Geoffrey Batchen.
 
Vernacular Photographies


前川 修; 
「Photography」から「Photographies」へ――紹介に代えて――

 すでに何度か紹介したバッチェンの写真論抄訳。かなりの分量であるため、途中で端折った部分も多々あることをお断りしておきます。太字の番号は註、青字は図の番号,また機会を見て適当な図を挿入するかもしれません。なお文中で挙げられている事例のひとつ「fotoescultura」については次のリンクを参照してください。
La Vitrina-Visual Arts-Foto-esculturas

※※※

 ヴァナキュラー写真とは、地域限定で制作されただけの美的価値の乏しいとされる写真、あるいは画像の透明性や画像の芸術性を価値基準にした見方では無視されてしまう写真のことを指している――装身具としての、調度品としての、儀礼のアイテムとしての写真。
 ただし、彼の議論の方向は、従来の写真史のなかにヴァナキュラー写真という新たな次元を編入したり、写真の価値基準を転倒させたりという素朴な試みではない。写真史が前提にしていた価値体系を再度鋳直すことになるような手がかりをそうした現象から拾い出し、既存の写真「Photography」という枠組みを複数化し、そのための方法論的な手続きを探していく試み…その現状報告といった性格の論稿である。

 もちろんその着地点ははっきりとはしていないし、最後に意味の記号論を持ち出してくるだけでは不満に思えるかもしれない。しかし、その突き抜け方は読んでいて気持ちがよい。通常、ヴァナキュラーなものをめぐる議論は特定の地域の特定の主体の特定の歴史に引きずられ、結局は主観的=客観的なコンテクストを再認することで終了してしまうことが多い。バッチェンの議論は、そうした大団円=閉鎖性〔closeness〕を飛び越えていく。また、そうした議論を補うべく、個々の写真の細部を検出し、そこから写真の現出形態、写真という物体と見る/触る者という身体との交錯を語り、写真の語り方を複数の経路へと分岐させてもいる。

 以前『Burning with Desire』を紹介した際に気がかりであった論点が少しずつさらに展開されていっていると見なしてもよい。

 こうした数々の迂路を介したうえでならば、ヴァナキュラー写真論(略してヴァナ・フォト論)の可能性は、予想以上に大きなものなのではないだろうか。

☆ちなみに上に、ソンタグ『写真論』からスキャンしたダゲレオタイプの画像を貼り付けておいた。原書では画面の縁一杯まで入っているが、邦訳では入念に縁が抹消されている。

(2001年3月末)


目次

○ヴァナキュラー写真とは?
○写真史の無視
○パレルゴンとしてのヴァナキュラー写真
○先駆的研究
○写真史の重力の中心へ
○形態学
○ダゲレオタイプというモノ
○インデックス
○肖像写真の生と死
加筆=消去による形の現出
ダゲレオタイプ――写真の触覚――
装身具としての写真――写真の触覚――
幾何学的な配列
アルバムを見る=触ること
調度品としての写真
ヨーロッパの外へ
○ヴァナキュラー写真をいかにして説明するのか?



ヴァナキュラー写真とは?

 どのようにすれば写真にそれ固有の歴史を取り戻させてやることができるのだろうか? どのようにすれば私たちはこの写真史を、――写真という媒体そのものがそうであるように――、物質的な基礎を備えたもの、幅広い概念性を具えたものにすることができるのだろうか? ここでおそらく私たちが出発点とすべきなのは、つねに写真史から除外されてきたものを考察するということになるであろう。つまり、制作・購入された(時には購入された後に譲渡されることもある)ありきたりの写真のことである。これは、1839年から現在に至るまで美術館や学問の中ではなく、家庭や人々の心の中心に場を占めていた写真である。細心の注意を払ってケースに入れられたダゲレオタイプ、撚り合わせた髪の毛で美しく飾られたアンブロタイプ、ティンタイプの肖像写真つきの証明書、金属製のメダルにエナメルで焼き付けられた人の顔写真、写真が一面にプリントされた枕や布団、スナップ写真のアルバム、教会での結婚式の模様を伝える出席者全員のパノラマ写真、ペットの犬のフォーマルな肖像写真、最後の釣旅行に出かける父親の姿を映し出すランプの傘、ブロンズの靴とセットになった赤ん坊の写真、子供の写真で美しく飾られたマグカップ、カメラに微笑んだ女友達のスノードーム〔snowdome〕、こうした諸々のものは、写真に備わるごくお馴染みの側面である。しかしそれは、あまりにも馴染みのものであるため、写真史の批評的な眼差しからはほとんど無視されている。こうした事例には、さらにインディアンのアルビュメン・プリントから彩色やフレームを施されたアメリカのティンタイプ、メキシコのフォトエスクルトゥラ〔fotoescultura〕、ナイジェリアのイベジ〔ibeji〕に至るまで、同様に無視されてきた多数の世界各地に固有のジャンルや実践を付け加えることができるであろう。こうした実践をすべて合わせて考えてみると、ありきたりの、そして/あるいは地域限定の制作物というものは、ヴァナキュラー写真という扱いにくい領野を表しているのである。これは、そのための適切な歴史がまだ書かれていない、これから書かれなければならない卑俗な〔abject〕写真なのである。(1)



写真史の無視

  なぜヴァナキュラーな写真は、写真史の伝統的な説明のなかではほとんど注意を惹かなかったのか、その理由を説明するのはさほど難しいことではない。19世紀や20世紀前半に著された写真史での説明は、対象としてさまざまな写真をおりまぜて取りあげていた。しかし、20世紀後半には、ほとんどの写真史は写真という媒体の芸術的な方向性に焦点を合わせ、それ以外の事例は――それが形式主義的な美術史のストーリーを補ってくれない場合には――除外しているのである(2)。ヴァナキュラー写真は、こうした写真史による分類に抵抗する。それは、匿名の人々、アマチュア写真家、労働者階級によって、時には何人かの手によって、――あるいはさらに悪いことには――愚鈍な商業的儲けを目論む人々によって制作されている。こうした事物としての写真のほとんどは、現在の市場では希少なものでもないし、金銭的に価値があるわけでもなく、感傷的な常套句による反応を引き起こさせるという以外、何ら知的な内容を持ち合わせていないように思える(3)。都合が悪いことに、そうした写真に特有の形状や形態は、写真の美術史が要請するような様式や一貫した技術的進展というラインに従うことを拒否するのである。ヴァナキュラー写真は、おなじみの巨匠やずば抜けた美的達成物という物語を台無しにしてしまい、滑らかな流れで語られる欧米的な先入観を壊してしまう。要するに、ヴァナキュラー写真は、写真の「パレルゴン」なのであり、それは、以上のような写真史の企図に適ったものとそうでないものをきちんと区別するために周縁部へと押しやられてしまう(あるいはさらに忘却されてしまう)写真史の一部なのである。



