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de
Duve,Thierry Time Exposure
and Snapshot: the Photograph as Paradox |
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[紹介]
(加筆訂正予定です。粗紹介を残しておきます。)
ド・デューヴのこの写真論は、いわゆる写真の内在分析である。一見すると、その方法は、ごく単純化されたものではある。だが、それは、写真が孕んでいる独特な時間と空間の結びつきを解析し、その知覚に伴う情動の力学について明晰に分析を行っている。しかも芸術的な写真からではなく、日常的に写真を目にする際の違和感を出発点にしている点でも面白いものである。(見出しは紹介者によるもの)
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◆写真は事象か、それとも像か?
写真はいったい「出来事(事象event)」なのか、それとも「像(picture)」なのか、この問いが最初に提起される。つまり、私たちが写真を見るとき、この2つの志向がない混ぜになった感覚を抱いている。一方で、写真を見て、そこに撮影されている事象へと関心を向けるものの、その映像=事象が凍りついた、ぎこちない形姿をしているために、不自然な感じを受け、それゆえ違和感を感じる場合がある。私たちは通常このように時間が凝固してしまった様子を目にすることはないからである。また他方で、写真が事象への参照を止め、見る者にある種独特の反復的回帰(想起)を引き起こす場合もある――ここでは事象の時間は停止し、その代わりに、或る種の仮設的な時間が支配する。
ド・デューヴは、この2種の志向を典型的に示す写真を挙げる。一方が、――先ほど挙げた「像」に対応する――露出時間の比較的長いタイム写真、とくにその具体例が「葬式写真」であり、もうひとつが、これとは対照的なスナップ写真、とくにマイブリッジが撮影した馬のギャロップの写真(のうちの1枚)である。私たちは、葬式写真を見るときに、撮影されたものがすでに死んでいること、つまり現実の生のなかでは時間が停止してしまっていることを知っている。何かがすでに完了し、この前後を欠いた停止しか残されていないという感覚、それは、スナップ写真では強力に作用する時間の流れとは根本的に違う時間の様態を含んでいる。この種の写真は、彼が言うように、「舞台裏では停止した生を舞台上で引き延ばしている」のである。 他方で、――「事象」に対応する――スナップ写真は、動作中の被写体を捕らえる。この種の写真は、葬式写真とは逆に、――もともとは生を捕らえることを意図するものの――舞台上で生を中断させる。写真の上のぎごちなく「凍りついた形姿」は、舞台裏の生の流れ、生の行程をつねに参照しているから「ぎこちなく」「凍りついて」いるように思えるのである。 このような写真の2つの知覚のあり方は、相容れないものではあるが、どのような写真の知覚に際しても共存している。両者は、弁証法的に総合されて矛盾を止揚されることはない。それは各々、いつまでも矛盾を引きずり、パラドックスを提起しつづける。これが、私たちが写真に抱く未決定な心理的揺動の原因なのである。両者は特別な例ではない。
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◆スナップ写真のパラドックス
もう少し、スナップ写真の孕むパラドックスを見てみよう。ド・デューヴによればそれは、運動中の物を捉えているはずなのに運動感に乏しく、しかも――その運動は現実の中ではすでに遂行し終えられているのに――写されたものが現実にはあり得ない姿勢で石化しているという事態である。こういう不自然さは写真的記号のもつ特性に由来しているのである。ド・デューヴはこう言う。
「写真という事例では、指示物が、考察中の記号体系から除外されていないということを意味している。たしかに常識的な見方はイメージを現実性から区別する。しかしなぜ、常識的見方は写真を前にすると消失し、写真に生や死にかかわるそのような神話的力を負わせるのだろうか?
