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クレイグ・オーウェンス
Photography en abyme
紹介
Photography en abyme
ダンスホールにいる若いパリジャンたちを撮影したブラッサイのポートレート写真は、一見すると、ほとんどの写真と同様、人が目にしている現実をそのまま転写したものであるように思えるかもしれない。まるでそれは、世界が写真の中で停止させられる以前に、すでにイメージが世界のなかに存在していたかのようなのである。したがって、私たちはこの写真を、被写体たちの内的な生を探るための手がかりであるとか、遠い昔に消え去ってしまったパリの街並みの記憶のための手がかりであるとかと捉えたい気になるのかもしれない。しかし、私たちがそのイメージをじっくりと見つめれば見つめるほど、そうした類の情報は疎遠なものになっていく。内的な二重化の複雑な網目によって、私たちの注意は、――写真は現実的なものの刻印であるという写真の地位にもかからず――イメージにとっては外的なままであり続けるもの(つまり写真が描き出す現実)からは逸れていってしまうのである。このようにして心理学的、社会学的な細部は、被写体、鏡、他者のあいだのさまざまな内的関係の作用によってずらされてしまうのである。そしてこうした作用がこのイメージを構成しているのである。
ブラッサイの該当の写真
(オーウェンスの言うクロッピング前(左)と後(右))
二組のカップルそれぞれがこのイメージの被写体であるかに思える。最初のカップルは、イメージの「現実の」空間であると読まれる場所に場を占め、自分たちの鏡像によって二重化(doubled)されている。他方、もう一組のカップルは、肘から下をクロッピングされた剥き出しの腕という断片的細部以外は、鏡の反映のなかに「だけ」現れている。後者のカップルは、二重化(doubled)され、しかも逆説的なことに、一度きりしか表象されず、自らの身体的な存在を簒奪されてしまったように思える。彼らの鏡像は、対象との物理的な繋がりから切断されて、最初のグループと結びつけられている。その結果、長椅子に腰掛けた人物たちのそれぞれが、鏡のような他者の反映のなかに二次的で仮想的な身体を見出すことになる。衣装、ポーズ、身振りといった細部によってこの印象は強められる。二人の女性に挟まれた若い男が左側の女性の肩に腕をかけるという身振り、これは――同じ帽子を被った――その鏡のなかの対〔もう一組のカップル;男性のほう〕によって反復されている。左側の女性の無表情な顔つきはその対〔もう一組のカップル;女性のほう〕によって反復されている。さらに言えば、女性はどちらも同じ髪型をしている。(男性の)右側では、二人の女性がそれぞれ横へと眼差し送っている。一方は気のあるそぶりを見せる眼差しであり、もう一方は写真を撮影している様子を見ている眼差しである(またこの眼差しはブラッサイのショット・アングルを反復して、二人の女性による証言し、気のあるそぶりをするときの眼差しと同じように、写真家をこの光景のなかへと巻き込んでいる)。一連の二重化は、同じツイードの縁なし帽を被り、互いにうわの空の状態を反響させあった二人の男性によって、右上方で締めくくられている(ブラッサイは、後のプリントでは右上方を切り落とし、そうすることでこの2人、つまり二重化の連鎖のなかでもっとも弱いこの繋がりを除外している)。
二組のカップルの絶対的な対称性ゆえに、長椅子に腰掛けた人々は、まるで平行して置かれた一連の合わせ鏡のあいだに置かれているかのようであり、その結果、現実において二組を分かつ――物理的および心理学的な――距離が折りたたまれていくのである。こうして空間がイメージから抜き取られ、二重化が及ぼす効果はもはや世界の空間の内部にではなく、写真のフラットさのなかにのみ位置づけられることになるのかもしれない。二重のイメージは、内的な二重化(duplication=襞へと折り畳むこと)の作用、写真の写真自身への折り返しによって生み出されたかのように思える――鏡は反映を示唆するばかりではなく、プリントの表面における文字通りの皺(折り目、襞)を示唆してもいるのである。しかし、折り返しによる二重化は、このようにして操作を施された表面上に痕跡ないしは沈殿物を残すことを含意してもいる。それはあの有名なインクの染みの左右対称の形状の場合〔〕と同じである。だから、このイメージのなかで生じている二重化は、写真のプロセスそのものの特性を示唆しているのである。
このイメージには、さらにもうひとつの、もっと明瞭な写真の描出を含んでいる。それは、写真についての批評のかなりの部分(とくに19世紀以来続いている写真批評)に影響を与えている、鏡像としての写真という類比的な定義を示しているのである。鏡像は被写体を二重化している――それはまさに写真自体が行っていることである――のであるから、それは写真というものを還元していった〔写真の〕内的イメージなのである。鏡は描出される被写体ばかりでなく、写真全体そのものを反映している。それは私たちに、写真の中で写真とは何かを――en abyme〔入れ子状に〕――告げているのである。
文芸批評で用いられる語彙のなかでは、「en abyme」というフレーズは、テクスト全体の構造を縮小して複製するテキストの断片のことを記したものである。このフレーズは、1892年にアンドレ・ジッドが『ジュルナル』の一節で導入し、もともとは彼自身の作品の二重化戦略を記したものなのである――それは、ルソーにおける「代補」と同じく、テクストの中でテクストとは何かを私たちに告げているのである。
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