パレルゴンとしてのヴァナキュラー写真


 それゆえ、写真史の中には空白部、不在が存在することになる。ここで私たちが語っているのは、単なるヴァナキュラー写真そのものという不在(写真史のなかにヴァナキュラー写真が含まれていないということ)ばかりではなく、そうした不在について説得力をもって説明してくれる言葉の不在でもある。ジャック・デリダは、これと同じような裂け目をカントの『判断力批判』のなかに指摘している。この本のなかでドイツの哲学者カントは、「純粋な趣味判断のための適切な対象」から、「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの(装飾、額縁、彫刻の衣襞、宮殿の列柱、いわゆる「パレルガ」と呼ばれるもの)」を除外しているのである
(4)。つまり、写真史家と同様、カントも周縁的なものが優位を占めたり、それが本質的なもの、つまり趣味の「適切な対象」と見なされているものから逸脱してしまったりすることを認めないのである。もちろん、彼が念頭に置いていた事柄とは、両者を区別するということであった。しかしカントは、そうした試みを行うにつれ、自分の哲学の下部構造全体が切り詰められていくことにしだいに気づいていくのである。写真史家の場合も事情は同様である。彼らは、ヴァナキュラー写真を無視するしかない。なぜなら、それを直接扱うならば、自分たちの歴史的な判断方法には浅薄な部分があることが明らかになってしまうし、そうした歴史的な判断が基礎を置いている自分の芸術作品観が明らかになってしまうからである。それゆえクレイグ・オーウェンスが示唆するように、ヴァナキュラー写真を写真の「パレルゴン」と見なすということは、「新たな美学なのではなく、むしろ、再認されていない〔beyond recognition〕対象、再認されていない芸術作品を変容させる」という骨の折れるが必須である作業なのである(5)



先駆的研究


 もちろんすでにこうした方法を採りはじめている写真史家もいる。マイケル・ブレイヴの『写真――社会史』(1966)、カムフィールド&デアドル・ウィルの『写真の歴史――技術と装備』(1980)、ハインツ&ブリジット・ヘニッシュの『写真的経験1839−1914』(1994)等は、それぞれ通常行われている美術史的な年代列挙をやめ、写真実践全体を含めて記述しようと努力している。こうした先駆的な努力には、さらに雑食的な蒐集家によるカタログを付け加えておくことができるであろう(例えば、『写真を省みる1839−1902年――コッター・コレクション・カタログ』(1973)やリヴァーサイドのカリフォルニア写真美術館といった比較的慧眼な機関が出した『コレクション・ガイド』がある)。また、例えばシェダン・スタジオ撮影の写真についての研究(1983)、『失われた結婚』というスタンリー・バーンズの彩色ティンタイプの伝統についての1995年の本、ジェイムズ・ワイマンの1996年の写真用背景についての展覧会、クリストファー・ピネイの1997年のインド写真文化の人類学的研究など、これまで無視されてきたヴァナキュラー写真のジャンルに注意を向ける専門研究も出はじめている。概説的写真史のなかにも、カルチュラル・スタディーズからの広範な影響を示しはじめているものもある。例えば、マッティ・ブームとハンス・ローズブームはアムステルダムのリュークス美術館の写真コレクションについての研究(1996)のなかで、特徴的なジャンルによる区分を試みている(「風景、建築と都市、芸術の複製、美術館と記念建造物、人類学と人類学的なタイプ、出来事、科学」等)。ミシェル・フリゾの『新しい写真史』(1995)では、ゲルンシャイムやニューホールが打ち立てた境界線を越えて、視野を拡張していく努力がなされており、ありきたりの写真についての――非難されているとしても――目の利いた章をこの本に含めている
(6)



写真史の重力の中心へ

 こうした例はすべて、写真史という領野を考え直すための重要な契機になる。しかし、私たちが試みなければならないことはそれ以外にもある。ヴァナキュラー写真を写真史一般の組織原理と見なし、写真の「ヴァナキュラーな」理論が推し進められるようにしていくということである。これまで制作された写真のうち、ヴァナキュラー写真が大半をなしているが、こうした事実にもかかわらず、このような試みはいまだに行われていない(もちろん、芸術写真がほとんど言及するほどの数ではないということがこの試みの理由となっているのでもあるが)。もっとも、こうしたヴァナキュラーな作品が注目に値するというのには別の理由もある。「パレルゴン」としてのヴァナキュラー写真は、写真というメディアの歴史的、物理的同一性を規定している不在の現前なのである。それは、そもそも写真というものは何かということを決定しているものなのである。したがって、写真とその歴史を真に理解するためには、その歴史が抑圧しようとしているものに注意深く目を向けなければならない。さらに言えば、ヴァナキュラー写真は、写真(集合としての写真Photography)内部に潜むさまざまな差異を思い起こさせることによって、ただひとつの写真〔Photography〕だけではなく、複数の種類の写真〔photographies〕が存在すること、またこれと同じくさまざまな変化に富む歴史的な方法論と修辞学が必要とされていることを明らかにしているのである。言葉を換えれば、ヴァナキュラー写真はこれに適したヴァナキュラーな歴史の創出を要請している。こうしたことはすべて1本の論文で述べる分量を優に超えている。したがって、私はこの論文で、数多くのヴァナキュラー写真の実践に共通しているひとつの特性に焦点を合わせ――写真の形態に具わる可能性に関して新たな仕方で説明を行う――、またひとつの場所、つまり家庭という領野に焦点を合わせることにしたい。こうした試みは、私が今現在継続して取り組んでいる研究――写真の概念的、歴史的、物理的同一性という複雑な事態についての研究――の一部なのである。



形態学

 形態学とは、写真史のほとんどが無視してきたさまざまな問題のうちのひとつである。事実、写真が目に見えないものであると見なすこと、つまり写真が指示物に対して透明であると見なすこと、この前提が長い間写真史において自明なものとされてきた考えであった。私たちは誰でも写真を見る際に、それがあたかも何か外の世界にただ開かれただけの二次元的な窓であり、それを通じて眼差しを外に送っているかのようにふるまう。このようなことは写真を知覚をする際には必ずといっていいほど前提にされている。写真が写しているものを見るには、写真とは何であるかという意識を私たちは抑えなければならない。その結果として、どんなに洗練された議論のなかでも、写真そのもの――調査されるべき実際の対象――が分析から除外されるのが常なのである。ヴァナキュラー写真は、別の道筋をたどる。それは、しばしば写真がヴォリュームをもち、不透明であり、触覚性を備え、世界の中に在る物理的な事物存在であるということを明らかにしている。多くの場合、こうした事柄は、写真行為のなかで、あるいは写真行為の途上で分け入ってくる写真の被写体も含むことになる。写真の被写体はこうした介入によって、私たちに写真の形態学に注意を向けさせ、そのようにして写真を通じて〔through〕ばかりの見方以上のことを可能にしてくれるのである。こうした意味で、ヴァナキュラー写真という対象は、感覚的、想像的な制作物であるばかりではなく、思慮を喚起させ、写真一般の性質というものを刺激的に考察させてくれるものであると見なすこともできる。



