4 60年代の写真と芸術 1――非人称化の戦略
芸術と写真が1960年代後半に大勝利を収めて収斂したということ、このことは、写真「そのもの」の市場が急速に拡大していったのと時を同じくしている。しかし、皮肉なことに、芸術の諸制度――美術館、蒐集家、歴史家、批評家――は、写真が理論的対象、つまり芸術的実践を脱構築するためのツールとして芸術的実践に入り込んできたまさにそのときに、独自のメディアとしての写真に注意を向け出したのである。というのも、写真が芸術と収斂したのは、個別のメディアが放棄されて芸術一般とよばれるべきもの――特定の、伝統的な支持体とは独立した芸術という種的性格――に焦点を合わせた実践が行われるようになった際に、この根本的な変容を活性化し、記録する手段として役割を果たしたからである(9)。
コンセプチュアル・アートがこうした展開を最も明瞭に示している――ジョセフ・コスースは次のように述べている、「芸術家であることは現在では芸術の本性に問いを投げかけることを意味している。もし絵画の本性に問いを投げかけるのであるなら、芸術の本性に問いを投げかけることにはならない。…そういうわけで芸術という言葉は普遍的であり、他方、絵画という言葉は特殊なものなのである」(10)――。また、こうした芸術実践の一部門が「芸術(一般)の本性」について問いを投げかけていく探求を言語へと切り詰めてしまう――つまり「言語」があまりにも特殊なものであるがゆえに視覚的なものが回避されてしまう――ことになる可能性もある。こうした事情から、ほとんどのコンセプチュアル・アートは写真を手段にすることになった。おそらくその理由はふたつある。ひとつが、コンセプチュアル・アートの試みた芸術が、文学や音楽といったものではなく、視覚的なものでありつづけようとしたからということ。つまり、写真は視覚性の領域を保持するための手段であったということである。しかし、ふたつめの理由として、彼らの目指す芸術の美が、こうした視覚的な領域にとどまる方法が非−特殊的〔nonspecific〕であるということも挙げられる。写真はキャプションに構造的に依存するため、自立性や独自性という観念に抵抗するものとみなされたのである(ベンヤミンはかつてこのことを最初に述べていた)。写真は、最初から他律的なものとして――そして常に潜在的にはイメージとテクストの混合物として――、けっして特殊性に堕することのない芸術の本性について探求を行うための主要な道具となった。実際、ジェフ・ウォールは「コンセプチュアル・アートが本質的に成し遂げた成果の多くは写真のかたちで、あるいはそうではない場合でも写真を媒介にして生み出されている」と言い、写真によるコンセプチュアリズムの重要性を記述しているのである(11)。
写真によるコンセプチュアル・アートという実践の開始点にも認めることができるのは、写真に具わるこうした本質的に雑種的な構造である。ダン・グラハムの《ホームズ・フォー・アメリカ》(1966)やロバート・スミッソンの《A
Tour of the Monuments of Passaic,NewJersey》(1967)は、フォトジャーナリズムのかたちを採り、テクストとドキュメンタリー写真を結びつけていた。これは、他の数多くの写真によるコンセプチュアル・アート作品の模範ともなっていった――ダグラス・ヒューブラーやベルント&ヒラ・ベッヒャ−が取り組んだ撮影課題からリチャード・ロングの風景記録写真やセクーラのドキュメンタリー写真に至るまで――。また同様に、それは、数々のフォトエッセイの試みを生み出すことになった――バーギンやロスラーのようなある種の物語的フォトエッセイからソフィ・カルのような若手芸術家によるフォトエッセイに至るまで。ウォールが指摘しているように、そうした試みの歴史的な起源は、1920年代から30年代にかけてアヴァンギャルドがフォトジャーナリズムを取り入れようとした試みに見出される。この試みは、たんに「芸術写真」によって慎重に保持されていた美的自律性という考えを攻撃したのではなく、ドキュメンタリー写真の偶然的な自発性に含まれている「非芸術性」の外見を予期せぬ形態的源泉として用いようとしていたのである。
