Burgin,Victor

Thinking Photography

 

紹介

 全体として議論としては古い、という感じを強く受けるのですが、こうした古典的であり、まずは基盤となるはずの写真論すら訳されていないという受容状況の異常性にも驚きを覚えます。そうした意味でもきちんと訳していかないといけないのですが今のところ開店休業中。

 


第3章 写真実践と芸術理論

「…昔とは違って、単純なやり方での現実の再現が、現実について何も語らなくなってきている。クルップ工場やAEG電機を写 した一枚の写真は、これらの施設についてほとんど何も明らかにしない。本来の現実は、他のものに左右される相関物になってしまった。人間関係の物象化、例えば工場は、もはや人間関係を見せてくれはしない。だから何かを構築することが、何か人工的なもの演出されたものを構築することが本当に必要なのだ。」 ブレヒト

 このブレヒトの言葉を、ほぼ50年後、ベンヤミンがその論文「写真小史」で引用している。この間の年月には、意味作用のメカニズムが、つまり、現象から意味を構築することに関心を持つ人たちにとってはきわめて重要な働きが、大いに注目されてきた。しかし、映画は別 として、芸術内部におけるそのような理論の影響は、これまでのところ、とてもわずかな事象−「コンセプチュアル」というジャーナリスティックな名札の誘因となった事象−に限られている。コンセプチュアル・アートが行ったことのひとつとは、理論の中心的な重要性を強調することは別 としても、写真を実践のための重要なツールにしたということだ。さらにはそのような運動の結果 、芸術と写真とのあいだのカテゴリー的区別が、根拠の薄弱なもの、重要ではないものとされることになった。今日、諸芸術を分かつ唯一の亀裂が、ロマン主義やロマン主義的形式主義(モダニズム)という美的荷物をいまだに背負った大多数の人々と、そうでない残りの人々との間を引き離しているのである。

 ベンヤミンは、絵画と写真各々の長所にかんする論争を、「本筋から逸れた、混乱したもの」であると正確に記述している。「…それは――その普遍的影響を両者のどちら側も認識することがなかった――歴史的変容の徴候なのである」。一九世紀には絵画や彫刻といった芸術は、危機に陥り、そこから立ち直ることがなかった。それら諸芸術は、民主化の過程によってしだいに社会的文脈から遠ざけられて、さらには写 真という発明品との交替に苦しみ、そして、大量生産の手段のためのこの発明品の利用に苦しむことになった。『複製技術時代の芸術作品』で、ベンヤミンは――機械的複製が芸術作品を自律的対象としての礼拝価値から切り離した際に生じた――芸術作品の機能転換を記述している。彼は、写真もまたこの遭遇において、とくに次のことによって苦しんでいると見ている。つまり、

芸術というフェティシズム的で、根本的には反技術的な概念である。写 真についての理論家たちはほぼ一世紀の間、この概念と格闘してきたが、当然ながらほんの僅かな成果 も挙げることはなかった。というのも、彼らは、裁判官席から写真家のための信任状をもらおうとすることしか試みておらず、[ところが]写 真家がすでにその裁判官席をひっくり返してしまっているのだから」。ベンヤミン「写真小史」

 フェティシズム的で、反技術的な、芸術という概念は、ベンヤミンがこれを述べた当時と同様に、現在も蔓延している。その相関物が、同様にフェティシズム的で反技術的な、意味の生産という概念である。一見すると、写真家たちは−ウサギが草原で見つけられるのとまったく同じようなしかたで−意味が世界の中に見出されうるのだと、しかも必要なのはそれを見つけ出す才能とそれを仕留める[撮るshoot]技量 だけであると、信じているようなのである。言葉に言い表すことのできぬ何かが――それは認識されはするがけっして予め言明されることのないものである――、そのような活動から芸術を導き出し、芸術を生み出してくれるかもしれないのである、と。写真のご都合主義者たちが、ボタンに指をかけて待ちうけているそのような真理の瞬間は、自律的創造性という概念と同様に、大いなる神秘化なのである。