ダゲレオタイプというモノ

 写真の物理性について意識すること、このことは、例えば、初期写真――例えばダゲレオタイプ――の制作工程に必ず含まれている特徴である。銀を張った感光性のある銅板に依拠していたダゲレオタイプの画像は、あまりにも繊細であり、物質的にも不安定であるため、直に手を触れることはできなかった。それゆえ、その画像は、絹やヴェルベットで裏打ちされた革のケースにあたかも貴金属品のように収められていた。ダゲレオタイプのケースは、それ自身、しばしば浮彫細工を施されたり、風景が描かれていたり、内部に柄が入っていたりした。場合によっては、本の形をしていたり、青貝などの高価な素材で覆われていた(図1)。もっと後に製作されたケースの場合は、熱可塑性の素材で造られ、そこには愛国主義的な場面を浮彫で施すこともできた。こうしたものは、目を悦ばせると同時に、指を刺激したのでもある。ダゲレオタイプは、明らかに製作者たちが内側と外側といういくつもの面を持つ対象として構想したものである。しかし、ほとんどの写真史は、画像のみを切り離し、それを図版にしている(7)。こういったことは、ダゲレオタイプ特有の経験の多くを排除してしまう。ダゲレオタイプは、金属とガラスと木と革が結び合わされたものであり、それを手にしたときには重みを感じさせる。これは、それとは気づかない形で、ダゲレオタイプを構成するさまざまな要素の重力の中心となっていたのである。おそらくこうしたことが理由となって、ダゲレオタイプの画像には、これまたダゲレオタイプを手にした人々の画像を手にしている人々の画像が数多くあるのであろう――ケースが閉じている場合もあるが――。時としてこのケースは、現に私たちが手にしている当のケースである場合もある。私たちは〔画像に写ったケースという〕外側を見るために〔手にしたケースの〕内側を見ながら、つまり視覚と触覚を折り重ねながら、内側と外側を重ね合わせて同じ知覚経験をする。まるでそこに写された人々が注意を喚起しているのは、そこに写った特定の人の姿なのではなく、写真一般に具わる対象性、つまり記憶を保つ機能を備え、人々の心を慰撫する事物の堅さであるかのようなのである。


 ほとんどのダゲレオタイプは手にもって眺められる。そのため、そうした見方に相応しい大きさになっている。私たちは、ケースに付けられた小さな留め金を外して、この対象が定めた要請に従うことによってのみ、内側にある画像に出会うことができる。そして画像は、金で装飾されたマットに覆われ、磨き上げられた鏡の輝きとともに私たちを見つめるのである。ダゲレオタイプは、ネガでありポジでもある。したがってその画像は、光に対して45度の角度に向けて取り扱わなければならない。ダゲレオタイプの画像が目に見えるようにするためには、手と目が協働しなければならない。画像を概観する際には、必ず画像の物質感が伴ってくる。手で触ることを意図した写真は、私たちに触れ返し、その肌理のある表面で私たちの皮膚の毛穴をかすめることになる。こうした身体と物体の相互接触において、私たちは再び画像というものが対象でもあるということ、シミュレーションというものが物体と不可分であるということを喚起させられるのである。ここで最も重要なことは、私たちが触覚的なものが帯びる視覚的な側面、つまり触覚的なものを視覚によって知覚する際に画像の鋭い力に出遭っている場合でさえ、視覚的なものに含まれる事物性、その厚みや肌理を見させられているということなのである。



インデックス


 写真は、近代の文化のなかでは特権的に扱われている。というのも、他の表象システムとは違い、カメラはただ世界を見るだけのこと以上を行っているからである。写真は世界によって触れられるのである。写真はインデックス的記号である、つまり、その指示対象である元々の対象が直接及ぼした帰結として生み出された画像である、と言われる
(8)。それはまるで、そうした対象が手を伸ばし、写真の表面に自らを刻印し、――死者に対するデスマスクと同様に――、元々の対象の輪郭に対して忠実な視覚的痕跡を残すように思える。こうした理由から、写真は、世界そのものの化学的な指紋、自然のメメント・モリである含蓄に富んだ自然自身の描出であると見なされている。事実、写真が圧倒的な力を持つメディアとなっているのは、こうした視覚的なものと触覚的なものとの結びつき、触覚「と」視覚の絡み合いが基礎になっている。それは圧倒的な力をもつが、とはいえ奇妙なことに逆説的なものでもある。ロラン・バルトが示唆したように、「触覚は、感覚のなかで最も魔術的なものである視覚とは違い、すべての感覚のなかでもっとも脱神秘化を行うものなのである」(9)。重要なことには、数多くのヴァナキュラー写真の対象はこうした逆説をはっきりと映しだしている。

 

肖像写真の生と死

 例えば、彩色されて額に入れられたティンタイプがここにある。スタンリー・バーンズが言うように、こうした対象は1860年代から90代にかけて大量に生産されたものである――もっとも、後にこうしたティンタイプ生産に雇われたフレーム製作者、写真家、「民俗芸術folk art」画家は、もっと安価で迅速に制作のできるティンタイプ技術の登場のために職を失うことになるのだが。肖像写真を撮影してもらう人々は、露光に必要な時間、頭を金属製スタンドで支えて座っていなければならなかった。当時の写真から分かるように、撮影してもらう人々は、出来上がりの写真のなかで生き生きとした姿で写りたいのならば、撮影の際にはまるで死んでいるかのようにポーズをとっていなければならなかった。肖像写真というものが例外なく、蝋人形や彫刻のような印象を帯びていたとしても驚くべきことではない。こうしたこわばり〔硬直性〕は、加筆によっても修正することができない。なぜなら、そうした加筆に用いられる色彩は数が限定されたものであり、通常、写真に写っている特徴的な細部をすべて覆い隠してしまうからである。その結果、こうした肖像写真は、現代の観者にとっては単調で、ある意味で同じような表現に見えてしまう。もっとも、おそらく写真の注文主は、ここに芸術的な新しさよりも肖像写真らしさを求めていたのであり、その意味では、こうした写真は彼らの要請に適ったものであった。注文主、つまり被写体は、グレーの地から――まるで視力を失った者であるかのように一点を凝視しながら――こちらにいる私たちを見つめている。彼らの表情や所作は、威厳を備えた定型的な表現形式に従っている。こうした定型的な表現形式は、被写体となった人々の生涯の中で1度だけ起きるといえるかもしれない事柄〔葬式のこと〕にはうってつけである。事実、それ以外の観点から見れば粗末な肖像写真にすぎないこうした写真は、ファラオの墓と同じだけの強烈な目的を帯びつつ、「我を忘れるなかれ」と告げている。このメッセージは、同じような事例のほとんどにおいて被写体が匿名の者であるだけに、それだけいっそう深みのあるものであると感じられるのである。