それは、たんにイデオロギーや素朴さの問題ではない。現実性がまさに実際にイメージのなかへと分け入っているのだ。指示物は、記号が指示するものであるばかりでなく、それが依拠しているものでもあるのだ。」
言わずと知れた「写真=インデックスとしての記号」という考えである。像と現実の独特な癒着、そのためにスナップ写真にたいする違和感は生じるのである。スナップ写真のパラドックス、そしてタイム写真のパラドックス、この両者を、ド・デューヴは写真=「インデックス」という考えに基づいて、写真の知覚の構造を説明しようとする。
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◆<表面的系列>と<現実指示的系列>
「…私たちは、写真を理論的に記述してみるためには、通常の記号論的用語とはすこし違った語彙を導入すべきである。写真の記号学的構造を、2つの系列[セリー]の接合点に位置づけられるものだと考えてみよう。(ここでは、系列という語を私がここで選択したことが正当か否かを示すべきところではない。それは、力動的な線のようなものであって、この2本の線の交差が、〔写真の〕構造的空間あるいはマトリックス〔母型〕を組織するのに必要だということだけ言っておくことにしよう)。
第一の系列は、イメージ−生産的[image-producing]系列である。それは、記号学的対象としての写真を生み出す。現実から抽象された、いわば写真の表面のことである。私たちはこれを<表面的系列>と呼んでおこう。第二の系列は、現実−被生産的[reality-produced]系列である(考慮に入れられる唯一の現実が写真を撮るという行為によって枠どりされた現実だという意味で、これを現実−生産的とよぶ者もいるかもしれない)。
この系列は、
物理的記号としての写真を生み出す。それは、光学的因果性によって世界と結びつけられている。私たちはこれを<現実指示的系列>と呼んでおこう。」
<表面的系列>と<現実指示的系列>、現実との関係性という点から見れば、分かりやすいのかもしれない。前者は、現実の時間―空間から乖離していく方向をもち、後者は現実の時間―空間とのインデックス的繋がりを持ちつづける。しかも、この両系列は拮抗するのではなく、「交差」する。その交差点に写真が位置し、それこそが写真的知覚の奇妙さの源なのである。
ド・デューヴは、スナップ写真へと話を戻す。 スナップ写真のパラドックスとは、事象の生を捕らえるものでありながら、それが未遂行の運動と不可能な姿勢を示すということであった。ド・デューヴは具体例として、マイブリッジ撮影の馬のギャロップの写真を挙げている。ここには典型的なかたちで、「未遂行の運動と不可能な姿勢」というパラドックスを見て取ることができる。19世紀のリアリズムというイデオロギーゆえ芸術家たちは、視覚的現実性を伝えるための規則を探求し、カメラに多大な期待をしていた。彼らにとってカメラは誤謬なき眼であった。しかし、彼らの目の前に現れたのは、馬の運動の本質を伝えるものの、現実感のない、運動感のない凍りついた形姿でしかなかったのである。ただし、このような矛盾は写真の知覚一般が孕むパラドックスにすぎない。写真を見る人は、時間的文脈からは切り離された、永遠に凝固した形姿へと赴くべきなのか(表面的系列)、それとも凝固した事象の前後との繋がりと、つまり時間の文脈のなかで事象が生起する様へと関心を向けるべきなのだろうか(現実指示的系列)。この二者択一の非決定性こそが上で述べられた逆説の要因となっているのである。この点は、あとでもう少し詳しく分析される。
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◆サンタグム(現実指示的系列)とパラディグム(表面的系列)
ド・デューヴはさらにこの2つの系列を別の言葉で述べている。