事実、写真の模倣的な能力は、ミミクリー〔擬態〕というアヴァンギャルド一般の実践、つまり非芸術的、反芸術的な経験の分野すべてを身振りに取り入れるという実践に難なくつながっていく。こうして、それまで不問に付されていた高級芸術の前提が批判されるのである。スーラによるアール・ヌーボーのポスターの模倣から、ポップ・アートによる安価な広告の戯画まで、広範なモダニストたちの実践は、模倣を自ら用いるという可能性を探っていった。しかも、1980年代に剽窃〔流用〕芸術家の人々が明らかにしたように、写真という記憶を備えた鏡ほど、こうした非人称化の戦略にうってつけのものはなかったのである。
写真によるコンセプチュアル・アートは、その第二の戦略の次元に、フォトジャーナリズムの模倣ではなく、アマチュア写真の模倣を選んでいた。なぜなら、ウォールも論じるように、写真の具えたきわめて愚かで、不運な外見、社会的、形式的な意義を剥ぎ取られたイメージ――事実それらは意義というものを完全に奪われている――、だから見るべきものが何も含まれていない写真は、限りなく次のような状況に近づくことになるのである。つまり、道具化に抵抗し、無目的な目的性、芸術と称されるようなものを生み出し続けているその当の制作者自身の存在しか反省させないという状況である。こうして、…(中略)…芸術という概念そのものへの反省、それはルシャによるこれといった特徴のないガソリンスタンドやロサンジェルスのアパートの写真、ヒューブラーによる芸術性の欠けたシリーズ写真などのように、アマチュア写真に具わる様式の零度を掘り下げ、写真をコンセプチュアル・アートの中心にしているのである。
註9 特殊なものから種的なものへの運動を理論化するということが1960年代の芸術実践の主要な傾向であり、もちろんそれは最終的にはデュシャンに由来している。この傾向についてティエリー・ド・ドューヴが「The
Monochrome and the Blank
Canvas」や「レディメイドの残響――純粋モダニズム批判――」等の論文の中で議論している。
註10 省略(コスース文献指示のみ)。
註11 省略(ウォール文献指示のみ)。
註12 省略()
5 60年代の写真と芸術 2――時代遅れのものとしての写真、メディアの再発明――
メディアとしての写真が神格化されるようになった――つまり写真が商業、学問、美術館において成功をおさめるようになった――のは、写真がまさにメディアという概念そのものを不明瞭にさせる能力をもち、また写真が他律的な対象であるがゆえに理論的なものとして見なされるようになった時点のことであった。しかし、――この第一の時点とそれほど歴史的には隔たらないのだが――第二の時点において、写真は社会的な使用領域から抜け落ち、時代遅れのものになって目につかないものになり、それにつれて、写真に与えられていた脱構築的な力は失われていった。1960年代半ばまでには、アマチュアの用いるブローニー版カメラやプリント店――これを写真を用いたコンセプチュアル・アーチストたちは「非−芸術」の装いを手に入れるために利用していたのだが――が写真の消費の新しい局面を迎えることになり、ウォールが述べたように、「観光客も行楽客もペンタックスを弄ぶようになる」、つまり「平均的な市民がプロ並みの装備を所有するようになり」、「アマチュア写真家が技術的なカテゴリーではなくなっていく」のである(13)。しかし、ウォールが指摘するように、1980年代初頭までには、こうした観光客たちはヴィデオカメラも装備するようになっており、これはヴィデオ映像、そしてデジタル映像が大衆の社会的実践として写真に取って代わることを示唆しているのである。
写真は急激に、ジューク・ボックスやトローリー車と同様に、産業的な廃棄物、最新の骨董品となる。しかし、写真が美的生産と新たな関係を持つようになっていったと思えるのは、まさにこの時点、このような時代遅れの廃棄物となっていく状況下においてだったのである。しかし、今度は写真は、以前の破壊のためのメディアのもつ作用には逆らった作用を及ぼすようになる、つまり、自らが衰滅したものという外観を引き受けながら、メディアを再発明するという試みのための一手段となるのである。