加筆=消去による形の現出

 こうした肖像写真は、私たちが目で見ていないものを含んでいるゆえに、魅惑的なのである。例えば、そうした写真の例を挙げてみよう。写真は多くの場合、その地のほとんどが顔料で覆われているし、酸を用いて消去されていることもある。出来上がった画像は、入念に額装されてつや消し処理を施されている(これは画像に奥行き=立体感と質感を与えることである)。こうした処理について話している際に、すでに私たちは奇妙に混ぜ合わされたひとつの作品について語っていることになる。つまりそれは、部分的には写真であり、また部分的には絵画、エッチング、彫刻でもあるものなのである。それは奇妙な実践であるとも言える。まず肖像写真を撮影する。これは被写体となる人物の正確な外見を示す保証的なインデックスである。そして次に、こうした保証的なインデックスが不慣れな手つきで顔料を塗られ、その顔料の層のもとに覆い隠されてしまうこともある。カメラに具わる機械的な正確さは現前しているのではあるが――私たちはこれが写真にとって基本的な役割を果たしていることには気づいている――、目は彩色を施した者の手の痕跡しか知覚していないことになるのである。とはいえ、手彩色を施す者がどれほど不器用であっても、私たちが目にする肖像写真は、写真に具わる真理的価値に支えられている。事実、写真の認識論的な存在は、その知覚の不在性によって、いっそう強烈なものとなっているのである。こうした画像は、一見すると単純に思えるが、実際には羊皮紙と同じような複合的な形態である。デリダが言うように、この事例が明らかにしているのは、「ある消去なのであり、この消去が、消去の当の対象であるものを読むことができるようにするのである」(10)

 19世紀において、ありとあらゆる写真に加筆が行われていた(11)。こうした加筆は、しばしば被写体が身に着けた宝飾品を強調したり、被写体の頬に僅かに赤味を付け加えたりするためのものであったが、こうした処理は、それを経なければただ客観的で単調なものにすぎないものになるであろう型どおりのスタジオ写真に、芸術性を与えているのである。ただしそれはまた、しばしば死と結び付けられることの多かった単調な媒体に生き生きとした色味を付け加えることでもある。多くの場合、こうした加筆はまた、金を僅かに施すことによって、成功や繁栄を目に見えて印象づけるものでもあった。さらに加筆は、写真画像、例えばダゲレオタイプの画像を目に従属させるためのものでもあった。磨きぬかれた銀の表面は、地から図が浮かび上がってくる形態〔ゲシュタルト〕の経験を与えてくれる。つまり自分自身の反射像と肖像の両方を人は目にしているのである。顔料の使用は、こうしたきらめく表面を滑らかに覆って不透明なものにし、そうして鏡と画像の間に生じる厄介な揺れ動きを停止させ、知覚的な触覚性を与えてくれる。観者の目は、自分自身が見返している姿を目にして困惑することもなく、写真を手にすることができたのである。

ダゲレオタイプ――写真の触覚――

触覚性を呼び起こす方法はこれ以外にもある。19世紀のありふれた写真に見られるポーズのなかでは、手や触れるということに力点が置かれていたのである。私たちは、ひとりの人物がもうひとりの人物の肩に手を触れている写真を数多く目にする。愛情、確認、連帯、場合によっては支配さえも示している身体相互の物理的な繋がりをこれは表している。メメント・モリの画像〔葬儀の写真〕では、このつながりは時として画像の外側から喚起させられている。一例を挙げると、父親の膝の上に座った少女を写したティンタイプは、彼女の死後、黒のヴェルヴェット地に織り込まれた美しい花輪装飾に囲まれている(図2)。この装飾を造った者の手(母親か姉妹の手)は、このようにして今は亡き者の写真と、つまりそれ自身、少女、光、写真に含まれる化学物質が相互に作用して生み出された残余物であるものと優しく触れ合いつづけることになる。手を触れることは、知覚作用の中である者を哀悼し想起することなのである。また、髪の毛をより合わせて造られた輪止めがケースに付けられ、手書きの文字が書き込まれているダゲレオタイプのケース、ここにも記憶が潜んでいる(どちらも以前は画像の背後に隠されていた。図3)。このケースには、「1859年7月20日フロリダ、オカラにて――この小さき者が今はなき幸福な時代を思い起こさせてくれる――ケイト――…」と書かれている。ケイトの身体の一部は、その身体が刻み込まれた写真の下にあり〔髪の毛〕、それが写真に触れ合うことによってシミュレーションとしてのイメージは現実感を与えられているのである。

装身具としての写真――写真の触覚――

 これと同じような触れる感覚は、写真を用いたさまざまな装身具にも表れている(これもまた、現在の写真史ではほとんど指摘されることがないジャンルである)12。例えば、身体を装飾の一部にしようとした写真がある。ある例では、自分の愛情を示すために、そうしたアクセサリーを袖に着けるのではなくペンダントとして胸元に着けたり、イヤリングにしたりする場合がある。これは文字通り、動きをもたせられた写真であり、…量感やそれを身に着ける者の身体や服の動きを分かち持つことになる。こうした対象は、愛のメッセージとして用いられていることが多い。装身具の中には、表と裏に夫と妻の肖像写真がはめられていて、けっして離れ離れにならないようになっているものもある。…また写真入のペンダントもある(図4)。なかにはペンダントの内側に男性と女性の肖像が入っていて、どちらか一方がそれを開いて愛に満ちた眼差しのもとで照らし出すまで、両者が暗闇の中でお互いに口づけを交わしていることになっているような仕掛けのものもある。19世紀においては、結婚の絆が、額縁入りの証明書の形で確認されていることが常であったが、これには花嫁と花婿を写したティンタイプやアルビュメン・プリント、場合によっては牧師の肖像までも付けられていた。おそらく写真は、すでにこうした事実を確認している署名に、さらにインデックス的な重みを付加しているのであろう。こうした制作物において、写真は宗教上や法律上の儀式に結びつけられ、そしてまたさまざまな誓いの文句、2人のための言葉に結びつけられている。