 私が持っているダイアン・アーバス写真集のペーパーバック版裏表紙には、2人の「権威ある人」の意見を見ることができる。1人は「彼女の写真は…社会的現実性よりもむしろ私的な現実性にかかわっている。…彼女の真の主題は、彼女が撮影した人々特有の内的な生でもあるのだ」と言う。もう1人は、アーバスが「伝説」であると告げ、さらに彼女の写 真についてこう言う。「思うに、彼女の写真の源は、その威厳なのだ」と。今日でも浸透しつづけているこのロマン主義的な美的態度に典型的なのは、事物や人々のうちには、通 常は現象によって私たちには隠されているが、芸術的天才であればそれを私たちに明示することのできる、比類のない本質が存在するという考えである。そのような考えに浸透された「批評」に典型的なのは、すでにはっきりと意識されない[vague]ものについては曖昧な態度をとることで満足する、という態度である。

 それではアーバスの写真について考えてみよう。例えば、図3・1(b)は家族の、おそらく社会の中の最も重要な基本的構造単位 の写真である。家族生活の望ましさ、「親密さ」、そして喜びは、この単位 を正当化し、支えていくうえで中心的重要性をもつ概念である。広告や大衆紙、テレビ、そして商業映画といった世界では、何らかの家族の視覚表象に出会うことなしに1日を過ごすことは難しい。そのような表象のひとつが、アーバスのヴァージョンに並んだ42頁の(図3・1(a))に載せられている。[この表象については]これ以上のコメントは必要ない。あるいはまた、第二列の一連の図版を考えてみよう。ここでアーバスの写真(図3・2(b))は、表現されたポーズをひとつの共通要素としてもっている。このポーズは、すくなくとも原理的には、[男性の側からの]近寄り易さと結びついた、性的望ましさを表す慣習的記号である。この記号の起源はおそらく他のところにあるのだろうが、私たちの時代においてそれは「悩殺写真」の視覚的語彙のひとつである。その一例は43頁に載せておいた(図3・2(a))。アーバスによるこの形式の引用は、通 例ではありえない内容との融合によって、皮肉なものになっているのだ。

 しかしまた、アーバスの一卵性双生児の写真がもつ効果は、ちょうど横に並んだ雑誌写真(図3・3(b))が逆にその主要な要素間の間の非類似性から効果 を得ているのと同様に、主として<類似性>そのものの効果である。それは、一方で「天才」の問題ではないし、他方で「真実の瞬間」の幸運なスナップショットでもないのである。 重要なのは、これらの写 真が生み出すかもしれない「気分」と「感情」の基礎が、それらの写真が伝達すると見なされるかもしれない公然とした「メッセージ」と同様、何か個人的なものや神秘的なものに依拠するのではなく、むしろ私たちがもつ、浸透した社会的事実や価値を表す典型的表象についての共通 の知識に依拠しているということだ。つまり、対象がイデオロギーを伝達し、変容する仕方についての、そして今度は写 真がこれらを変容する仕方についての、私たちの知識に依拠しているのだ。そのような作用を知るには、まずはカメラの前の対象の中立性についてのいかなる幻想も取り除かなければならない。


