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序論
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「すくなくとも最近まで、写真を、光学と感光性の素材、そしてプリントやスライドを作成するための化学処理を含む過程であると定義することができた。しかし今日では、この定義は変化を被っている。技術革新…が写真をそのもともとの化学的基礎から電子工学へとシフトさせているのである。…この新たな技術の進展が私たちの知っていた写真のまさに性質を変化させていると言うことは、誇張ではないのである」 (Bode and Wombell, 1991)
1991年、《フォト・ヴィデオ:コンピュータ時代における写真》という展覧会がロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで開催された。この展覧会とそれと同名の本は、写真の150年間にわたる実践への、新たな電子的、デジタル的技術の影響を考察しはじめたものである。この本の著者たちは、当該の技術的発展の中心にあった過程――デジタル化の過程――を指摘し、「電子情報の単位」への写真のコード化がもたらす様々な含意を大まかに描き出している。
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しかし、何人かの著者が強調しているように、新しい技術がもつ能力は、イメージを生産、分配、利用する方法を変化させるという能力以上の事を含んでいる。それはおそらく、それらの変化を生じさせた諸概念にかかわることなのである。 「おそらく、これら新たな技術が及ぼすもっとも重大な結果が、それが、伝統的な物の見かたや考え方の中心にあった前提やカテゴリーを疑問視させるという能力であろう。」(Wombell,1991) そのような変化が向かうであろう方向は、《フォト・ヴィデオ》のなかで幅広く示されている。 「新たな、しだいに継ぎ目のないものになっているイメージ編集やイメージ改変の方法が生じたことで、「カメラはけっして嘘をつかない」という古くからの考えは疑問視される。問われるのは、写真イメージの「真実」が受け容れられなくなって、「誰が敗北して立ちすくんでいるのか?」ということである」。 また別の方向では、「これらの新たな電子イメージ制作の方法は、アーチストや写真家に、この新たな変化しつつある視覚的、文化的シーンを表象する方法を与えるのである」というように、この発展にたいしての興奮も徐々に高まってきている。 《フォト・ヴィデオ》では、これとは別の2つの問題が、提起されている。ひとつが、ヨーロッパの黒人を監視するための新たなイメージや情報ネットワークの使用であり(Piper1991)、もうひとつが、新たなイメージ技術のこのような発展を駆り立てているのがどのような動機や言説であるのかという問いである(Robin1991)。 《フォト・ヴィデオ》では、私たちは、まもなくそう呼ばれるようになった「ポスト写真の時代」のための批判的なプランのようなものが提出されはじめたのを目にしている。1991年以来、新たなイメージ技術をめぐる論争が続けられ、深められている。そのいくつかを見渡し、それら論争がとる主要な方向を吟味するのが本章の目的である。
まず始めに、新たなイメージ技術の到来によって視覚文化の新たな時代が始まる、という主張を見てみよう。そして第二に、この見方へのいくつかの反論を考察する。これらの反論は、技術的変化に出会うものの、文化的連続性の諸要素を強調する批評家が述べているものである。例えば、写真技術とデジタル技術に共通している社会的、文化的用法の連続性のことである。第三に、デジタル技術が、――例えばドキュメンタリー写真やフォトジャーナリズムの――写真のもつ特別な真理価値への信頼にたいして与えた、脅威をめぐる論争を素描する。最後に、デジタル・イメージ技術をもっと広いシナリオの中での一要素とみなすことのできる方法に目を向ける。つまり、モダニティからポストモダニティへの移行に目を向け、そのような見方がもつ含意も考察する。
デジタルイメージについて考える:最初にある問題
■私たちは何を見ているのか?