ここで話題になっているメディアとは、――絵画、彫刻、素描、建築など――写真をも含んだ伝統的メディアのいずれかのことではない。したがって、この再発明とは、「複製技術時代の芸術作品」のなかで述べられたように商品形態への同化を通じて徹底して機能不全に陥った従来のメディア=支持体のいずれかの形態を復活させることではない。むしろ、メディアという概念そのもの、所与の技術的支持体が帯びる物質的条件から派生した――と同一なわけではない――一連の規定〔convention〕としてのメディアがここでは問題になっている。つまり、この一連の規定から、投企=投影的〔projective〕であり、記憶的〔mnemonic〕でもある表現形態を展開することができるようになるのである。さらにいえば、もし写真がこの結節点で、つまりポスト・コンセプチュアルな、「ポスト・メディア的」な生産に何らかの役割を果たすのだとすれば、それは、写真が大量に使用され、やがて衰滅するに至ったという過程=通過を経ていたからかもしれないのである――このことはすでにベンヤミンは私たちに示唆していたかもしれない――。
しかし時代遅れのものについてのベンヤミンの理論を理解するためには、――この理論そのものがシュルレアリスムの特定の作品に促されている――、そして私が描き出したポスト・メディア的状況とベンヤミンの理論とのありうべき関係を探るためには、特定の事例に取り組んでみて、彼の挙げた例に従っていかなければならない。そこでは衰滅したものが、まさにメディアという概念と関係して救済的な役割をもつようになると言われているのである。それゆえ私は、そうした事例を追求し、そのさまざまな側面を――技術的(物理的)支持体だけでなく、そうしたものが繰り広げている一連の規定についても――調べてみたい。こうした調査というものが、いかなる一般的な理論よりも生き生きとしたものとして私たちの目の前に横たわっているのであり、それこそがこうした企図が取り組むべきものなのである。
私が考えているそうした事例とは、アイルランドの芸術家ジェイムズ・コールマンの作品である。コールマンの作品は、1970年代半ばにコンセプチュアル・アートから展開していき、やがてそれを超えることになった。彼は、写真をスライド投影のかたちで用いている。これが彼の作品のほとんど唯一の支持体となっている。この支持体――一連のスライド群であり、その映像の切り替えはタイマーによって調整され、サウンドトラックがついている場合もそうでない場合もある――は、たしかにビジネスにおけるプレゼンテーションや広告などでの商業的用法に由来したものである(私たちは駅や空港の巨大なディスプレイを考えてみさえすればよい)。しかも、厳密にいえば、これはコールマンが「発明」したものではない。しかし、ウォールの場合でも、彼がポストコンセプチュアルな写真実践の支持体として広告用の透明なパネルを採用したが、それを彼が「発明」したわけではなかった。しかしどちらの場合も、低次のロー・テクである商業的な支持体が、メディアという概念に回帰する手段として用いられているのである。ウォールの場合は、彼が立ち戻ろうとするメディアは、絵画、もっと詳しく言えば歴史画であり、それをマネが19世紀にモダニズムの道のりを進んでいくことになる直前での停止点から取り上げようとする。ウォールの欲求は、そうした伝統的形態を先へ推し進めることであり、そのためにコンストラクテッド・フォトという手段を用いることになった(14)。したがってウォールの活動は、メディアという問題を現在において再考する必要性を徴候として表しているのであるが、1980年代の芸術に特徴的であった伝統的メディアのある種のrevanchiste的復活(?)という色合いを帯びているのである。
