Wells,Liz

 

Liz Wells(ed.):
Photography −A Critical Introduction−, 
Chapter 1., Contemporary debates

(リズ・ウェルズ編、『写真−批判的入門−』第1章から「現代の論争」)


〔紹介〕

 本書は、そのタイトルから分かるように、写真についての批判的入門書である。ただし、何が「批判的」なのか? それは、写真研究と聞けば、すぐさま感情移入的な作家論や撮影技術のみの解説を連想してしまう人々の態度に向けられている。ウェルズはこう言う。

「なぜ理論を研究するのだろうか? 理論は実践に浸透するのである。ここには本質的に2つの選択肢が存在している。一方は理論的な論争を無視し、イメージが意味をもつようになる諸側面を考慮せずに、それで批判的な理解を限られたものにしてしまうという選択肢、さらに言えば、その当人が写真家であって、自分自身の仕事を支えることになる理解の深さを限られたものにしてしまうという選択肢がある。もう1つの選択肢は、批判的認識を繰り広げて、それを現在の、そして歴史的な写真実践に、あるいは自分自身の写真に関係づけるために、写真の意味に関する問いに意識的に取り組むという選択肢である」。

 写真イメージを「読むこと」、写真についての概念的理解、さまざまな文脈での写真の用法、そしてまたこういった事柄にかんして過去に起きた論争、これらのことを現在進行中の論争にとってアクチュアルな形で提示する、これが本書の目標のようである。  
  この本は、次の6章から構成されている。タイトルと簡単な概要を示しておく。


第1章 Thinking about Photography 写真について考えること
(写真についての主要な論争と各々の立場の紹介。この本全体の理論的スタンスの明示。)
第2章 Surveyors and surveyed サーヴェイするものとされるもの
(カメラのドキュメント的役割について。証拠としての写真。写真使用の具体的文脈)
第3章 ’Sweet it is to scan…’
(写真の大衆的、個人的用法について。とくに家族写真アルバムについて。)
第4章  Constructions of illusion イリュージョンの構築
(広告や宣伝における写真の用法。写真と表象の政治学の問題。)
第5章 On and beyond the white walls 白い壁のこちらと向こうに
(芸術としての写真についての議論。美術館などにおける写真の状況の歴史的変化。)
第6章 Photography in the age of eletronic image 電子イメージ時代の写真
(写真とデジタルイメージについて。)
 
 このうち、本書の基礎部分である第1章の目次は以下の通りである。


序論
さまざまな写真史 歴史を考えること/写真の歴史の複数性/どの創始者か?/
             イメージとしての写真/歴史の焦点化
美学とテクノロジー 新たなテクノロジーの影響/芸術それともテクノロジー?/
              ドキュメントとしての写真/写真と近代/ポストモダン
写真と社会史 社会史と写真/証拠としての写真/カテゴリー的写真/
          制度とコンテクスト/美術館/アーカイヴ
現代の論争  
理論とは何か?写真理論リアリズムについての批判的反省
          
本質的イメージ写真再考理論、批評、実践  

 「現代の論争」までは、写真についての議論の基本的な問題の摘出と確認である。「現代の論争」になってようやく、本書の編者の基本的スタンスがうかがえる箇所に辿りつく。この箇所を要約してみよう。  



 さまざまな写真史

 美学とテクノロジー

 写真と社会史

現代の論争

◇理論とは何か?

 写真についての議論は、写真の性質について、いかに考えるかで大きく2つに区別される。@写真におけるイメージと現実との関係から始めるアプローチ、A写真という表象の読みに焦点を置くアプローチの2つである。もちろん両者は、昨今の、写真の用法や文脈についての関心において互いに交差している。
 ここで論者は、18世紀来の主客の分割、これに対応した学問領域の分割(人文科学と科学)の経緯を簡単にあとづけ、双方において19世紀には実証主義的関心がドミナントになる、と言う。(イギリスでは)この実証主義的関心が写真への研究姿勢を決定付けていた。そして、ここから、規範的テキストを中心とした文芸批評が1つの型となり、写真にかんする研究も同様の方向づけに従うことになる。この、−偉大な写真家を羅列して歴史を語るという−「巨匠的」アプローチへの批判は、今ではジェンダー研究の側から、多様な視覚的素材の研究の側(視覚文化研究)からも、そして大衆的写真の研究の側からも、生じてきている。とくに、既存の関心や方法に断層を生じさせている「新しい美術史」、そして視覚文化研究のもつ諸々の視点は、写真についての理論にも導入すべきではないだろうか。  