デジタル・イメージのなかには、「写真」イメージを複数の水平線へと解体(「ヴィデオ効果」)したという、電子的伝達手段の特徴がはっきりと目に見える形で表れているものもある。そのような特徴は、今では、以前は粒子状の白黒ニュース写真が高解像度やフルカラー性、あるいは広告写真とは対照的にそうであったように、直接性や真正性を暗示〔connote〕しているのである(Becker1991)。これとまったく同様に、――Macromedia
Directoryのようなマルチメディア・ソフトの特徴なのだが――電子的に産み出された、静止イメージ間の転換は、急速に馴染みのものとなってきている。モニター上のイメージが、シミュレーションされた粒子のヴェールによって破砕され、それがはっきりと見えなくなる場合に、「写真的なもの」が意味されることになるのである。
しかしたいていの場合、純粋に写真的なものとデジタル的に記録された写真との間の重大な差異とは、それが「撮られ」、伝達される方法にあるのであって、たんにその見かけにあるのではない。それゆえ、「前―」、「ポスト―」電子的「写真」ということについて考える際、私たちは必ずしも、イメージ自体の目に見える明白な差異に向き合っているわけではない。なぜなら、写真イメージを探知不可能なしかたで実行し、模倣し、シミュレートするようになるということが、新たなイメージ技術の能力であるからだ。写真実践の多くの分野で、とくにドキュメンタリー写真やフォトジャーナリズムで、倫理的な論争を引き起こしたのは、この要因なのである。
同様に、アーカイヴ用のイメージ、画像ライブラリー、イメージ・バンクなどにデジタル化が与えた影響の場合には、アクセス、伝達、そして――依然として写真であるようには見えるが非物質的で可鍛性のデジタル形式で保存される――イメージの使用法が問題となる。
■アナログからデジタルへ
伝統的には、イメージはアナログ的な性質をもっていた。つまりそれは、物理的表面に担われた、ある種の記号と物理的な印から構成されていた(絵筆の跡であれ、…、写真印画の銀塩であれ)。この印や記号は、これらの表面と不可分である。それはまた、それが表象=再現している対象のいくつかの知覚可能な特徴に依然として関係づけられる。例えば、光は…写真の溶剤のなかで一連のアナロジカルな調性的差異になる。また他方で、デジタル・メディアは、情報の転写ではなく、情報の転換である。要するに、情報は数として電子回路のなかに入れられるのである。このようなデジタル化の特徴ゆえに、イメージは物理的な触ることのできる材料としてではなく、電子データとして存在すると考えられる。いくつかの重要な差異は次のように述べることができる。
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アナログ
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デジタル
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転写transcription: 一方の一連の物理的諸特性が、もう一方の一連の 類比的特性に転写される。
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転換conversion: 物理的諸特性が恣意的な数的コードによって象徴化される。
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連続的continuous: 調性や音などの連像的領野内での変化によって 表象が生じる。
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単位への分解unitised: 諸特質が、分離的で、測定可能で正確に複製可能な諸要素に分割される。
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物理的記載physical inscription: 記号はそれを担う表面と不可分である。
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抽象的信号abstract signals: 物質的な源泉から分離可能な、数ないしは電子信号。
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限定的メディア(種)specific: 個々のアナログ・メディアは、その組成分や特有の 技術により境界づけられている。
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総称的メディア(属)generic: あらゆるメディアをひとつのバイナリー・コードが表し、それらの間の収斂や転換を可能にしている。
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「デジタル化」は、現代の地球規模の伝達ネットワークの中を流通する情報の流れのなかに写真イメージが参入するための、効果的な前提条件でもある。今や写真が電子的に伝達可能になるのは、数的コードへの翻訳ゆえなのである。上に挙げた理由から、イメージの時間と空間における場所、つまりそれが実際どこに存在するのか、電子的形態ではイメージがどのようにして、そしてどこに保管されるのか、イメージのアクセスや使用、所有や統御はどのようにして、そして誰が行うのか、こういったことに関して問いが提起される。
■「写真」と「写真イメージ」
しだいに数の増えている、写真と新たなイメージ技術についての批判的文献において、一連の相関した2つの問いが現在提起されている。度のような一連の問いが問われるかは、大部分は、批評家や著者たちの写真への関心の広さによる。一方が哲学的な種類の問いである。これは視覚イメージの認識論的、存在論的位置にかかわるものである。認識論的問いは、写真イメージよりもデジタルイメージの方がどのような種類の知識を私たちに与えるのか、どのようにしてそれを与えるのかを問う。存在論的問いは、イメージというものがどのような種類の物なのか(あるいは、どのような種類の物になるのか)、それがどのような形態や物質のかたちで存在するのかを問う。こういった問いは、「写真的真実」についての議論や、世界の知識を得る際に視知覚が果たす役割についての議論と結びついて頻繁に生じる。