しかしコールマンは、――もちろん彼の場合でも暗い空間での光の投影という方法を採るし、映画とある種の関係をもつこともあり、そこでは俳優たちが設えられた舞台のなかで描き出されるために演劇との結びつきも想起させるのではあるが――所与のメディアに立ち戻ったと見なすことはできない。むしろコールマンが入念に制作しているメディアは、静止的なスライドがその変化の合間にまさに喚起する静止性と運動性との間のパラドキシカルな衝突なのである。コールマンが、プロジェクション機器は作品を見る人々と同じ空間に置かれることを強く要請していることからも分かるように、カルーセルの回転のカチッという音と次のスライドが滑り込んでくること、あるいは2重のプロジェクターのズームレンズが焦点を変えたりする機械の気まぐれによって溶暗効果が生み出されるということ、こうしたことによって衝突は強調されるのである。
註13 省略(ウォール文献のみ)
註14 ウォールが19世紀の傑作絵画を「再行〔redo〕」しようとしているということは、《ピクチャー・フォー・ウィーメン》(1978)でマネの《フォリー・ベルジェールのバー》を、《ザ・ドレイン》(1984)でクールベの作品を、あるいは《デッド・トループ・トーク》(1991-92)でジェリコー作品とメッソニエ作品を結合させるといったように、さまざまな形で再認可能な物語を舞台に上げようとしていることからも明らかである。ウォールの支持者たちはこうした設定化を伝統との再結合のための戦略であると見なしている。しかし、私は、そうした再結合は、作品そのものによって得られるものではないし、それゆえに否定的な言い方をすれば、パスティッシュなものに違いないのではないかと感じている。
6 静止と運動のパラドクス――ダブル・フェイス-アウトについて――
ロラン・バルトは、「第三の意味」というエッセイのなかで映画的なもの――彼はこれをメディアとしての映画の本質と見なした――を映画の運動という側面においてではなく、むしろ逆説的なことに、スチール写真的なものとみなしたが、その際、私が上で述べたのと同様の静止性と運動性とのあいだのパラドックスを考えていた。バルトは、象徴的な効果へと向かうあらゆる物語的欲望、つまり、プロット、テーマ、歴史、真理などの物語的な意味が作用を及ぼすさまざまなレベルを運動という水平的な方向において認めている。これにたいして、バルトにとって、スチール写真的なものが与えてくれるものは、反物語的なもの、つまり、物語diegesisの前進的な運動をいわば逆転させ、物語の一貫性を散種的な一連の変移へと霧散させてしまうような一見すると無目的な細部なのである。
この反物語的なものは、映画によるリアルタイムのイリュージョンに抵抗するものであり、この点をバルトは映画的なものであると見なす。しかし、スチール写真の機能は、たんに運動に対立させられるだけではない。むしろそれは、残りの物語の部分の「物語的な地平」という文脈において感知されるのである。こうした物語の地平を背景にして、スチール写真は自らの内容を繰り広げることになる。ただし、スチール写真がバルトの言う「分節不可能な第三の意味」、あるいは「鈍い意味」を生み出すことになるのは、この物語的な地平と取り結ぶ否定的な関係においてなのである。もし絵画や写真がこうした物語的な地平を奪われており、他方でスチール(写真)がこうした地平を内面化させるのであるなら、それは、「映画という実体からの抜粋」であることによってではなく、むしろスチールがそれ自身垂直的に読まれなければならないような第二のテクストの断片であるからこそなのである。こうした読みは、シニフィアンの順列組合的な遊動にたいして開かれており、それはバルトの言う、「単なる連続、行き当たりばったりの結合…を裏返し、内部から逃げさる構造化作用に到達させるあの偽りの秩序」を生み出すのである。彼が理論化しようとしたのはこの順列組合的な遊動なのである(15)。