幾何学的な配列

それぞれ別の機会に撮影された複数の写真がひとつの集合的な対象へと取りまとめられる例は、宝飾品や婚姻証明書以外にもある。ダゲレオタイプ、ティンタイプ、アンブロタイプの肖像写真が、寄せ集められてひとつの枠の中に入れられ、それ自身、ひとつの家族の歴史を示していることも多い。幾何学的に(長方形、正方形、楕円形に)配列されたこうした壁面彫刻は、イメージ相互の潜在的な繋がりを強調している。写真という強烈にリアリスティックなものを非自然的で非模倣的なグリッド状の配置に収めること、こうして出来上がった対象は、――その数十年前には写真という発明品を考える際には必ず連関させられていた――光学的科学が喚起させるような抽象的な空間性を思い起こさせもする。そうした幾何学(写真という捉えがたく反射的なイメージと比較すると、きわめて堅固であり可視的である)は、写真によって私たちが世界から隔てられているということを明瞭に示しているとしても、世界に開かれた窓としての写真というものを惹起させるであろう(13)。ただし、こうした点以上に、写真の配列は、写真に、はっきりとした物語構造を、物語を語る能力を与えるのである(個々の写真ではこうした能力は弱いものにとどまっている)。

アルバムを見る=触ること

これと同じような物語る意志は、写真アルバムにおいても具体的に表れている。ケースに収められた写真と同様、アルバムは、浮彫模様入りの革のカバーという魅惑的な触感的表面を備えている。それは、さまざまな柄や挿入物で装飾されているのである(あるいは大胆にも「アルバム」とタイトルが書きつけられたものもある)。現代のプラスチック製の写真アルバムのカバーでも、こうした表面の触感性を備えている。おそらく、こうしたことは、図版入りの本というものはすべて、中世の祈祷書の末裔なのであり、分厚い装丁を施されてさまざまな装飾で飾り立てられた聖書の末裔なのであるという事実を思い起こさせる。カルト・ド・ヴィジットやキャビネット・カードの被写体の多くが、――聖書かアルバムかは定かではないが、いずれにせよ――書物を手にしている姿で写されているのは偶然ではない。またある意味でアルバムの本質は、家族という単位を確証することであると見なされてもいる。おそらく肖像写真は、それがなければ現前することのない子どもや親戚の代替物となっているのである。

こうしたアルバムのなかには、アルバム自体が装飾スタンドとなるように細工されたものもある。スタンド上のアルバムをめくり返すとその背後には鏡があるといった類のものである(おそらく観者が自分の顔を目の前にあるページに貼り付けられた写真表象と見比べることができるようになっているのである)。また、家庭の祭壇のような形に開いているアルバムもある。この例は、写真の世俗的な能力と精神的な能力との間の境界線を曖昧にしているのである。一般的に、アルバムは、その所有者が、写真を展示したり写真を見たりする方法を創造的に設えていく機会を与えてくれる。イメージが連続的に並べられ、キャプションをつけられ、個々人の思い思いのしかたで想像力豊かに飾られる。私たちは今日、美術館の陳列ケースの奥に展示された、静態的なかたちで歴史的なアルバムを目にするのが常である(そうしたアルバムはかつては写真史の概説のなかではめったに議論されることも、図版掲載されることもなかった)(13)。しかし、アルバムは持ち歩きできる対象であり、つねにそのようなものとして経験されていたのである。ここで議論されている他の数多くの写真と同じように、アルバムの写真は、比較的距離を隔てて眺めるという経験に触覚という物理的な親密さを付け加えることを要請している。さらに言えば、私たちがそうした写真に触れる際には(例えばアルバムのページを捲る際には)、写真はふたたび動きを与えられている――これは文字通り、アルバムを捲ることで写真が空間上を弧を描きつつ動かされるという意味でもあるし、もっと抽象的な意味では、映画のように映像が運動させられるということでもある。例えば、小さなティンタイプを収めたコンパクトなアルバムには、さまざまなポーズをとって並んでいる4人の男のグループばかりを被写体にした写真が貼り付けられている(ある意味で、このグループのうちの3名は自意識過剰にカメラに背を向けている)。こうした写真は、数多くのページに登場することで、書物というフォーマットに具わっている時間的、空間的な可能性を手に入れている。つまり、さまざまなポーズの間の僅かな差異を用いることで、運動のイリュージョンをほのめかしているのである(このイリュージョンは私たちの手がまさに働きかけることで生み出されるのである)。

アルバムはまた、その所有者にイメージ制作の過程に介入するための別の方法を与えてくれる。1860年代半ばにフィルマー夫人などの英国の上流階級の女性たちが制作したアルバムのあるページは、アルビュメン・プリント、水彩画などからなる芸術的なコラージュであり、厳密な左右対称のパターンで配置されていることもあれば、同時代のだまし絵やルイス・キャロルの幻想的な物語を想起させるような一見すると無造作なさまざまな配置をされていることもある(15)。肖像写真の機械的な精確さは、ここでは変容させられ、こうした女性の友人や家族への私的な賛辞の表明、彼らに結びついた夢や欲求の表れへと加工されているのである。コラージュの実践と同様に、ここで注意が向けられているのは、その構成要素であるイメージの縁であり、写真という表象が主張している忠実さや写実性も、過去の書き込みという写真表象の役割も破砕されているのである(こうした写真はページそのものの今と此処の中に置かれている)。フィルマー夫人の場合、左右対称にイメージが配置されたページのひとつは、各々直立させて眺めるように翻案されており、その結果、写真の女性の姿がつかの間ながら直立するようになっている。言い換えれば、こうした所産は制作者の手ばかりでなく観者の手を前提にしていて、それを表象装置の不可欠な部分としているのである。

フィルマーたちのこうした写真に写真史家は注意を向けはじめているのではあるが、いまだに20世紀のスナップショット・アルバムに見られる創造性を彼らはほとんど認めてはいない。こうしたアルバムは、通常の人々に、言葉、文章、写真を芸術的な仕方で結びつけることによって自らの自伝を表象する機会を与えているのである。こうした自伝的映像制作〔bioopticsの主人公は、「私」であることがほとんどである。またスナップショットのアルバムのストーリーの軸線は、この頻繁に撮影された者、撮影されなければ無名の人物に終わってしまったであろう者を忠実になぞっている。家族旅行の写真で始まり、直にそこに若い男性が入ってきて、やがてそのうちの1人が結婚していなくなるまで続くといったように。通常こうしたアルバムはその直後で終わる。例えば、こうしたアルバムの一例を挙げてみよう。それは、1920年頃のミシガンで「ノーム」(家族の一員)が犬のパプを買った時からストーリーを始めている(犬の写真は、犬小屋の形をした線で囲まれている)。このアルバムは始めから終わりまでウィットに富んだ言葉がつけられていて、アルバムの持ち主はそうした文面によって冗談めかしながら、あるいは「あなたと私が17歳だった頃」という歌の楽譜の一部を付け加えることで(このアルバムは愛や生をさまざまな仕方で描き出すのに音も用いているのである)、その登場人物の姿がありありと目に浮かんでくるようにしているのである(「クレージーな夏1922年」)。「クレージーな夏」を表しているこのページは、…思い出の品々…を並べて飾られている。また「ケイト」や「ジーン」が水着姿でポーズをとっている魅力的な写真の切り抜きでも飾られている(16)。ここでもまた私たちは、「脱神秘化させられた写真」のさまざまな可能性を繰り広げ、はっきりとした視覚的な形のなかで自らのさまざまな社会的儀礼を表現しようとする、普通の人々による創造的な努力を目にしているのである。