「写真の現実指示的系列は、純粋にサンタグマティックであり、他方で、表面的系列は、絶対的パラディグマである.。…ここでは両者の弁証法は生じない――もちろん両系列が一点で交わるのではあるが。言葉を換えれば、このようにして私たちは、写真を眺めつつ、この選択の未決定という経験を生き抜くのである。つまり、私たちはその事柄(あるいは記号、あるいはその名前)を捕らえようとする。例えば、馬のギャロップ、と。しかし、その事柄は現実指示的系列では生起しない。事実、現実指示的系列は動詞のみを含んでいるのである。例えば、馬がギャロップする、というふうに。あるいは、もし私たちが動詞、流動、運動を捕らえたい場合に目にするのは、それ〔動詞、流動、運動〕がそこ〔イメージ〕から逃れ去ってしまったイメージなのである。表面的系列は、名前、形、静止しか含まない。このパラドックスは、両系列の交差点で始まる。そこでは両者は捩じれて、不自然な…記号を形成している。これはロラン・バルトが写真の「現実的非現実性」と呼ぶものを説明している。写真は外側の生を盗み、それを死として返す。これが、なぜ写真が、どんなにそのリアリスティックな正確さが確実でも、唐突で、攻撃的で、そして人工的にみえるのかという理由なのである。」
サンタグムとパラディグム、動詞と名詞という記号学、言語学の概念を用いながら、スナップ写真の不自然さが説明されるのである。写真には動名詞はありえないのである。
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◆タイム写真のパラドックス
次にタイム写真について考えてみよう。その典型例は肖像写真であった。ド・デューヴによれば、肖像写真は、撮影された者が死んでいようが生きていようが、本質的に埋葬的(葬式的funerary)である。それは、過ぎ去った時代の残余、過去の目印、記念碑、モニュメントとも言い換えることができる。 一方でスナップショットが、現実指示的系列(動詞)から表面的系列(名詞)へという運動をもっていたとしたら、これとは逆にタイム写真は、表面的系列(名詞)から現実指示的系列(動詞)へという動きを持つ。前者が時間の流動を表面へと凍りつかせるとしたら、後者は凝固した時間を解凍する。しかし、その時間は、スナップ写真の場合のように、被写体がとっていたはずの一連の動作を貫く時間とは異質なものである。タイム写真は、レファレント(指示物)の時間を壊死させ、その時間がすでに過ぎ去ったものとして示す。ド・デューヴによればタイム写真の時間とは、「自立的で再帰的な時間性」、「想起の時間」なのである。
「記念碑(Denkmal)
としての肖像写真が永遠に過ぎ去った生の一状態を指し示すとしたら、それはまた他方で、それ自身、記憶のなかで何度もその生を舞台に上げる可能性として提示されているのである。」
そして2つの系列の関係の仕方から、タイム写真とスナップ写真の違いがさらに詳しく述べられる。
「〔2つの系列の関係にみられる〕非対称な相互関係は、スナップ写真をタイム写真に結びつける。つまり、スナップ写真が、元へ戻すことのできない生を盗みとったのに対し、タイム写真は,
まだ一度も受け取られてはいない生を示しているのだ。タイム写真は、スナップショットがするように、過程、進化、通時態としての生を指し示すことはない。タイム写真は、自律的で、非連続的で可逆的な想像的生を扱う。なぜならこの生は、写真の表面以外のどこにも場所を持たないからである。同様の理由から、タイム写真はスナップ写真特有の、表面の―死を枠どることはない。それ〔スナップ写真の生〕は、もはやないとまだないへと分裂する時間のショックなのである。タイム写真は、かつてあった状態としての死を指し示す。つまり、それは時間の固定、屈折、その絶対的零度なのである」。
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◆バルトへの補足
このようにして、2種の写真の知覚の様態から考えると、バルトがかつて述べた「かつて」と「ここ」の非論理的な結びつきは、事柄の半分しか捉えていない、とド・デューヴは言う。
「写真は、時間の通常のカテゴリーを転覆させるだけではない。ロラン・バルトが示唆するように、写真はまた、時間−空間の新たなカテゴリーを生み出すのだ。「こことかつての非論理的な結合」というバルトが言ったことに、私たちは次のようなことを付け加えることができる。バルトのこの定式は、写真のパラドックスの半分しか記述していない、つまりスナップショットの空間−時間しか十分に記述していない、と。タイム写真の空間−時間は,
もう一つの非論理的な結合として記述されることになるだろう。今とそこの非論理的な結合というように。」