クリス・マルケルの《ラ・ジュテ》のような映画――これは、スチール写真から全体が構成されている――のことをそうした理論化の実践例を示すものと考えてもよいかもしれない。というのも、《ラ・ジュテ》は映画のなかのラスト・シーンのイメージを舞台に上げることにかかわっているからである――そのイメージのなかで主人公は自分自身の死という、不可能なかたちで中断させられ、不動化させられた瞬間に自分自身が居合わせているのを目にするのである。このイメージは物語によって設えていくこともできるヴィジョンではあるが、最終的には突如として静止へと至る「スチール写真」としてしか実現することができないものなのである。しかし、この映画は、静止性に焦点を合わせているにもかかわらず、強度の物語性を帯びている。《ラ・ジュテ》は一連のフラッシュバックが引きのばされたかたちで進展していき――記憶のイメージは、各々、時間の流れとともに把握されていき、しだいに減速して停止するに至る――、ゆっくりと、だが容赦なく進展していき、映画の始まりにあった主人公の死を一瞥した経験が取り戻され、説明可能なものになる。実際、この映画は、クライマックスへと向かう独特な方向性の面から見れば、「終わり」の文字が暗いスクリーンに静止したかたちで示される際の――どの映画にも見られるような――フレーム化の瞬間を映画の本質と見なそうとしているのである。この「終わり」の文字が呈示される際には、全てを包括し全てを説明する意味の構造が産み出されて、そういう意味の産出として物語は神格化されているのである。
これとは逆に、コールマンの作品の多くは、まるで最後にカーテンコールのために俳優たちが舞台に居並んだような形のエンディングというものを惹起させている――事実《生きている死者と仮想の死者》は、45分間そのような居並んだ人々を示したものにほかならない。もちろん、作品の内部では、こうした人々はいかなる大団円も欠いたまま、終わりにあるもの〔終局性finality〕として何度も舞台に上げられているのである。彼らは、スライドそのものに具わる運動の欠如を強調すると同時に、最後のカーテンコールのイメージを、バルトがシークエンスという物語的地平に対してスチール写真の順列組合せ的な遊動と呼んだものへと変えていく(図1と2)。事実、コールマンのこの作品は、順列組合せという発想をもとに構想されている。というのも、連続して登場する人物たちの並びはアルファベット順(アバックス、ボラス、カパックス等)で決められており、彼らは作品を通じて自分たちの位置を変えることだけしかせず、ひたすら水平な並びによって謎めいたさまざまな人物集団を形成しているからである。
コールマンの作品において、物語的地平は写真のシークエンスという剥き出しの事実そのものによって記されているが、そればかりではない。そうした写真の多くは、次のようにして個々のイメージによるコード化を施されているのである。つまり、個々のイメージが、他のタイプの物語的担い手、はっきり言えば、フォト・ノヴェルによって生み出されたものという感覚を与えるのである。しかも実際、コールマンが、スライド・テープという物理的支持体を、最終的にはメディアと呼びうるようなものが帯びるべき明瞭で形式的な反省性も具えた条件へと変容させようとする際に掘り下げられているのは、まさにこの源泉、最も堕落した形の大衆「文学」――大人にとってのコミック本にあたる――なのである。
というのもコールマンは、まさにフォト・ノヴェルの文法のなかに、芸術的手法〔convention〕として展開することのできる何かを見出すからである。それは、作品の物理的支持体の性質に由来しており、またそうした物質性に表現性を与えてくれるのである。この要素を私は「ダブル・フェイス-アウトdouble
face-out」と呼んでおく。これは物語のなかの連続したシーンのなかで――例えばフォトノヴェルや、写真ではなくてもコミック・ブックのなかで――目にされるある種の舞台設定であり、とくに2人の登場人物がドラマのなかで向かい合っているシーンで目にされる。映画の場合は、視点の編集、つまり、一方の人物からもう一方の人物へとカメラを切り替えたり、一方の人物の台詞と他方の人物の反応を織り合わせることでそうした〔視線の〕交換を扱っている。しかし、スチール写真から構成されている書物は、そうした贅沢なことはできないし、効果のために写実性を犠牲にしてしまうこともできない。なぜなら、一方から他方へのカットの切り替えに多数のショットが必要になり、そのために物語の進展は際限なく膨らんでいってしまうからである。したがって、フォト・ノヴェルでは、リアクション・ショットはそれを誘発したアクション・ショットとひとつにさせられ、その結果、2人の登場人物が同時に登場することになる。そこでは、行動の起点となる人物が背後にいて、リアクションを示す人物のいる前景を見つめているが、後者の人物は別の方向を向き、フレームの外へ視線を向けているということになるのである。フォトノヴェルもコミックブックもひとつのフレームのなかでショットとリヴァースショットが投影されるが、そこに見出される事態とは、ダブル・フェイス-アウトというものが、2人のうちのひとりが他方を見ていないという仕方で対話を表す手法、最高に張りつめた強度の感情を帯びた手法がここで示されているということなのである。
