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Peter Weibel
ペーター・ヴァイベル 1 対象への忠実さの精神からの巨大写真の誕生 ・忠実なる鏡としての巨大写真
しかし、写真のなかで対象の大きさが極度に縮小されていたり、こうした写真に見られるように色がついていなかったりする等の場合、どのようにすれば完全な忠実さということを口にすることができるのであろうか? それゆえ、19世紀の写真家たちは巨大な撮影機器と感光板をあちこちに運んでいって、――場合によっては目で見る以上に対象を再現するような――鮮鋭な写真を撮影した。彼らが巨大な版型を好んだのは、対象にたいする忠実さへの憧れに端を発している。というのも、小さな版型の板を用いることで起きる極端な縮小化は、写真による「再現の完全な忠実さ」という主張に矛盾することになったであろうからである。
驚くべきことに、写真複製における空間的比率の変化は当初、当時の人々の意識にとっては、時間の変化よりもずっと不安を引き起こすものであった。現実よりも小さなものは、現実的ではありえない、という格言もあった。対象を再認する悦びは、まさに、同じ大きさで事物を再認すること、つまり実物を十全な大きさで再認することにあったのである。それゆえ、当時日常の、なじみの実物が見られることを約束するような予告をした広告も、「実物大、ライフサイズ!」ということを強調しなければならなかった。というのも、実物の大きさがなければ、本当に事物がコピーされていることにはならないからである。ライフサイズなくしてライフなしというわけである。実物大がなければ実物らしさ〔迫真性〕がないのである。先の1901年のイギリスでの広告では、興味関心を惹くための条件が何であるのかがよく心得られていた。つまり、遠くのもの(中国での戦争)のイメージであるか、近くのもの(バーミンガムの人々の生活)のイメージであるかはどうでもよいのであり、イメージの実物大の大きさがそうした条件だったのである。さまざまな人物があれこれと動いている様子のようにきわめて込み入った状況を再現する場合、露光時間の長さや時間的契機の消失といった当時の写真の技術的制約を克服するために、すくなくともフォーマットの忠実さ、つまり、大きさの比率と鮮鋭さによる描写の忠実さに重きがおかれた。こうして巨大なフォーマットを固持することで、当初、写真は現実的な空間を守っていたのであり、だから写真によって空間に引き起こされてしまう変化、つまり大きさの変化を除去していたのである。 1850年から1900年にかけてのドキュメンタリー写真にとって決定的なものだった認識論的前提とは、したがって、「主題に相応しいやりかたで示すための」(マイブリッジ)唯一の方法がイメージと対象との1対1の摸像的比率だということであった。それは、一方で感光板の大きさと被写体の大きさとのあいだに可能なかぎり同一の対応関係があるべきだとする縮尺上の意味でもあるし、自己コピー化(セルフ・コピー化)という、もっと広く、もっと重要な比喩的意味合いにおいてでもあった。大きさに忠実なコピーを作成するという発想は、コピー化における他の対応関係にも転用されていったのである。対象とイメージとの大きさの同一性ということから、他の同一性願望や同一性要請が生じていく。大きさの同一性以外に、像と模像化されるもの〔対象〕とのもっと一般的な同一性として、色彩の同一性、時間の同一性などが生じていく。このようなコピーの一般的な同一性から、イメージの真実らしさへの願望の最終的な帰結として生じてきたのが、――実際、真理性〔真実らしさ〕の機能は同一性の機能でもあるのだから――コピーする者とイメージ(模像)との同一性という発想であった。もちろんそれは、セルフポートレートというよりももっと広範な意味で、つまり、コピーを行う者と、その対象全体の世界との同一性という発想のことである。
社会的な写真においては対象への忠実さというものが、大きさの観点やイメージのレベルから真正性()や主体のレベルへと転用されている。社会的な階級は、その階級の中で生活する人々を通じてコピーされる。階級とコピーする者とが同一であるなら、写真は真なるものになるのである。同一化の機能=真実らしさの機能についてのこうした方程式は、かつて労働者の写真に当てはまるものであったのと同じように、今日では麻薬中毒患者や同性愛者たちが暮らす環境に当てはまるものである。つまり、写真をめぐる政治において重要なのは、当事者そのものによって、あるいは当事者とともに作り出される社会的な写真、言い換えれば、社会的な集団や社会的な諸問題が自ら描出される写真なのである。