調度品としての写真

コラージュの要素としての写真の使用はアルバムに限定されるものではない。……19世紀末から20世紀初頭にかけて、家庭では、調度品の一部としての写真に関心が向けられ、数多くの大きな額入りの写真で部屋を飾り(チャールズ・イーストレークはそれを壁面家具と呼んでいた)、机や暖炉が小さな写真スタンドや写真を見るための装置で覆われていた(17)。訪問者がそこでどこに目を向けようとも、執拗に目の前に現れる写真という対象と彼らは向かいあったのである。

これは現在でも多くの家庭で行われていることである。壁面はすぐに子どもの額縁入り写真や結婚式の写真で飾られるようになる。結婚式の写真には独特の歴史があり、19世紀のフォーマルなスタジオ写真にも直接的に繋がっていくし、さらにそれ以前の貴族階級のための宮廷肖像画にもつながっていく。もちろん、結婚式は今日、後の世代のために出来事を記録する写真の存在なしでは完了しない。こうした写真は通常、専門の写真家(結婚式全体のなかで重要な役割を担う人)によって制作され、適切な慣習が維持され、再現されていることを確証している。こうした実践のなかで重要な歴史的人物がアメリカのロッキー・ガンである。彼は結婚式写真というジャンルに色彩と物語を導入した。彼の指導のもと、新郎新婦は空想上の王室の儀式を演じ(新婦はひざまずくなどなど)、回顧的に結婚式そのものへといたる想像上の出来事の経緯を構築してみせたのである。こうして出来上がるのは一連の写真であり、それ以外の部分が失われてしまったフィルムからとられたスチル写真のようでもあった。そこでは、フォーマルな肖像写真はひとつの頂点としての要素にすぎないのである(18)

専門的な写真家はまた、常日頃は聞分けの無い子どもにカメラの前で「理想的な子ども」を演じさせるという役目も担っていた。その結果出来上がる現実離れした子どものイメージは、――しばしばこの世のものとは思えない照明と彩色によって強調されており――、写真以前の絵画的伝統の末裔であるとも言うことができる。そこでは再現表象の正確さよりも幸福や繁栄を伝えるメッセージの方が重要なのである。時としてこうした赤ん坊の写真は、木製の額スタンドに入れられて、ブロンズの子ども靴と組み合わされて祭壇のような形態に設えられ、両親の思い出に捧げられたものとなっていることもある(図6)。これはまた別のヴァナキュラー写真の典型的な戦略である。それは、写真の独自の特性と思われているインデックス性を意識的に二重化している。私たちはすでに同じような二重化を、写真を用いたさまざまな装身具という事例――被写体の髪の毛を組み合わせた写真や、署名入りの婚姻証明書――に共通した特徴を目にしていた。赤ん坊の祭壇写真ではこうした二重化が行われたのは、写真だけではこの特定の対象が捧げられた道徳的な呵責を和らげるには不十分であると両親が思ったということを暗に意味しているのである。



ヨーロッパの外へ

 私たちは、写真に与えられた記憶的な機能についてさらに考察を繰り広げていくが、その場合、アフリカ、ラテン・アメリカ、アジアなど特定の地域に限って行われた写真実践を含めて考えてもよいかもしれない。そうすることで、私たちはヴァナキュラー写真の研究をヨーロッパ中心主義的な世界観という制限的でもあり居心地のよい境界線の外へと連れ出すことができる(19)。こうした制作物は必ずや私たちに差異、つまり文化的差異を語ってくれるし、写真そのものの写真との差異――写真そのものが写真の本質と見なされているものとは異なっているという事態――を語ってくれる。ここでもふたたび形態学が重要な問題となる。Olu Oguibeが私たちに語ったように、ナイジェリアなどの地域では、写真はすぐに既存の葬礼の実践のなかに組み込まれていった。少なくとも16世紀以来、西ナイジェリアのオワ族は死者に生き写しの人形を葬礼のアイテムとして注文し、それに故人の生前の衣装を身に着けさせ、墓所に収めていた。もっと最近では、枚の写真がこうした人形を制作するための基礎とされることもある。興味深いことに、この人形そのものが額縁入りの写真で補われたり、あるいは完全に写真に取って代えられることもある。その場合、この写真が次元的対象と同様の敬虔な感情をもって扱われ、死者を悼むプロセスに用いられるのである(20)

それゆえここに見られる事例は、多様なコンテクストにつながっている(ここで大切なのは、どの媒体が選択されているかということよりも、写真のアイデンティティとは何かがそこで決定されているということである)。スティーヴン・スプレイグはIjebu-remoという地域出身のある彫刻家が自分の飛行機の彫刻を「まるで写真のようである」と語っていると報告している。スプレイグが言うには、その意味とは「そうしたものがただ主題を描写しているだけなのであり、精神的な意義や儀礼的な意義を何も有していない」ということなのである(21)。スプレイグはまた、ナイジェリアのヨルバ族によるIbeji儀礼に写真が導入されるようになったという事態についても記述している。この祭礼はある双子の死を中心にして組み立てられており、それは明らかに、19世紀以前からのヨルバ族における儀礼的実践であった。この実践のなかでは、死んだ双子を表す小さな彫刻像が制作されていた。この彫刻像は、祭壇に置かれ、あたかも生きている者のように扱われ、しばしば世代を越えて受け継がれていた。しかし、19世紀後半以来、写真が、さまざまな仕方で加工されて、時としてこの彫刻物の代わりを務めるようになったのである…(22)。したがって、ヨルバ族において写真は、鋳造し直すことのできる概念、ただ撮影されるというのではなく作られるものとして扱われており、それはある儀礼のコンテクストのなかで3次元的な対象と同様の意義を有しているのである。