 自明のことだが、写真が生じるのは、光があってそれを反射する物体が存在するばあいである。この物体とは、私たちの周囲の物理的な世界という材料のことである。そのなかで私たちは固い素材と柔らかい素材、生きた素材と無生物の素材などを区別 している。つまり私たちは物理的な事物を区別しているのだ。たしかに、写 真はこれらの「事物」の像を与えてくれる、しかし事物は私たちにとってはけっして単純に事物であるのではない。人は自分の物理的欲求を外面 化して、自分のまわりの事物に使用価値を与える(例えば食用のものを食用ではないものに対立させる)。さらには、人は周囲の世界に介入し、自らの労働をつうじて、自然において与えられた材料を改良する。最初は粗い物理的な物である石が、ある時にはハンマーになり、またある時には斧になる。斧とハンマーは、同じ対象のシステムに属しているといわれるかもしれないが、そのシステム内部では、両者はその類似性にもかかわらず、観察可能な特徴にしたがって−一方が鋭利ではなく、他方が鋭利である−差異区分される。これらの特徴は、その実際の用法および潜在的用法の記号であると同時に、それらに加わった人間の活動の痕跡でもある。それがもはやただの岩の破片ではないのは明らかなのだ。両者は、たしかに実質的には同一ではあるが、今や形式的には区別 されている、つまり意味を担っているのだ。さらに言えば、周囲の世界における、以前は「無言の」石はすべて、投影された意義を今や重ねられている。例えばこの石は、ある面 で−例えば黒曜石のばあい−硬質で、だから「斧に適している」のであり、この石は−例えば御影石のばあい−固くて重く、だから「ハンマーに適して」おり、そしてまた別 の石は柔らかく脆いので、「洗浄に適している」というふうに。

 物体に課せられた差異は、音に変形される。鈍さbluntnessと鋭さsharpnessというヴァリアントは音のヴァリエーションの慣習によってはっきりと示されている。人間が生み出す叫び声そのものは、当初は粗野な物理的「音の素材」であるが、ある時には「鈍い」という語になり、またある時には「鋭い」という語になる。物質的生産と言語の生産は、どちらも周囲の世界に命令をするという同じ欲求に由来している。労働者は、自分の素材を区別 し、構成するしかたを習得しなければならない。彼は自然であるもの(石、叫び声)を文化的なもの(斧、言葉)へと形成する方法を学ばねばならないのだ。言語は他の数々の人工品のひとつであり、人が周囲の世界を組織する数々の道具のひとつである。それは周囲の世界のなかである種の作用を及ぼすために用いられるツールなのだ。しかし、それは二重に特権化されたツールである。言語は、あらゆる道具的操作を社会化する手段を与えるばかりでなく、これらの操作を文化の内部に位 置づける抽象作用を構築する手段をも与えるのだから。

 対象は、それが知覚されるまさに瞬間に、諸々の関係からなる知的体系の内部に置かれる(現実はカメラの前で無垢なのではない)。つまり対象はイデオロギーの内部に位 置を占めるのだ。イデオロギーということで私が意図しているのは、−最も広い意味で、所与の社会の中で世界およびその事象のもつ現実的な、実際のところ必要不可欠な性質を記述しているのだ、と一般 的に受け容れられているような−、自然的、社会的世界についての諸々の前提の複合体である。イデオロギーとは、日常生活の自明と見なされている諸現実の総体である。つまり、個々の意識がもつ予め与えられた諸々の決定、個々の行動の投影のための共通 の参照枠である。イデオロギーは無限に多様な形態をとる。だからイデオロギーにかんして本質的な点は、それが偶然的であるということ、そして、その内部では偶然性という事実が抑圧されているということなのである。

 私たちが古典的マルクス主義の言う意味でのイデオロギーに出会うのは、[イデオロギーが]この歴史的で偶然的なものを自然で不変のものと見なす点においてである。この意味でのイデオロギーの本質とは、個々人が自身の実際の生活状態についてもつ「虚偽的意識」をイデオロギーが表しているということだ。例えば、マルクスは、労働が公正に賃金で買われているという、工場の所有者および工場労働者の双方に共通 している信念は神秘化である、と明言する。この幻影は、−商品の価値がそれに投入された労働に左右されるのだから−、工場所有者は権利上、労働者に属するものを利潤として専有しているという事実を隠している。利潤とは未払の賃金なのである。そのような考え方は、浸透したイデオロギーに埋めこまれているのだから、それはまた浸透した言語形態においても具体的に表されていることになるだろう。例えば、資本や通 貨の投資によって人が「お金を作る」と言うのはありふれたことだ。しかしこれらの人々は、どのような文字どおりの意味でもお金を作ってはいないのである。お金を作るのは英国造幣局の仕事なのだ。しかも彼らは富を生み出してはいない。それは、生産的労働にたずさわる人々が行っている。それゆえに、「お金を作る」という表現は、富がふたたび専有[appropriate]されるだけだという、言葉にできない事実を、神秘化として、無からお金を呪文で呼び出すある種の妙技として、示しているのである。