コールマンの企図にとって、ダブル・フェイス-アウトがドラマのイリュージョニズムと結びつかなくても問題ではない。重要なのは、それが自らそのメディアの構造に目を向けさせている方法である。ある水準では、この作用が発揮されるのは、物語的なものというまさに横糸に鑑賞者を拘束している映画的作用という縫合線を、ダブル・フェイス-アウトが転覆させていく場合である。視点の編集が持つ機能、つまり縫合線が示しているのは、ドラマの空間の内部の随所に視線を向けるカメラに観者が同一化していくということである。この同一化作用のせいで、鑑賞者は、イメージの外にいるという外部の立脚点を去り、映画のなかに視覚的にも、心理学的にも織り込まれ、縫合されていってしまうのである(16)。
しかしコールマンは、こうした縫合を拒否し、そうすることによって、自らが用いるメディアのもうひとつの視覚的な側面、つまり具象性を欠いた平面性というものに向かい合い、それを強調することができる。彼の作品は写真に基礎を置いているがために、平らな面のうえで濃密な生を繰り広げさせるという方法以外の手段を採ることはない。この意味で、ダブル・フェイス-アウトに具わる平面性は、視覚的な領野というものが写実性や真正性といった約束を実現することが不可能だという反省的認識の象徴となり、それゆえにまた別の重要性を帯びていくのである。
コールマンの作品の中にダブル・フェイス-アウトが頻繁に出てくることから、彼が発明しようとしているメディアに具わる文法的な構成要素として、そうした手法がきわめて重要だということが分かる。この手法〔convention〕は、メディアを視覚的な次元において分節していく働きをするだけでなく、同様に、サウンド・トラックの水準においても作用を及ぼし、それが視覚的次元に重要度を付け加えているのである。例えば《イニシャルズ》のような作品では、語り手が、まさにこうした手法を詩によって記述したような問いかけに何度も立ち戻っている――「なぜあなたは眼差しを次々と向けては…逸らし、…ということを繰り返しているのか?」と。
この問いがイェーツの『The Dreamings of the Bones』から引用されているということ、このことから――そう主張されてはいないものの――コールマンが、メディアを成型する際に利用される低次の素材をいかに重要なものと見なしているかが分かる。というのも、コールマンが目を向けているのは、現在では時代遅れのもの、つまり原始的なスライド・テープやフォトノヴェルという堕落した大衆-カルト的な担い手などのローテクな支持体ではあるが、それは、戦後のアヴァンギャルドが行ったような非芸術的なガラクタの外観をパロディとして採り入れるという遣り方ではないし、スペクタクルという疎外された形式を痛烈に批判するという手法でもないからである。つまり、既存のメディアの類にはもはや可能性はない、という確信を彼は抱いているのではない。むしろコールマンは、メディアの発明に向けて、自分の手法のために支持体を掘り下げていこうと試みているのであり、そうした試みは、その都度採り入れられる支持体そのものに具わる救済的な可能性を明らかにする方法なのである。もちろん、同時に――ここで強調しておくべきだが――すでに商業化された支持体の「内部で」メディアを生産するという彼の姿勢は、最初から、こうした発明の場が芸術という所与の特権的空間となるのだという考えを否定しているのでもある(17)。