「こことかつて」ではなく「今とそこ」の結びつき。「ここ」、「かつて」、「今」、「そこ」、これらの言葉が、さらに先述の2つの系列から成るマトリックスのなかで説明される。以下の説明を理解するには、「今」と「ここ」という直接的な現在性から、これら「こことかつて」や「今とそこ」の結びつきがいかにずれているかを考えてみるとよい。
「ここは、表面的系列をあたかもそれが一つの場所であるかのように示している」。 「スナップショットは時間を表面的系列のなかに閉じ込める。だから、それはもう一つの系列のなかで時間が解けでることを可能にする。かつては、あたかもそれが時間であるかのように、現実指示的系列を示す。つまり、現在にくるまれ、現在との連続性のなかにある過去時制として。かつては、…いかなる位置づけも奪われている過去の連続した事象を指し示しているのである」。
「今は、あたかもそれが時間であるかのごとく、ただし、いかなる空間的な結びつけもなく、つまりこことの自然的な結びつきから切断されているかのごとく、表面的系列を示す。それゆえ、それは現在ではなく、…現実指示的な過去から意のままに引き出すことのできる潜在的な恒常的現在ever-presentなのである。そこは、あたかもそれが一つの場所であるかのように、現実指示的系列を示す。つまり、凍りついた時間としての現実指示的過去、流れというよりも状態、だから時間というよりは場所を指し示している」。 もう少しだけ引用を続けておく。
「写真をそれがあたかも瞬間的であるかのように見るということ(スナップショット)は,
表面的系列を空間的に、現実指示的系列を時間的に理解するということを意味するだろう。写真をそれがあたかもタイム写真であるかのように見るということは、その逆を意味する〔つまり表面的系列を時間的に、現実指示的系列を空間的に理解するということ〕。「瞬間的写真」と「タイム写真」の差異は、表面かレフェラントのどちらかの軸にそって空間と時間を交換することであり、あるいは相互的に、時間ないしは空間の軸にそった、表面ないしはレフェラントへの一点への跳躍ということになるであろう」。
写真においては、この今とここの結びつきが切断されてしまう。バルトは例えばこれを「こことかつての非論理的な結合」という定式化をした。「今」とは直接的な繋がりを欠いた、「かつて」あったものが「ここ」にある、という事態、これが写真の異常さの源であった。 スナップ写真において明らかになる写真の知覚様態、表面的系列と現実指示的系列という二系列の交差によって分析すればどうなるのか。スナップ写真は、写真の表面を点として、場所として捉える。現実との参照関係を欠いた表面的系列が空間的なものとみなされる。すべては「ここ」という場所に閉じ込められる。スナップ写真を見る者の意識は、表面=「ここ」を起点として、今度は現在とつながりのあった過去時制――「かつて」――へと現実指示的系列に沿って、写真を眺める。その場合、時間的な前後関係が補われていくが、それが生起するのはつねに時間の空疎な場としての「ここ」である。それゆえにこわばった硬直した形姿という感覚が生じるのである。今とここの一つ目の脱臼のしかたである。 タイム写真では事態は逆である。ここでも「今」「ここ」の繋がりが別の仕方で脱臼させられる。 「今」と「そこ」の非論理的な結合、これがタイム写真の知覚の源である。表面的系列、つまり現実の時間とも場所とも連続性を欠いた写真の表面は、今度は場所としてではなく、ある種堰きとめられた空疎な「時間」として存在するになるのである。つまり、…表面的系列に沿って眼差しは揺れ動く、いわば写真の表面が脈打つように膨張し、収縮する。表面的系列はある種独特な遊離された時間を与える。タイム写真を見る者の意識は、何を終点にするのか。それが、現実指示的系列のなかの1点である。この終点へと跳躍が繰り返し行われる。スナップ写真とは異なり、現実指示的系列の連続した前後の時間性は問題にならない。そこではむしろ、過去の滞った一状態、ド・デューヴが言うように場所(そこ)と見なされた時間停止状態への跳躍が表面としての「今」のなかで際限なく繰り返される。
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◆情動のレベルへ
「時間と空間のカテゴリーにおける捩じれが心理的反応の観点でみて含意することは何だろうか?