◇写真理論

 Aヴィクター・バーギンは「写真批評」と「写真理論」を区別する。彼の言う「写真批評」とは、価値評価的、規範的、頑迷で権威的な議論、さまざまな過去の美学の混ぜ合わせの理論(無批判な美的パラダイムの受け容れ)であった。これにたいし、「いまだ存在しない写真理論」は、学際的に、写真の意味生産過程を分析しなければならない。彼にとって、イデオロギー的過程の分析を含む文化理論と写真の接合、これが目下の急務だということになる。
 @他方で、写真のリアリスティックな(現実指示的)特性について、バザン、ソンタグ、バルトが議論を展開している。写真イメージと現実性との関係、これが彼らの核にある。彼らの議論は、写真の文化的コード化、写真の用法、写真の意味への注目という最近の方向とは対照的な研究といえる。
 以下、ソンタグ、バルト、バーギンの各写真論を例に写真理論のアプローチ方法を考えてみる。

 
◇リアリズムについての批判的反省−ソンタグ『写真論』のばあい−

 ソンタグの写真論は、写真を現実性の刻印、現実の痕跡とみなす、というリアリズム的見方に基いている。したがって、彼女の関心事は、写真がどれだけ撮影の瞬間の現実性を再現表象するかということになり、主要な議論対象はドキュメント、ルポルタージュ、ツーリズムなどにおける写真となる。
 ただし、ソンタグの議論は、写真の撮影の側面と写真の使用の側面とで立場が変わっているようだ。撮影の側面から見れば、彼女によれば、写真はかつて存在したものの遺影であり、事物の理解を可能にしてくれるイメージであり、写真そのものの内部(正確に跡付けられた場所・時間・対象)にその意味は探し求められる。他方で、使用の側から見ると、写真は、しばしば経験を削減してしまうばあいがあること、写真の略奪性−写真実践における写真家と被写体との倫理的関係−の問題性、経験の常套句化、経験の美化などの用法も言及されている。
 この両面を考慮したうえでも、彼女の写真論には次の3つの批判的指摘をすることができる。
 (A)ソンタグの写真論は、写真に付随する言語的記述や写真が使用される用法を切り捨てている点にある。写真の意味は写真の内部にあるのではないのだ、と。(メアリー・プライスの批判)
 (B)写真のリアリズム的理論と言っても、出発点はいくつかあるのだ。写真を撮影する地点、制度と写真家の態度との関係という地点、観者や文脈を考慮したうえでの写真の用法という地点など。ソンタグはこの1つの地点しか選んでいない。(本論文集の編者の批判)
 (C)ソンタグにとって、写真は現実指示的性質をもち、かつての現実の証拠、証明である。コズロフがこの概念モデルを批判している。とくにその「証拠」という言い方を「証人」に言い換える。誤解や情報の部分性、誤った証明の可能性を含ませたうえでの証拠という意味である。(コズロフの批判)
 もちろん、写真の真正性(現実指示的要素)が写真言語や写真美学の根本的要素であることは間違いない。他の視覚メディアと写真との差異もここにある。実在物の物理的現前という必要条件。リアル性は何らかの形で写真の固有のものだと認めねばならないだろう。  

◇本質的イメージ−バルト『明るい部屋』のばあい−

 記号学と精神分析の展開は人文諸科学の変容に寄与している。記号論は人間の文化的活動の体系的な分析、コードの包括的な析出を目指す。しかし、記号論の限界は、記号体系への志向であり、解釈や理解作用の過程をじゅうぶんに分析することはできなかった点にある。精神分析をも統合した現在の記号学モデルは、テクストの体系よりも意味生産の過程に重点を置き、解釈作用や意味生産、文脈へと目を向けている。
 バルトは初期以来、視覚その他の文化的素材のコードの析出、分析モデルの展開を行った。これはむしろ構造主義的(記号論的)なスタンスと言える。他方で、『テクストの快楽』や『明るい部屋』で、彼は、テクストの科学的分析は行わず、解釈の過程、精神分析的要因、文化的なズレ、人間の予見不可能な反応などへと向かう。
 『明るい部屋』は、写真そのものの本質を探求するという動機に貫かれている。彼は個人的、物語的、修辞的スタイルで、ある写真がなぜ自分に独特の感情的反応を引き起こすのかを問う。商業的使用や美的芸術的見方も、撮影者・撮影行為も不問にされる。ひたすら写真を見るという立場から、表象手段としての写真の本質を問うのだ。結論として出てくるのは、写真における指示物の固着と写真の独特な時間的性質(かつてあったものををいま見ること)、言葉による記述不可能性、写真そのものの物質の不可視性(表象されるものへのベクトルの強さ)である。それでは、写真を見ることにはどこに魅力があるのか、写真の内在的本質は何なのか?
 これを説明しているのが、写真のもつニ元的要素、ストゥディウム(コード化されたもの)とプンクトゥム(コード化されないもの)である。この両者のうち、後者が写真の内在的本質なのであり、それが観者の注意を引きとめるのだ。衝撃的な写真からではなく、コードから漏れる写真の細部から発せられる衝撃、これが写真そのものの本質的産物なのだ、と。ウェルズによれば、これがバルトの議論の限界。そのような細部の再認による驚きは、観者の歴史や関心の帰結にすぎないのではないか、と。
 バルトの現象学的な方法が議論を曖昧にしている。ソンタグ同様に、バルトも写真の現実指示的特性を強調するが、ここからソンタグが写真と広範な実践との関係のなかでこの問題を論じる方向へ向かうのにたいして、バルトは写真というメディアの内在本質的な特性として、現実指示的特性を挙げるのだ。ただし、だからといって写真が「コードなきメッセージ」だと言うことはできない。写真は必然的に何らかのコード化を被る。バルトの議論では、イメージと観者との関係が焦点になっているにもかかわらず、観者の特殊性や文脈について何も説明しないために、一般的議論に結びついていかないのだ。
 