 メキシコの職人もまた、写真を彫刻的な形態へと変容させていることで知られている。これまで出版されている写真史ではほとんど注意を払われていないのではあるが、メキシコ人やアメリカ系メキシコ人の家庭の多くは、現在でも「fotoescultura」という特徴的な形をした肖像写真を所有し、家に飾っているのである
(23)。こうした家族の肖像は、1920年代後半から80年代初頭に至るまでメキシコの職人たちによって制作されたものであり、写真――通常は引伸ばしされて彩色を施されたスタジオ肖像写真――と、木彫りの胸像、入念に細工された額、絵具やその他の物による装飾とを結び合わせたものであった。最終的に出来上がるものは、2枚の斜角をつけたガラス板で挟まれる。この最終的な産物は、ヴァナキュラー写真の特徴的で魅惑的な形である。アメリカの芸術家パメラ・シャインマンの調査によれば、fotoesculturaはさまざまな理由から注文された。結婚式やquinceanerasを記念するためであったり、死者を記憶するためであったり、個人を讃えるためであったり、ゲイリー・クーパーからリチャード・ニクソンにいたるまでの有名人のイメージを広めるためであったりもした(24)。多くのものがメキシコばかりでなく、Laredo,シカゴ、ヒューストンといったメキシコ系アメリカ人のコミュニティでも販売された。そうした写真は、第二次大戦中も大戦後も大人気であった。その当時多くの家族が、死んだ息子を記憶に残そうとしていたのである。今日、こうしたものは、家庭の祭壇などの家の一部に置かれていることもあれば、壮麗な墓所に置かれることもある。どちらの場合も、さまざまな他の宗教的、私的な視覚的な素材と組み合わせられていることが多い。

 最近の論文で、モニカ・ガーザはfotoesculturaが独特なメキシコの美的感性を示していると論じている
(25)。彼女が特に指摘しているのは、聖なる特性と世俗的な特性とがどのように融合されているか(例えば、2枚のガラスによる覆いはこうした肖像写真に、聖遺物の場合のような親密な距離感を与える)、そして、そうした肖像写真が――イメージがしばしば文字通りの3次元的な彫刻に作り変えられる――カソリック的な伝統にどのようにして適合していくかということである。ナイジェリアの事例と同じように、私たちは写真が明白な比喩として、それ越しに物を見るものではなくそれ自体が見られるものとして、つまり視覚的な真実ではなく儀礼的な真実に基づいて意味をもつようになる不透明なイコンとして扱われているのである。写真は通常、私たちに、それが撮影された過去について語るのではあるが、fotoesculturaは現在という永遠の地平を占めている。写真が、時間の移り行きという破局を語るのに対し、fotoesculturaは永遠の生を語るのである。それは永続的な静止状態の可能性を、現在というもの充全に3次元化された現前を示すのである。

 『明るい部屋』のなかでバルトは、次のような言葉を書いている。「昔の社会では、記念物〔memory〕、つまり生の代替物は永続的なものであり、少なくとも、死を語るものはそれ自身が不死のものであるとされていた。これがモニュメントであった。しかし、(死すべき)写真を「かつてあったもの」の一般的である意味自然的な証言にしてしまうことで、現代の社会はモニュメントを拒絶してしまったのである」
(26)。マルクスが述べたように「堅固なものすべてが霧散してしまう」ような時代のただなかで、fotoesculturaなどのヴァナキュラーなものが現代の記憶や写真の双方に確かなモニュメント性を取り戻させてやること、こうしたことはいったい可能なのであろうか?(27)


ヴァナキュラー写真をいかにして説明するのか?

 こうした記憶について語ることは、私たちを歴史の問題に、ヴァナキュラーな写真の現象についてどのような歴史的説明をすることができるのかという問題に立ち返らせることになる。これは単純な問題ではない。…従来とは別の自立的な研究対象(ヴァナキュラー写真)を提案することでは不十分である。つまりこれだけでは、収集可能なもののカテゴリーを新たに作り出しているだけであり、問題になっている周縁と中心との間のまさに区別を念入りに強化していることにしかならないのである。もちろん規範を拡張することは、たしかに意味のあることであるが、ここで必要なのは、規範化というものが表している価値体系全体を再考することなのである。例えば、なぜ芸術写真のヴァナキュラー性を主張しないのだろうか(それが特定の地域的な文化に属しているということを)、なぜそれを私たちの歴史的な議論の中に、数多くのヴァナキュラー写真のひとつとして含めないのであろうか、なぜ、同時にヴァナキュラー写真の芸術的な質を問い、それらに、もっと特権化された従兄弟たちと同様の知的で美的な可能性を認めないのだろうか、という再考である。したがって、私たちはすでに伝統的な境界線を問題にし、既存の対立的構造を回避するような歴史を展開することに関わっていることになるのである。

 おそらく私たちは、対象そのものから自分たちの用いるべき歴史記述的な手がかりを拾ってくることができるかもしれない。例えば、ヴァナキュラー写真というものは、写真を用いているにもかかわらず、それが描き出す世界に対する自らの透明性を主張することはない。多くの写真ではそれが伝えるイメージのために自身の存在が抑圧されているのに対し、ヴァナキュラー写真は物理的、概念的な次元を有しているのである。…写真は、しばしば観者の身体と対象とのあいだの区別を解消させてしまう。身体も対象ももう片方の延長として機能するようになるのである。こうした写真が生み出しているのは、バルトが「作者的スタイル」と呼んだもの、写真の濃密な文化的意味を強調する写真、解釈項として観者を能動的に巻き込んでいく写真なのである
(28)。実際、ヴァナキュラー写真は、真理に対する透明性というレトリックをまさに与えることによって…そうした透明性を問題にし、同じ知覚的経験の中に作者的なものと読者的なものの両方を書き込んでいるのである。もちろん写真というものは明らかに、こうした諸々のことすべてが作用を及ぼす仕方にとって重要な要素ではあるのだが、こうした対象は主題についての真なる情報を伝えるということよりは、形態学上のデザインや対象と観者との相互作用を通じてある社会的、文化的な儀礼を活性化させることに関わっているのである。すでに気づかれているかもしれないが、私が調べた数多くの例では、ヴァナキュラー写真が既存の慣習との一致している(それとの差異というよりも一致と言うほうがよい)。これは、きわめて興味深いことである。言葉を換えれば、こうした対象を注文したり、そして/あるいはこうした対象について証言したりするということは、少なくとも部分的には、社会的な位置づけや統合のための行為なのである。

 こうしたことから示唆されるのは、美術史ではなく生活文化(物質文化)というものが方法論的な指針を探すための適切な場となるということである。たしかに美術史の伝統的なカテゴリー――オリジナリティ、作者性、意図、年代記述、スタイル――は、こうした類の素材(マテリアル)にはまったく不向きかもしれない。他方で、ジャンルや形態学は、分析的なカテゴリーとして多くを約束するものであるように思える。少なくともこうした素材は実際の写真という対象に、その物理的、機能的な特性に注意を向けることを促してくれる(だからこうした対象が注意に値するものとなるのである)。しかも、こうしたカテゴリーは、問題になっている素材を予期せぬ仕方で組織していく方法を結果としてもたらしてくれる。例えば、ヴァナキュラー写真の歴史的タイポロジー(分類法)がそうした写真を処理する方法を中心にして組織化されているということを考えてみればよい――付加、仕上げ、引き去ること(subtraction)、消去、連続化(sequencing)、マスキング、フレーミング(枠付け)、銘の記入、ポーズを取ること、複数化(multiplication)等――。あるいは、おそらくもっと有益なアプローチが、共通のテーマを跡付けること(死、記憶、家族、欲求、幼年時代など)、あるいは社会的機能を跡付けること(交換、記念、確認、証明)である。

