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写真史/写真論の展開 前川 修 |
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後者の問題について。写真家を作家として讃える「写真における芸術」の、「芸術における写真」に対する姿勢は著しく冷淡なものでした。つまり、写真を源としながら、二種類の芸術が独自の展開を遂げ、受容者から展示構成にいたるまで相互に無関係な状態にとどまる。 こうした展開にはいくつもの時差や時間を見てとることができます。 60年代から70年代にかけての写真と芸術の布置のさらなる重要な契機が、写真論の登場です。バルトやソンタグの写真論は、芸術写真ではなく、60年代の写真における芸術が前提にしていた、社会における写真を批評の対象にしています。彼らは、ある種の社会的記号として写真を理解し、写真と制度、写真の神話性、スペクタクル性に照準を合わせます。 彼らの写真論をさらに展開したものとして、多くの写真批評家(ソロモン=ゴドー、クリストファー・フィリップス、ダグラス・クリンプ、ロザリンド・クラウス)やアーチスト/写真家(バーギン、ロスラー、セクーラ)の理論的活動があります。「写真はそれ自身、断片的で不完全な発話」であり、「その意味はつねにレイアウト、キャプション、テクスト、呈示される場所と方法によって方向づけられる」(セクーラ)、この「方向付け」の機能を分析することが70年代以降の写真論や写真実践の核になります。さらにこの動向を受けながら、70年代から80年代にかけて、ポストモダンの芸術において写真を用いたさまざまな試みが行われます。それは、「引用、パスティシュ、アプロプリエーション、反復、シリアリティ、間テクスト性、作者の死、アレゴリー、断片」(クリンプやクレイグ・オーウェンスの言葉)などの特徴の前面化でした。この時期の「芸術における写真」の、60年代のそれとの大きな相違は、後者では真正で客観的な社会的記録としての表象の問題が批判的されていたとすれば、70年代半ばには、消費文化の中にすでにある無意識的なイメージと化した写真の検討、その批判的流用へと実践が移行しているということです。ある種の自然性や外部性や無意識性のメディアである写真の媒介作用、言説的性格が前景化される。 しかし、こうした経緯を見ると奇妙なことなのですが、この分裂しつづけた写真芸術/芸術写真の双方が、今ではどちらも美術の言説の中に摩擦なく共存しています。ここに欠落していったものは何なのか、それを「アーカイヴ」と「ヴァナキュラー写真」というキーワードを掲げる二つの写真論から考察し、シンポジウムのテーマに対しての私の見方を提起しておきたいと思います。 ひとつが、アラン・セクーラのアーカイヴ論です。詳細は省きますが、「芸術における写真」、「写真における芸術」、「社会における写真」は、言うなれば三つのアーカイヴであり、その間で滞留し、流動する写真とは、複数のアーカイヴのあいだの実は不安定な力学を顕在化させる媒体となる可能性がある。この可能性が現在切り詰められている。 もうひとつが、ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論です。彼は、写真を単数形ではなく複数形の写真として扱うよう提案しています。彼が扱うのは芸術写真の観点から扱われることのなかったヴァナキュラー写真です。そこには、内と外、私的公的、メディア間の境界、諸感覚の間の境を踏み越えるような別種の写真の契機が強く現われる。これを手がかりに彼は、写真史そのものを複数化させる論を展開しています。写真のさらなる複数化とその相互の接続、これが彼の論点です。 (以上061124縮約版) |