 人工品の諸形態、そしてまた同様に言語の諸形態も、イデオロギーを伝達するのに役立っている。もし衣服がたんに機能的であるだけなら、私たちが中国の人民服の静態的画一性や、キングス・ロードの衣装の動感あふれる画一性を目にすることはありえないだろう。世界に現れる、これら各々のうわべは機能的な物品は、ヴァリアントの対象として分類され、対象のシステムのなかへと統合される。対象のヴァリアントの範囲が大きくなるほど、意味論的可能性は豊富なものになる(東側世界よりも西側世界の自動車のほうが、もっと多くのことが「語られる」)。それはたんに「ステイタス・シンボル」−浸透してはいるものの、同様に曖昧である概念−の問題ではないのだ。社会の総体的イデオロギーは、その物理的対象の生産と消費に刷り込まれている。自然の風景でさえもイデオロギーによって専有され、人間中心主義的な見方で、「美しい」とか「敵意のある」とか「ピクチャレスク」だと言われるのだ。

 だから私たちにとって現実性を構成するこれらすべてのことが、意味を孕んでいるのである。これら意味は歴史の偶然的所産であり、要するに私たちのイデオロギーを反映しているのである。私たちはこのことを、知覚の瞬間ではなく、理論的反省という行為において認識するのかもしれない。スティーヴン・ハースはそれをこう述べている。

「意味は、まったくの受容というレベルでは、逆説的なことだが、どこにでもあるし、どこにもないことになるであろう。意味がどこにでもあるというのは、つねに即座に理解可能な現実性というまったくの明瞭さの点にあり、そして意味がどこにもないというのは、この現実性が直接的なものとして生きられ、大文字の現実と同型的、同時的なものとして生きられているという点にある。つまり認識の過程が再認の過程へと引き下げられている点にある」。

 分離された中立的現実と主体とのこのような隔絶−フッサールはそれを「自然主義的態度」と呼んだ−は、レンズをつうじて世界が見られるときに拡大される。世界は、ビューイング・スクリーンを地にして一枚の平面 へと圧縮され、そしてファインダーによってすっきりした長方形へと細断されて、さらにそれ以上に遠く隔たったもの、そして不活性なものとして経験されるのである(報道カメラマンは銃をつきつける兵士の「ショット[銃撃]」によって殺されている[のに])。しかしカメラの前でうわべは無防備に見える世界の中立性は、欺瞞なのだ。カメラに呈示される対象は、すでに意味の生産のなかで<用いられている>し、だから写 真はそれらの意味に働きかける以外の選択肢を持たないのだ。そのばあい、存在するのは、写 真的意味生産のなかでの「前−写真的」段階なのであり、これが説明されなければならないのである。

 対象を意味論化し、そしてまた自分の伝達的意図を隠すという人間の矛盾した衝動は、ロラン・バルトの多くの著作での主要テーマである。『神話作用』ではバルトは、マルクス主義に着想を得た、市民社会の集合的表象−写 真、見世物、料理、報道など−への批判を呈示している。市民階級、つまり「名指されることを望まない社会階級」は、自らのイデオロギーを「自然」として−この本では「神話」と呼ばれている−示しているのである。バルトはこの「自然」の体系的な脱神秘化を試みている。「体系的」であるのは、神話が、バルトによれば、伝達の体系、ひとつの形式となっているからである。それゆえ、神話的対象をその実体に基づいて差異区分する試みは重要ではないことになるだろう。「神話的対象」というまさに概念は、それが仕えている体系についての知識なくしては基礎づけられないのだ。だから、「神話には形式的な限界はあるが、実体的な限界はない…世界のいかなる対象も、閉ざされ沈黙した存在から、言語的状態へと、社会による専有に開かれた状態へと移行するのである」。

