されて掲載されている場合でも、免れることはできない。キンゼイは1902年から51×61cmの版型の感光板を、またそれとともに、すでに以前から28×35,5cmのエンパイアステートカメラを使用していた。
キンゼイによる写真は、彼の妻であるタビサ・メイ・キンゼイが生涯に渡る作業を信じられないほどの見事な技によって現像しているのだが、そうした写真は幻覚的な作用を及ぼしており、木であれ写真であれ、それが示唆する尺度の大きさが極めて強力なものになっている。キンゼイが巨大な装備品全体、つまり多くの重い巨大なガラス板、2,3台のカメラ等を、しばしば25から30キロの距離に至るまで徒歩ないしは馬によって森を抜けて撮影地まで運んでいかなければならなかったことを考えてみれば、彼の情熱の程は想像がつく。彼の子供たちは、父親であるキンゼイが、つねに「私は写真を撮影しなければならない」と言っているのを耳にしており、写真を撮影するためにつねに家に居なかった、と報告している。1897年から1906年にいたるまでの間だけでも彼は7度の大「撮影旅行」を行なっているのである。

 キンゼイの長大な旅は、1×××年〔誤植のため正確な年を調査中〕に始まり、肖像写真に携わっていた中断期間を挟んで、1920年代まで続いている。家族のもとに戻り、教会に出向くために週末の間、場合によっては作業を中断するだけで、彼は何ものにも代えがたい必然性に従いつつ、何度も森へ出かけて撮影を行なった。そうして撮影されたのが、彼が広告そのものにおいて明言しているように、巨木にまつわるすべての事柄、つまり、誰がそれを切り倒し、どのようにしてそれが切り倒され、さらに切断され、森から輸送され、車両に積まれ、川を下って船で輸送され、材木へと加工されるか等といった事柄であった。証言者が言うように「彼はあらゆるものの写真を欲していた」〔註12〕のである。一見すると、キンゼイの生涯においては、「写真作業photgraphic buisiness」以外には何も存在しなかったかに見える――もちろん、彼の妻は折に触れて苦情を述べたが、にもかかわらず、彼女はこの仕事に順応することになったのだ。「その仕事は、たんに私の父の強迫観念だったの」と娘は後に述べている〔註13〕。キンゼイの社会生活の主要な部分が過ごされたのは、樵たち、木々、馬との写真を通じての付き合いをする森の中においてであった。私はそれ以外の仕方であの強迫観念を説明することはできない。この強迫観念のおかげで、28×35,5cmのサイズにまでいたる11の異なる版型の4500枚のネガ(ガラス板とフィルム)を目にすることができるのである。おそらく10000枚は破棄されてしまったのであろう。キンゼイは、自然を目を通じて所有するというのではなく、自然を所有するにはそれをまずはカメラを通じて変容させなければならないという、近代的なコミュニケーション形式の先祖であるように思える。ヴェルトフの言う「カメラの目」がここですでに目を開けているのである! 彼は生に関わるためにメディアを用いたのである。顕著なことに、彼は集団肖像写真において人々を古典的な垂直方向のシンメトリーの原則に従って配置している。こうした集団肖像写真は、プロレタリア階級の早い時期の自己像となっているのである。
以上5月14日