また別の場合には、問いは違う枠に入れられることもある。伝統的には、イメージ理解の主要な方法は、イメージを現実世界の対象を指示するもの、あるいは対象に依拠するものみなすということであった。イメージはこれらの対象を表象=再現し、あるいは指示しているのであると。電子的、デジタル的技術をイメージ生産に適用する場合、私たちはそれでもなお、自分たちの住んでいる「イメージ世界」を、その向こう側やアプリオリな現実を以前として指示するものであると解することができるのだろうか。イメージは自律的になってしまったのだろうか。つまり、写真的な表象=再現にまつわる以前の考えに効果的に反論を加えるような、イリュージョンやスペクタクルという「仮想的」領域となっているのだろうか。どのような権力をイメージは持つようになっているのだろうか。その権力は新たな生産、伝達手段によって拡大されているのだろうか。それともそれは価値を失ってしまっているのだろうか。どのような結果が生じ、どのような統御をされるのだろうか。
こういった問いをつうじて、私たちはもっと直接的に、もっと歴史的で社会学的なアプローチの必要な大問題に至ることになる。いかにして現在の発展は、写真イメージがいまだきわめて重要なものであった、以前の「機械的複製の時代」に関係しているのだろうか、という問題である。デジタル・イメージやその他の新たな伝達技術を用いることは、大量複製の時代をさらに拡大し、強化していることなのだろうか。もしそうならば、私たちは同じ事態をさらに目にしているのか、つまり連続した過程の広がりの中での諸々の差異や諸変容を目にしているのか。それとも新たな電子的、デジタル的文化は写真的な文化とは異質なものなのだろうか。新たな言語と新たなものの見方が生まれつつあるのだろうか。既存のメディアや芸術制度はここに含まれるのだろうか、あるいは伝達や創造性のための新たなネットワークとチャンスが切り開かれているのだろうか。
これら2つの一連の問い――哲学的問いと歴史的、社会学的問い――は、写真についての異なる考え方から生じてきたものだとみなすことができる。一方で、おもに、デジタル技術が、オリジナルの化学的写真に与える影響を理解しようとする関心がある()。他方で、もっと総称的な、大量複製や「マス」カルチャーの「写真イメージ」にたいして新たな技術が持つ広範な含意が強調されているのである。
このうち、後のほうのイメージ文化はオリジナルの写真に基づいてはいる。しかしそれは、他のグラフィックな、写真複写技術によって処理されるし、新聞、雑誌、書籍、ポスター、教育的資料や広告の素材などの広範な他のメディア形態のなかの一要素なのである。「写真イメージ」という言葉は、しばしばこの幅広い領野を示したり、フィルムや映画などの構築されたイメージをも示すのに用いられる(他方私たちが注意して覚えておかなければならないのは、時間や物語、そこに含まれている別の種類の展示や制度である)。そして最後に言えば、もう少し拡張すると、この言葉はヴィデオのイメージも含むのである。これは、レンズに基づいた、化学的写真処理の持つアナログ的特徴を分け持っている。ただし電磁的に記録されるのではあるが。
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「ポスト写真」の時代? |
「ポスト写真時代」という言葉を採用することで、現在の発展についての思考に対して、もっと決定的な歴史的、時代的次元が与えられている。この言葉はおそらく、ウィリアム・ミッチェルの本のタイトル(『リコンフィギュアード・アイ』)で広まったのであろう――もちろんそれ以前にそれは≪フォト・ヴィデオ≫で用いられているのだが(Wombell1991)。
ミッチェルは、デジタル・イメージ技術の出現を、――私たちが、「芸術的探求の新時代の開始をしるしづけ、社会的、文化的実践の新たな形態のための核を与えてくれる、新たな技術の急速な結晶化」とみなすことのできるような――数多くの歴史的瞬間のひとつであると考えている。ミッチェルにとって、1990年代は最終的にはイメージ制作にコンピュータの効果的で広範に応用されることとなったのだが、まさにそのような歴史的瞬間なのである。それは1830年代や写真そのものの革命的な誕生に比較可能な瞬間なのである。
クレーリーは同様に劇的な調子で、「コンピュータ技術が広範に配備された10年間ほどの時期の急速な発展」が、「中世のイメージをルネサンスの遠近法から分かつ断絶よりもおそらくもっと深い変容を視覚性」にもたらした、と考えている(Crary1993)。クレーリー自身はこの「断絶」の完了性について問いを提起しているのだが、このような意見は大胆な主張であるし、他の文脈では反論もなされている考えなのである(Lister1995,Robins1995)。
そのような主張は、そのようなデジタル的未来が手にするかもしれないものについて思索するはずみを与えるという以上のものをもたらしている。それはまた、結果的に、以前のイメージや伝達技術の出現、そしてそれに伴う諸々の主張について新たに関心が向けられことになるのである(Marvin1988,Boddy1994)。そのような思索のための歴史的基盤を研究する方法として、写真、映画、ラジオ、テレビの初期の歴史に新たに関心が向けられるようになったのである。これと並行した展開として、この時代を画する変容の要因とみなされる機械であるコンピュータの歴史に今では多大な関心が向けられている。
■写真とデジタル化
デジタル化は写真との関係はさまざまなものである。3つの主要な関係を区別することができる。
1 「コードなきメッセージ」(バルト1977)のコード化 ――オリジナルのアナログ写真のデジタルイメージへの転換。
2 写真のシミュレーション。化学的写真の見かけをしているが、実はコンピュータで 処理された情報から構築されるイメージの生産。
3 写真の非物質化と、マルチメディアや仮想的環境である、他のメディアとの写真の収斂化。
デジタル・コード化
デジタル・シミュレーション
マルチメディア:デジタル編集、インタラクティヴ性、メディアの収斂
仮想現実
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