 バルトが神話的ことば[speech]について与える例のひとつが、フランス軍の軍服を着た若い黒人がまなじりを上げて敬礼している−「おそらく翻る三色旗に注目しているのだろう」−様子を示した『パリ・マッチ』誌の表紙である。バルトはこのイメージの文字どおりの意味は明白だと述べる。それは黒人がフランス式の敬礼をしているということだ。「しかし、素朴であろうとなかろうと、私はそれが私に意味している事柄をよく分かっている。フランスは偉大な国家で、その民は肌の色の区別 なくその国旗に忠誠に仕えているのであり、いわゆる植民地主義と中傷する者にたいしては、いわゆる圧制者に奉仕する際にこの黒人が示す熱意が最良の答えなのだ」。

 ここでは、あたかも自然的な意味がイメージから吐き出されたかのようである。ただの空の形式に変換されて、そのイメージはいまやイデオロギー的内容を受け容れるべく働く。しかし私たちがこのような観察をする瞬間にさえも、文字どおりの意味が回帰してくる。ちょうど、運転している最中には同時にフロントガラスとその向こうに見える風景に焦点を合わせることができないのと同様に、私は同時に文字どおりの意味とそのイデオロギー的動機づけとを捕まえることはできないのだ。これらの動機づけは「回転木戸」において捉えられる。

「意味は形式にとっては、歴史の一時的貯えのような、手に入れた富のようなものになり、それは一種の、急速な入れ代わりの連続において、呼び出したり遠ざけたりできるものなのだ。…神話を定義するのは、意味と形式とのあいだの、この絶え間ないかくれんぼである」。 

 文字どおりの意味は、バルトが言うには、神話にとっての「アリバイ」として役立つ。

 「アリバイ」、「回転木戸」、「かくれんぼ」といった、直観を保持するためのこの山盛りの比喩は、お馴染みの戦略である。しかしバルトはこれを越えてさらに、比喩的ではない言い方で意味の生産作用を把握し、神話が個々の現象とは独立した構造的な関係において作用する方法を記述しようとする。この目的のために彼は言語学の提供する図式に目を向けるのだ。

 言語的モデルにしたがった社会現象の構造的記述の形成、これは「構造主義的」戦略とみなされるかもしれない。ここでは、いわゆる構造主義の領野を概観する場所ではない。明らかなことだが、いかなる現象も、それが完全に不定形のものではないとすれば、構造的な観点で記述されるかもしれないのだ。だから「構造」という言葉についての思弁によって得られるべき、構造主義についての洞察はほとんどないのである。事実私たちは、「構造主義はそれに関与しない人々にとってのみ存在する」という意見に同意するかもしれない。だから強調しておくべきなのは、以下に続くのが、構造主義についての記述ではなく、構造主義的分析の一側面 の、ひとつのタイプの記述だということである。とくに、主としてロラン・バルトと結びついた分析タイプ、もっと特定すれば『神話学』、『記号学原理』、『モードの体系』のバルトが記述される。構造主義が1960年代に少なくともフランスではそのような流行を享受したのだから、今ではなおさら、これらのテキストにはほとんど注意を払わなかった人々には、それをまず「時代遅れのもの」として片づける誘惑が大きいものになっている。しかし、他の科学的公準と同様、構造主義的分析の古典的枠組みは、もっと多くを約束する一連の仮説に取って代わられるまでは「危なっかしくも生きている」のだ。バルト自身が述べるように、

「もし人が社会科学を一貫した、網羅的で単純な言語活動(イェルムスレウの経験原理)、つまり操作だと定義することに同意するなら、新たな科学はどれも、その前にあった高次言語を対象とする新しい言語として登場し、しかも、これら高次言語の「記述」の根元にある「現実の対象」をねらっているのだ。社会科学の歴史はこのように、ある意味で、高次言語の通 時態であり、−もちろん記号論をも含む−すべての科学は、やがてそれを語る言語という形で、自らの死の種を内蔵していることになる。」