註15 「もし映画的なものが…運動の中にではなく、分節されない第三の意味のなかにあるとすれば、つまりそれは単なる写真や具象絵画も物語的な地平…を欠いているので引き受けることのできない第三の意味にあるとすれば、映画の本質であるとされる《運動》は活気や流れや動性や《生命》や模写では全然なく、ただ単に、順列組合せ的な展開という枠組みでしかなくなる。そこでスチール写真の理論が必要となるのである」『第三の意味』
註16 視点の編集と縫合についての古典的なテクストはジャン=ピエール・ウダール「カメラと縫合」である。
註17 シンディ・シャーマンの写真実践において、恋愛コミックや童話、ホラー・ストーリーなどといった写真とは別の物語形式を喚起し続けるために、「フィルム・スチール」が採用されているというのだが、私たちの見方では、〔彼女の試みには〕バルトが『第三の意味』で理論化している物語的な地平に対するある種の順列組合せ的な遊動というきわめて一貫性のある、持続した別の実践が含まれている。
7.複数性のメディア
フォトノヴェルというものをバルトは「第三の意味」に接近するためのいくつかの文化的現象のひとつであると言っている。そこではシニフィアンが物語を背景にして作動させられるものの、それが物語に仕えることは決してない。バルトは、いわゆる「逸話化されたイメージ」というこうした諸文化現象は皆、物語的空間のなかで鈍い意味を産み出すのだと言うが、よりにもよってその中から彼はフォト・ノヴェルを選び出している。彼はこう言う、「こうした高級文化の底辺で誕生した《芸術》は、理論的な質を具えており、(鈍い意味と関係する)新しいシニフィアンを示してくれるのである。これはコミックに関しても認めることができる」。「しかし私としては、ある種のフォトノヴェルと向かい合ったときにこうした意味形成性(significance)のあの軽い外傷を覚える。「その愚かさが私を感動させる」のだ(鈍い意味をこのように定義することもできる)」(18)。
しかし、バルトの挙げるこうしたピクトグラムの例のすべてが文化の底辺に由来しているわけではない。エピナルの版画は、19世紀に人気があった安価で色つきの木版画であり、これは上で述べた条件を分け持っているが、他方、カルパッチョの《聖ウルスラ伝説》やステンドグラスという一般的なカテゴリー等、バルトのリストに挙げられる他の例はそうした条件を分け持ってはいないのである。
おそらくこうしたさまざまな対象間の関係性を正当化し、なおかつ十分に満足いくものにしてくれる文脈は、――ベンヤミンと同様に――バルトがプルーストにたいして抱いていた深い忠誠心であろう。『スワン家の方へ』の冒頭や、若きマルセルが寝室の壁に投影されたマジックランターンのスライドに魅惑される場面を考えてみればよい。光り輝くイメージの夢見ごこちの性質は、幼年時代に物語的な発明品を子どもが産み出すさまざまな能力が結びつけられて、それが後にマルセルがコンブレ教会のステンドグラスの前にひざまずくゲルマント侯爵夫人を目にする際の光景を準備することになるのである(19)。
ベンヤミンの場合も、彼にとってマジック・ランターン・ショーが複雑な力を与えられているということが議論されてきた。ファンタスマゴリアは、イデオロギー的な投影のまさに具現化であると見なされてきたばかりではない。それは、イデオロギーを転倒させたイメージを生み出すものとも見なすこともできるであろう。つまり、ファンタスマゴリアはたんに反映的であるだけではなく、構築的なものでもあり、マジック・ランターンは物語的な水平線に抵抗するような、子どもの順列組合せ的な力のためのメディアなのである(20)。事実、マジック・ランターンは、ベンヤミンの思考のなかでは時代遅れの視覚装置のひとつとして役割を果たしている。例えば(ベンヤミンの弁証法的イメージのモデルである)ステレオ式幻灯のように、それはファンタスマゴリア的なものを逆撫でし、技術化された空間全体の外部を生み出してもいるのである。