私たちがここで扱っているのは、写真の読解ではない。それは、記号論の領域に属している。バルトは、こことかつての非論理的な結合が、写真によって含意された意識の一タイプであると述べる際、この領域にとどまっている。しかし、私たちは、写真の理解にとってもっと基本的な何かを扱っているのだ。そのもっと根本的な側面とは、無意識のレベルにあると言うことができる。しかしもちろん無意識は、読解することにも含まれている。ここで問題なのは、無意識の言語学的構造というよりも、外的世界との無意識の情動的、現象学的かかわりあいである。この側面を再度強調しておく必要がある、それは写真のインデックス的性質に起因している…」。
インデックス的説明がさらに詳しくなされる。ここを指し示す身振りが、スナップ写真を撮ること、それを見ることであるという説明がある。
「ここという言葉は、スナップ写真において具体化される空間を記述するために用いられたが、それはたんに対象としての、私たちがここで手にしている経験的尺度を与えられた事物としての写真のことを言っているのではない。写真はインデックス的転写物(transfer)の、自然的空間への接ぎ木の結果である。だから、それはある種のはっきり指し示す身振りとして作用する。私たちが言っているのは、これ、ここだ、と言うために、人差し指で対象を指す場合のことである。ある意味で、「焦点」を見いだすという活動――つまり、私たちの目の前に広がった世界全体の配置から或る特定の平面を選ぶということ――は、それ自身、
ある種の指差しの身振りであり、インデックス的記号をそれで満たすべきこれthis
one、この地点、ここでの世界の切断面の選択なのである。焦点を見つけることは、この意味で、私たちが手にプリントされたスナップショットをもっている時に意識しているような痕跡やインデックスのありかたの類比物なのである。この現象の両極――イメージのための手段と結果――は、空間そのものの縮約を或る一点で共有している。絶対的なものとしてのここである」。
面白いことに、ド・デューヴはスナップ写真には、よく見られるようなぶれではなく、鮮明さが必須だと言う。
「スナップ写真の美的理想は鮮明さである。写真には、動きを表すためにイメージをぶれさせる傾向の流行があるのだが、これは、スナップ写真に本来備わっている鮮明さへの傾向と矛盾するし、むしろそれはタイム写真の実践と関係している。…写真は、完全には抽象的なものに〔不鮮明でぼやけたものという意味〕ならないのかもしれない。なぜなら、
もし抽象的になってしまえば、写真は現実指示的結びつきを否定してしまうことになってしまうからである」。
そして、写真を物語ることの不可能性、つまり写真による失語症経験が指摘される。
「それ〔スナップ写真〕は読解の手続きに従うことはないのだ。なぜなら、イメージが読まれるには、言語がイメージに適用されることを要請するからである。そしてその結果、今度は、知覚された空間が,
ある種の物語へと展開していくこと…を要請する。…物語を生み出すことができるのではない。言語は、写真の精密に照準を合わせられた空間を前にして作用することはできない。だから見る者は、瞬間的に失語症のままとりのこされるのである。今度は発話が、しゃっくりのもつ鮮明さへと減じられる。それは…両方とも拒否された二つの係留具のあいだに宙づりにさせられている。発話は、かつてをもっともらしい年代記へと展開するために、現実指示的系列へと関係することによって想像的なものへと手を延ばすが、この試みがけっしてフィクションの領域を離れることはないと気づくだけなのか、あるいはそれとも、それが、ここに基づいてもっともらしい遠近法を構築するために、表面的系列に関わることによって象徴的なものに手を延ばすかのどちらかなのである。後者の場合もまた、その試みは、構造的に失敗する運命にある。そのようなショック、象徴的機能におけるそのような崩壊、そのような何らかの二次的過程の失敗――フロイトはそう述べている――は,
或る名前を持っている。トラウマである」。
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◆トラウマ効果とスナップ写真