ただし、それはセルフ・ポートレート写真とうかたちで描写されるだけではなく、むしろ、写真を通じての相互作用というかたちで実現されるのである。 コピーとコピーされるものとの完全な同一性のみを巨大写真の中に認めること、これは、対象の領域における場合よりも社会的領域における場合の方が成功の割合がずいぶん低い。というのも、巨大写真であっても写真に具わる両義性から無傷ではないからである。それゆえ、イメージの両義的な意味にたいする実際的な矯正や統御として、介入ということが必要になる。例えば1対1のコピーといったような写真に関する統辞論は、写真についての意味論の中では解消してしまう。(なぜなら)イメージの多義性によって1対1のコピーは実現されなくなってしまうからである。しかもそうした理由のために、同一化の原理を担った写真の語用論は、真理へと意図的に差し戻されることになるのである。巨大写真にはしたがって、復古的契機と前進的=進歩的な契機が具わることになる。たんに視覚的な1対1のコピーに拘る場合には、巨大写真は復古的な作用に仕えるのであり、他方で、巨大写真が前進的=進歩的な作用を及ぼしていく原動力となるのは、それが1対1の原則を社会的な領野へと拡張していく場合、したがって統辞的な原則を意味論的にも、実用論的にも拡張していく場合なのである。
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2.巨大写真のクロノロジー
シュルツェが1727年に発見した、チョークと硝酸銀の混合物を露光することで生じる型紙使用の像、そしてまたウェッジウッドやディヴィが発見した、硝酸銀を染みこませた紙の上に葉や草を置くことで産み出される「植物学的なシルエット」――もちろんこうしたネガでのコピー画像は依然、耐光性もなく、保存不可能であったが――こうした像は、1対1のコピーとしては最古の形式の巨大写真であった。
ジャクソンが撮影したロッキー山脈の写真について、公式の発表にはこう書いてある。「これはかつてこの国で風景写真に用いられた最大の感光板である」、「これは、もっと小規模の写真であればけっして与えることのできないような、山々の崇高さと真の大きさという印象を伝えている」。〔そして〕こうしたドキュメンタリー的な物の写真からドキュメンタリー的な社会の写真へと移行が行われる際には、大きさの適切な関係への感情(例えば風景写真の場合のように)は、自然の対象から社会的な対象へと転移させられていった。そこに据えられていたのは同じ目的、つまり(真の大きさという印象を通じて)真実らしさという印象を伝えるという目的であった。したがって、巨大写真は真理(真実らしさ)に仕えていたのである。巨大写真のみが――例えば山々の――真の大きさを再現することができる。巨大な対象は、巨大な写真を通じてのみ真実らしくコピーすることができるのである。写真における現実の再現の忠実さは、現実におけるのと同じ大きさが写真においても対象に具わっている場合に可能になる。つまり、再現の忠実さに仕えるスケール関係の忠実さ、ここに巨大写真の源はあるのだ。巨大写真への嗜好がマルクスの定義した法則性、つまり新たな形の生産手段が当初は古い形のそれに支配されているという法則性の帰結でもあるということ、したがって巨大写真像が1800年頃に生起した巨大絵画から派生したものであるということ――こうした巨大絵画はテントやパノラマやジオラマにおける1枚の絵画の展示という形で公開されていた――、このことには異論の余地はないが、十分な説明という訳ではない。
というのも、このように古いメディアの原理が新しいメディアにまで延長されていく原因は、対象とコピーとの相同性にあるからだ。この相同性は19世紀の市民的なイデオロギーやその支配要求にとって必要不可欠なものだったのであり、またその結果として、ドキュメントとしての写真という考えが生み出されることになったのである。13×24mの巨大キャンヴァス、14×120メートルの巨大円筒形キャンヴァスは、1830年頃には風景写真やパノラマ写真では達成することのできない大きさだった。ただしポートレート用には1850年以降、実物大のフォーマット、例えば1,5×2,1メートルのフォーマットが生み出されてはいた。ニューヨークのフォトギャラリーを訪れたある人物は、1865年にこう書いている、「その数は無数であり、その大きさはマンモス級である」と。 ブレイディは1858年にフィールド、フランクリン、モースの3名のポートレートを撮影した1,5×7,5メートルの大きさのトランスペアレンシー写真――背後から600本の蝋燭で照明が施された――を展示した。