同様にコールマンにとっても、こうしたマジック・ランターン・ショーという源泉は、由来としては商業用のスライド・テープに根ざしているものの、彼の企図にとって中心的なものになっている。それによって語られるのは、こうした技術的支持体に貯えられた想像的な能力であり、それは科学技術の装備自体が時代遅れのものとなって崩壊する瞬間に突如として取り戻すことができる能力なのである。スライド・テープをメディアとして「発明する」ということは――私の主張はこれこそ彼の目論んでいることだということである――、こうした認識的な能力を解き放ち、そうして技術的支持体そのものの内部にある救済的な可能性を発見することなのである。
ベンヤミンの『写真小史』は、すでに写真発明後10年間にはあった「アマチュア」的な状況を取り戻すべく当時行われた写真実践を記述している――断っておくが、彼は「アマチュア」という語を、戦後のアヴァンギャルドが能力のない者を指すべく与えたような意味では用いていない。むしろそれは美術との、専門化されていないという意味での非プロフェッショナルな係わりを示しているのであり、これをベンヤミンは理想とみなすのである。ベンヤミンは、『複製芸術論』の1年後に書いたテクストのなかでそうした理想を喚起している。つまり彼の「第二帝政期についての書簡:絵画と写真について」のことである。これは『ダス・ヴォルト』誌のモスクワ版のために執筆されたが結局出版を拒否されたテクストであった。このテクストのなかで彼は、初期写真のアマチュア的な地位を印象派以前の状況に結び付けている――印象派以前の状況下では、芸術についての理論と実践の双方が、アカデミーによって維持されていた連続的な言説の領野から生じていたのである。クールベがこうした連続性の内部で活動した最後の画家であると言いながら、ベンヤミンは次のように印象派を最初のモダニズム運動として描写している。つまり、彼らは、スタジオに拠点を置く秘教的な態度を追求し、結果的に彼ら芸術家の専門的なジャルゴンが、批評家による専門化された言説を生み出すことになり、またそうした言説に依拠することになってしまった、と(21)。ここでは再び、写真発明後の最初の10年というものが、写真というイメージが商品として硬直化させられてしまう以前に帯びていた約束、つまりそれが解放と発明のメディアであるというような約束として、作動させられるのである。
1935年にベンヤミンは、〔さまざまな技術的形態が〕衰退していく際には、〔そうした〕さまざまな形態が生まれた時点で孕んでいたユートピア的な夢が――瞬間的にせよ――ありうべきかたちで示されている、と述べている。彼が写真に政治的な可能性を強く主張しているとしても、それは、(1931年と1936年末に書いた)『複製芸術論』を挟んだ2本のエッセイでベンヤミンが写真の誕生を描き出すやりかたであったわけではない。そうしたエッセイに認められるように、写真は、幼年時代の認識的な能力に係わりをもつし、またメディアになるという約束を解き放ちもするのである。今や写真が衰退している現在において、写真は私たちにこうした約束を想起させてくれる。ただし、それは写真そのものやその他の芸術メディアの回復ということではない。むしろそれは、ベンヤミンが以前に語っていたこと、つまり、(ミューズが複数いるということからも分かるように)芸術というものが必然的に「複数的である」という事態の回復なのである。それは哲学的に統一された大文字の芸術とは疎遠なものである。普遍的なものによって包摂化し、そうすることで死に至らしめるという道程を逃れ、むしろ特殊なものを拾い上げていくメディア概念、こうした概念が現在必要だということは、このような形でも述べることができるのである(22)。
註18 バルトはクリステヴァの意味形成性という用語を用いて、意味(シニフィエ)を逃れ、しかもその代わりに快楽に開かれた身体のリズムや物質性を記すようなシニフィアンの作用を指し示している。
註19 プルースト自身はスライドによる投影をステンド・グラスに喩えている。「するとその幻灯は、ゴシック時代の早い時期の建築師兼ステンド・グラスの頭領たちにならって、部屋の不透明な壁を、触知できない虹色の輝き、多彩な超自然の顕現に置き換え、そこに現われるいろんな伝説は、あたかもちらちら揺れて瞬間に消えるステンド・グラスに描かれているかのようであった」プルースト『失われたときを求めて』
註20註21 文献指示のみのため省略。
註22 これも省略。