 研究すべき重要な関係はこれ以外にもある。それが身体(被写体の身体と観者の身体の両方を意味する)と対象との係わり合いである。この身体という最後のカテゴリーは、もちろん作者自身の身体も含み、作者の歴史に明白な自伝的な要素を付け加えることにもなる。私たちが語っているのは、ヴァナキュラー写真へのある種の逸話的で小説のようなアプローチである。これはバルトの『明るい部屋』(これは一貫して一人称で書かれており、「自分自身をあらゆる写真の媒介項に、写真の認識の尺度にする」というバルトの決意に従っている)を歴史的にした形である
(29)。ミシェル・フーコーの歴史的分析への「考古学的」アプローチも、また別の実りあるモデルである。彼による(認識(知識)そのものではなく)認識作用の様態についての研究、(「巨匠」というよりも))周縁的な声への焦点化、組織原理として進化論的な因果関係を廃棄した点、そして省略語法的なレトリックの使用、こうしたことすべてが、伝統的な歴史というよりも、ボルヘスの難解なテクストに近いような議論のスタイルを生み出している(30)。こうしたタイポロジーすべてを用いる利点は、それが大部分の写真史に具わっている線的で、前進的で年代記的な物語構造を壊し、異なる歴史的時期に由来する対象を直接的に比較することを可能にしてくれ(しかもスタイルや技術よりももっと適切な根拠に基づいた比較を行うことができる)、虚構と事実、解釈と真理というすでに前提とされていた区別を疑問視することを可能にしてくれるからである。写真史研究のための新しい分類法全体が、考え抜かれなければならない。現在のポストモダンの時代に適した写真の「ヴンダーカマー驚異の部屋」のために(31)

 すでに述べたように、こうしたアプローチは、すでに生活文化(物質文化)になじみの学者たちにとっては容易なものと思われるかもしれない。「制作物によって伝えられる文化的記号の解釈」と定義された生活文化研究の分析の焦点は、例えば私たちに、こうした対象がかつて(そして今でも)社会的な次元によって、交換や機能という力動的な網目によって活性化されているということ、こうした交換や機能がそれらにけっして静態的ではないが確固とした同一性を与えているということを想い起こさせてくれる
(32)。そうした焦点を数多く備えた研究が、社会的な次元を再認し再活性化しようとするアメリカ研究や人類学の支援のもとに企てられている(33)。このような強調点は必然的に、対象の意味を人がいかにして決定するのかという問いを探求していくことになる。土着のヴァナキュラー写真についての私の議論は、人類学的な記録に依拠しつつ、例えば、同じように見える対象、同じようにして作成された対象が必ずしも同じことを意味してはいないということを示唆するものである。写真はけっして単一の意味をもつわけではなく、写真全体というものがあるわけでもないことが明らかになるのである。しかし、こうした洞察にもかかわらず、生活文化研究は少なくともひとつの厄介な傾向をもっている。対象の意味をそのもともとの文脈、社会的背景を通じて探し出すという傾向である(ヴァナキュラー写真の場合であると、今現在失われてしまっているものが多く、せいぜいのところ文脈や背景を推測するしかないということになる)。このモデルにおいては、(美術史において)芸術家という前提になっていた意図が社会全体という意図に代えられているのである。第一原因を別のものに置き換えるという欲求が暗に意味しているのは、歴史学の正しい役割というものが、対象の真の同一性、その過去にまず発見されるもともとの実際の意味を探し求めることである、ということなのである(これと平行したことは、記号をたんに指示対象とその意味とのあいだにかけられた「橋」と見なすことで満足するようなたぐいの記号学である)。

 しかし同一性(写真の同一性でも、人々の同一性でも、歴史そのものの同一性でも)は、複合的な問題であり、(たとえ起源といったものが発見されたとしても)起源に立ち戻ることによっては完全には解決することのできない問題なのである。スチュアート・ホールが私たちに喚起しているように、いかなる同一性も、存在の問題であると同時に、生成の問題なのである。

「同一性は過去に属しているとともに、未来にも属しているのである。それはすでに存在しているものではなく、時間、場所、歴史、文化を超え出るものなのである。さまざまな文化的同一性はいずこからか生じてきて、歴史を持つことになる。しかし、歴史的である他のものと同様に、文化的同一性は絶えず変容されていく。それは、何らかの本質化された過去に永遠に固定されるのではなく、歴史と文化と権力のたえざる「作用」を受けることになる。同一性とは、発見されるべく待ち構えている過去があって、それが発見されると私たち自身の意味を永遠に確証してくれる、といった過去のたんなる「回復=再発見」に根拠をもつのではけっしてない。むしろ同一性は、私たち自身が過去についての物語によって置き据えられるさまざまな方法、過去についての物語の中に私たちが自分を置き据えるさまざまな方法に与える名称なのである」。(34)


今日までに書かれた多くの写真史が自ら主張しているところによれば、そうした写真史は過去に対して透明であり、過去を再創造してはいるがそれは(「過去の物語」という)生きいきとした効果をもたらす歴史記述なのではなく、事実として過去を再創造しているだけだということである。たしかにヴァナキュラー写真についてのいかなる研究も、過去の存在をまず跡付けなければならない。ただしそれは抹消ではないのである(つまり、さまざまな差異や矛盾によって裂け目を入れられた不在の現前としてではない)。批判的歴史家の課題とは、秘密や失われた意味を明らかにすることではなく、今日の時代にとってこうした対象がどのように理解できるかを言い表すことである
(35)。写真のヴァナキュラーな歴史というものは、ホールが言うように、自らにとって、そしてそれが論じようとする対象にとって、存在と生成の力動的な作用を扱うことを学ばなければならない。こうした方法によってのみ、写真という対象とは別物と見なされてきた写真の内部、またそうした写真相互の差異を明瞭にすることのできる意味の記号学が生み出されるのである。ちょうどヴァナキュラー写真そのものが触覚性と視覚性や写真の物理的同一性と概念的同一性という、すでに前提となっていた区別を破砕するのと同じように、私たちは同様に、写真の意味のための複合的な歴史的形態学を生み出さなければならない。この写真的なもののヴァナキュラーな記号学(あるいはもっと正確に言えば、こうした「フォトグラマトロジー」)は、私が着手している必須の写真史の創出(爆発)なのであり、扱われる研究対象ばかりでなく、研究対象の様態をも変容させることになる創出なのである。(36)
 


(c)Osamu MAEKAWA