ただし、改良された引伸ばし機だけによってこうした特別なフォーマットが達成されたわけではない。引伸ばしはしばしばきわめて不鮮鋭な結果を引き起こすため、よりいっそう大きなカメラと感光板が作り上げられなければならなかったのである。上で概略を述べた市民による世界理解と自己理解からすれば、いっそう大きな画像が顧客からは要請されたのであり、それゆえに記念碑、探検調査旅行、開拓を撮影記録する写真家たちに用いられらる感光板のフォーマットは、1840年から60年に至るまでに、40×33cm、43×50cm、46×56cm、51×61cm、74×53cm、90×90cmというふうにしだいに拡大していったのである。この最後のフォーマットでの撮影に成功したのは、もっぱら芸術作品の複写を生業とし、パリで活動したアメリカ人であるC・サーストン・トンプソンであり、彼は直径33cmのレンズを具えた3,6メートルの長さの巨大カメラを用いたのである。1866年頃にはデジレ・ルブランが、0,28メートルのレンズと補助器具を備えた巨大対物レンズを風景写真用に作り出した。扱いにくい巨大カメラ、巨大対物レンズ、巨大フォーマット、こうしたものは、鮮鋭に適切な大きさであらわされる忠実な現実性というものへの――写真そのもののにつきまとっていた――強迫観念に捧げられた供物なのである。 スイス出身でロンドンで活動していた写真家、オスカー・J・レイランダー(1813-75)――ヴィクトリア女王やルイス・キャロルの友人でもあり、ダーウィンのために働き、写真においては二重露光を用いて夢の世界を表現しようとした人物である――は、《人生の2つの道》という寓意作品を生み出した。この「活人画」とも言うべき作品は、この時代に典型的な写真であり、後景は岩や動物たちで占められ、その大きさは78×40cmというものであった。
ヨーゼフ・マックス・ペッツヴァルというウィーン大学の数学教授でもあり、光度の明るい最初の対物レンズ――ちなみにこのレンズはウィーンの視覚機器製造社のフリードリッヒ・フォクトレンダーが権利取得の後に1840年にすでに製造していたのだが――の開発者でもあった人物、彼は自らの対物レンズのテストのために巨大カメラを製作させた。このカメラは三角形状の台に載せて移動させることができるものであった。ペッツヴァルが発見したのは以下のような事柄である。つまり、「引伸ばし、光度、視界、鮮鋭性といった、視覚装置に具わる諸々の長所は、それぞれが独自に、互いに無関係に達成される」のではない、むしろ逆に、「上で述べたさまざまな特性は互いに相容れないものであり、場合によっては互いに排除し合うのである、例えば、引伸ばしは光度や視界を犠牲にして獲得されるのであり、光度は引伸ばしを損なうしかたでしか獲得されないのである」ということであった。最初の10年でペッツヴァル式レンズは8000個ほど販売され、1857年に再度改良を経たレンズは20世紀に入るまで市場で販売されていた。1857年の巨大写真用カメラをペッツヴァルは、「正像鏡」用、風景撮影用、複写用のレンズの研究のために用いている。カメラの「三角形状の台の長さは1,59メートル、後方のフレームの長さは1,25m、高さ90cmであり、前方のフレームは長さが70cm、高さも70cmであった。レンズの直径〔あけられた穴の大きさ Ausschnitt〕が11cm、地面からのカメラ全体の高さが2m」であった。 1898年、ロンドンで150×175cmの乾板を装填する複写用カメラが展示された。焦点の調節はカメラの中で行わなければならず、カメラの側面にはドアがあって中に人が入ることができるようになっていた。乾板の前方には2m四方の大きさの空間があった。レンズの焦点距離は144cm、しかも実物大の複写をするには、カメラには4mの伸長距離がなければならなかった。これは言わば中を歩きまわることができるカメラであったのだ。 こうした巨大写真の強迫観念によって生み出された最大の巨大カメラは、1900年頃にシカゴ&アルトン鉄道会社が自社製の豪華列車を細部まで鮮鋭に撮影してもらうべく注文したものであり、その製作に当たったのがシカゴのジョージ・R・ロレンスであった。「マンモス」と呼ばれたこの巨大カメラは、1,35×2,40mの大きさの感光板を露光させるものであり、225sのガラス乾板を装填すると総重量625キロ、操作に要する人手は15人であった。豪華列車の写真を現像し、焼き付けるのに、40リットルの化学溶液が消費された。このカメラが豪華列車を撮影した写真は、もちろんその大きさだけですでに万国博の審査委員たちを感激させた。つまり、「世界大賞」を獲得したのである。 |