ド・デューヴの言うトラウマ的な写真とは必ずしも暴力等の光景の写真のことではない。重要なのは、写真がその内容ゆえにトラウマ的なのではなく、その独特な時間と空間の内在的諸特徴ゆえにトラウマ的だということである。例として挙げられるのが、バルトも挙げていた、あのヴェトナム戦争の有名な報道写真である。そこでは警官が兵士をいままさに撃とうとしている。これはたしかにトラウマ的効果をもっている、つまり「こことかつてのパラドキシカルな結合」を示しているのである。具体的に言えば、
「現実の生において、私はつねに遅すぎるために、この哀れな人の死を目撃する、言うまでもなく、それを妨げることができないのだ。しかし、同様の理由から、私はあまりにも早すぎて、悲劇の展開を証言することができないのだ。この悲劇は、写真の表面では、もちろん一度も起こることはないであろうものなのである。…まさに耐えがたいのは、現在時制の突然の消失、同時に遅すぎて早すぎる矛盾への分裂なのである」。
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◆タイム写真という慰撫的=代替的対象
ではタイム写真はどうなのか。その情動はどのようなものなのか。タイム写真はトラウマのアンチーゼである。以下分かりやすい説明が続く。
「タイム写真は、発話をけっして妨げることなく、トラウマを公然と受け容れる。タイム写真においてのみ、写真は自然の連続性を伴って現れる。例えば肖像写真…は、一見あつかいにくくみえるが、跳躍の最中に捕らえられた陸上選手のスナップショットのようには、人工的なものではない。連続性と自然が知覚されると、発話はその知覚を、想像的なものを象徴的なものとかみ合わせ、私たちの現実性との媒介を組織してくれる物語の形式において、思い描くことになる」。
「今という言葉は、タイム写真において含まれている時間性を記述するために用いられるが、それは現実の時間を指し示しているのではない。なぜならそれはこことの自然的な結びつきから抽象されているからである。…それは時間における停止、潜在的な現勢化(actualization
)を負わされた停止として理解すべきである。タイム写真は、場合によっては発話(ないしは内的発話としての記憶)によって実行されるだろうし、おそらく、きっと見ることという時間を消費する行為に根ざしているのである」。
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◆ぼかしとタイム写真
そしてタイム写真の画像の本質は、「不鮮明さ」「ぼかし」である、とド・デューヴは言う。
「タイム写真の美的理想は、このように僅かな不鮮明さ(out of
focus)である。肖像写真の19世紀的スタイルに属している、ぼやけさせられた周界は、二つの仕方での、つまり現前から不在への、と不在から現前への、という、時間の消失の比喩として作用している。写真はたとえいつぼかしの技術を用いようが、それは絵画が伝統的に時間を活性化する手段であるいくつかの特徴を再び手に入れようとしているのである。例えば、明暗法は、形態の背景ではなく、形態の時間性なのだ。そのせいで、時間の織物は緩み、突き出してくる形態が代わる代わる手前に呼びだされては奥へ引っ込められる。写真におけるイメージのぼかしは同じことなのだ。奥行きという絵画的イリュージョニズムが、写真に同様のものを見いだすのは、そのぼやけさせられた周縁ばかりでなく、その全体的色合いという、写真の…展開においてなのである。それによって、観者がイメージをとおって旅行をし、あちこちで立ち止まり、そうする際に、細部のモニュメンタリティを拡大したり、あるいはそれを手放すことができる。この旅に含まれている時間は循環的であり、拡大と収縮、緊張と弛緩の交替に本質がある」。
「この写真の特別な表面的時間性は、記憶の満ち干きと同性質のものである。というのも(葬式写真が典型的に示すように)肖像写真は、その参照を、写真が撮られた特定の時間に限定せず、肖像の人物の生の何らかの瞬間を想像的に再構成することを可能にするからである。(それは写真アルバムの魅力である.