 ここで要約されるテキストは、他のところで広範に議論されてきており、今では記号論の歴史のひとつである。しかし私は、それを現在の文脈で<再>呈示することについて何も弁解しない。なぜなら、イギリスとアメリカの芸術と写真の理論や実践は、まだこの理論に遭遇していないからだ。


 1966年の出版物でバルトは次のような意見を述べている。

「言語の問題が現今において傑出していることを苛立たしく思う人もいる。彼らはそれを余計なファッションだとみなしている。…しかし、私たちは、ちょうど宇宙空間を発見する過程にいるときのように、言語を発見しなければならない。今世紀はおそらくこの二つの探検によって特徴づけられることになるだろう」。

 『記号学原理』でバルトは、暫定的ながら、構造主義言語学由来の記述モデルを、自然的言語とは異なる意味作用の体系へと一般 化することを勧めている。「ここで呈示される『記号学原理』は、言語学から分析的諸概念を引き出すことを唯一の目標としている。これを私たちは独自の記号論的研究を開始するのにじゅうぶんな一般 性をもつとアプリオリに見なしている」。バルトが自らの出発点にするのは、スイスの言語学者ソシュール−その『一般言語学講義』は1916年ソシュールの死の3年後に出版された−の仕事である。『講義』のなかでソシュールはこう言う。

「記号の生を研究する学を考えてみることができる。それは、社会心理学の、そして最終的には一般 的心理学の一部になるであろう。私はそれを記号論[semiology]と呼ぶことにする(ギリシャ語のセメイオン(記号)に由来する)。記号論は記号を構成するもの、記号を支配している法則を示すことになるだろう。この学はいまだに存在しないゆえ、誰もそれがどんなものになるのかを言うことはできない。しかし、それが存在する権利はある、あらかじめ割り当てられる場所が存在するのだ」。ソシュール『講義』

 ソシュールは、言語学がたんに記号学というこの一般 的学の一部になるよう運命づけられていると予言している。ソシュールの50年後、バルトは次のような意見を言う。

「記号論は、非言語学的な材料を出発点として作業するものの、遅かれ早かれ、途中で言語(この語がもつ普通 の意味合いでの言語[比喩的な意味での言語ではない])を対象にしなければならなくなる。それも、たんなるモデルとしてではなく、構成要素、中継あるいはシニフィエとしてである。しかしそうではあっても、ここでいう言語は、言語学者の言う言語とまったく同じものではない。すなわち、それは、記号素や音素を単位 とするものではない第二の言語である。それはむしろ、諸々の対象やエピソードを指すディスクールという、もっと大きな断片なのである−その意味は言語の下に横たわっているが、ただし、言語なしではけっして意味が存在しえない−。したがって記号学は、おそらく「超言語学」なるものの中に吸収されるべきものであろう。…事実、私たちは、ソシュールの提唱をひっくり返す可能性に向き合わなければならない。すなわち、言語学が記号の一般 的な学の一部−たとえ格別重要な一部だとしても−なのではなく、記号学が言語学の一部門なのである」。バルト『記号学原理』

 『記号学原理』は、四対の二項対立概念についての議論を中心にして構成されている。それはこの本の四つの章の見出しに挙げられている。つまり、ラングとパロール、シニフィアンとシニフィエ、サンタグムとシステム、デノテーションとコノテーションである。最初の三対はソシュールの『講義』由来のもので、最後の一対はデンマークの言語学者、イェルムスレウの著作に由来している。各章でバルトははじめに言語学的概念についていくぶん詳細に記述をして、それから言語学外の応用の可能性を示唆している。

[ここからは『記号学原理』の章立てにしたがった解説なのでひとまず省略。写真について言及された部分のみ紹介する予定。]



 
ラングとパロール

 シニフィアンとシニフィエ

 サンタグムとシステム

 デノテーション(外示)とコノテーション(共示)











 



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