各々の写真が、生涯の目印になる。しかし記憶はこれら目印のあいだに巧妙に入り込み、そのどれに基づいても、この生涯の総体性を打ち立てることができるのだ)」。
「タイム写真は慰撫的対象である。緊張と弛緩のこの運動はまた、フロイトが喪の作業と呼んだものに沿っているのである。簡単に言えば、それは…自分の愛した人物がいまや永遠にいない、そして自分が生き残るためには、誰か他の、何か他の物へと自分の情動をむけねばならない、ということの受け入れを学ぶ過程なのである。この過程において、死亡した者の持ち物だった物のように、あるいは死亡した者のイメージのように、代替的対象が,
現実の要請に従う手助けをするのだ。フロイトの言葉で言えば、このことは或る量のリビドー的情動が、それが固着させられた対象から退かねならず(脱備給)、新たな対象に再び固定されるのを待っているということを意味する。その間、解かれた情動は、一時的に、「リビドーが対象に結び付けられる、思い出や期待のうちの各々一つのものにはりつく」のである。フロイトはこの過程を過剰備給と呼ぶ。私たちは、死亡した者の代替的対象は、
これら「思い出や期待」の表象として働き、そのようにしてそれらそのものが過剰備給されているのだ、と想定することができるのだ」。
これもまた写真がインデックスという現実と癒着した像であるからなのだ。
「写真の記号学的構造の内部では、現実指示的系列は「失われた現実」として作用し、他方、表面的系列は、「代替的対象」として作用する。だから、弛緩的(膨張的)視覚が、形態を呼び出しそれを膨張させる際に行っているのは、写真の表面的系列の過剰備給なのである。そして他方で〔スナップ写真に見られる〕緊張的(収縮的)視覚が、形態を撤回し、それを「殺害する」際になし遂げるのは、現実指示的系列の脱備給なのである」。
両者のリビドーは正反対の流れにある。
「写真の内在的特徴としての、トラウマ効果と喪の過程は、二つの対立的なリビドー的態度を引き起こす。
喪の過程は、メランコリーの過程であり、もっと一般的に言えば、抑鬱の過程である。トラウマティズムのショックについて言えば、それには、現実性に手を延ばす強迫的な試みが続く。その場合、表面的系列が意識から突如として一掃されるがゆえに、それは、防衛的反応として、現実指示的系列の狂的(躁的な)反−備給を喚起するのである」。
「私たちは、写真における時間と空間のパラドキシカルな理解が、私たちが写真にたいしてもつ矛盾したリビドー的係わりに類似しているということを理解できるようになった。前象徴的な、無意識的レベルでは、一見すると、写真との私たちの関係は、あれか−これかの過程がもつような効果をもち、二つの対立的なリビドー的立場のあいだの未決定の揺動に至る、つまり躁的と鬱的の間の揺動に帰着するように思われる」。
「他のどのイメージ生産の実践よりも、写真は、そのインデックス的特性ゆえに未コード化の事物の領域に、そしてまたコード化された記号の領域に属するパラドキシカルな対象を通じて、観者を世界と接触させるのである」。
「スナップ写真とタイム写真は、…教育的モデルにすぎない。しかしそれは、写真のパラドックスの一つを明らかにするのに用いられたのである。これらのモデルは、
技術的規準や美的規準を指し示しているのではない。その関心事とは、写真一般なのだ。しかもそれらは、
私たちの写真についての知覚的、リビドー的理解における二つの対立的態度を分類する助けになったのである。これらの態度は、どの写真を前にしても共存するのであるが、別々に分けて語ることができる。さらに言えば、躁と鬱の交替的特性は、もちろん両方の態度が共存するのではあるが、それが混じり合わないということを示している。写真は、中間的立場を,
あるいは矛盾の弁証法的解決を許しはしないのである。 芸術はまさに終わりに至ろうとしている、というヘーゲルの予言は、1839
年に出版された。それはタルボットとダゲールが銘々、写真の発明を公表したのとまさに同じ年だったのだ。それはたんなる一致以上のものかもしれないのである」。
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