◇写真再考−バーギン『Thinking Photography』のばあい−

 写真において観者とイメージの関係を討究するには、記号学と社会史的方法に並んで、精神分析も導入される必要がある。これを部分的に行ったのがバーギンの写真論集である。
 バーギンは写真批評と写真理論との間を区別する。後者は、前者の、自立的創造的な芸術家=写真家という見方、ドキュメンタリー的真実という考え、純粋に視覚的な言語という見方などを再検討(疑問視)するのである。また写真理論とは、写真の意味と伝達、視覚文化と表象の政治学など、もっと幅広い理論的広がりと接点をもつ試みでもある。
 この論文集は8本の論文から成る(3本がバーギン論文、あとはベンヤミン、エーコ、タッグ、ワトニー、セクーラらの論文)。これらの論文の理論的目標は、まず写真の「唯物論的分析」である。ただし記号学を方法に組み込むことで、写真を歴史的社会的文脈の中で意味作用の実践として分析し、写真の制度、分配、消費など複合的な現象を扱うことも試みようとしていた。
 バーギンが写真論の出発点としてあげるのが、ベンヤミン「生産者としての作家」とエーコ「イメージの批判」である(そしてロシアでの20世紀初頭の論争がもう1つの焦点)。ベンヤミンにおける、古典的マルクス主義モデルに基いた芸術生産についての考察が辿られ、それを、例えばバーギン(アルチュセールのイデオロギー国家装置の議論)、やワトニー(異化の議論)が新たな形で引き受けることになる。
 もう1つの係留点である記号学(エーコ)は、写真のコード化に焦点を当てている。エーコの議論では、写真イメージは他の記号体系と同様の、恣意的で慣習的な記号と見なされる。エーコが呈示する、写真の伝達について10のコード、これは、これからの写真論の叩き台となるとバーギンは言う。
 記号学と精神分析、そして唯物論的分析(イデオロギー分析)をも含めた、バーギン自身の写真論の試みは、3本の論文で提示されている。各論文の要点は、「新しい美術史」からみた写真の性質について、観者の視点から見た写真の視覚経験の性質、イメージへの心理学的性質の討究、である。
 もちろんバーギンのここまでの議論にも、補うべき要素がある。それが「リアリズム」の問題である。意味生産を中心にした分析は、写真におけるリアリズムという要素がどのようにしてコード化され、どのように解釈に浸透するのかという問題から逸れがちである。そこで、論文集の残りの2本の論文、タッグとセクーラの論文は、このリアリズム的側面の効果について議論を行っているのである。  

◇理論、批評、実践

 本論文集(『写真−批判的入門−』)の基本的な方向は、次のようなものである。
 「写真理論」は、さまざまな学問的言説と接触しつつ、その接触の影響を視覚的イメージの作成と解釈についての研究にもたらす試みを行わなければならない。一方では、写真を伝達される視覚的記号の一種として捉え、生産・消費・読解の交差点と見なす必要がある。また他方で、写真のリアリズム的問題は写真というメディアの特性を考慮する際にはつねに念頭においておかなければならない。…このようにまとめることができる。  


≪批評≫:2つの「インデックス」

 この論文集の議論の前提は、「新しい美術史」(そして「視覚文化研究」)にみられた、学際的なイメージ論、生産・消費・分配への視座、イメージ読解、意味生産過程への着目、社会史とイメージの関係などの論点の、写真論への導入である。
 もちろん、いくつか首をかしげる点もある。
 例えば、バルトの「プンクトゥム」についての――ジェフリー・バッチェンの脱構築的観点からすれば、二項対立的な――硬直した見方、写真のリアリズムやインデックス的特性についての浅いアプローチ、「意味生産」過程の分析への過大な期待(すべてが意味へと収斂!)などに不満が残る。
 第1章の社会史的な方向づけを読んで感じるのは、写真というメディアは、従来の表象媒体とは異なる生産・流通・分配の文脈を自ら引き寄せてくるのではないか、だから、ただこれを社会史という文脈の中に置き入れて見てみましょう、というコンテクスト研究だけでは不十分なのではないか、という違和感であった。もちろん、いまだに感情的、印象的批評(批判)や、写真家の名前の羅列の写真史しかない現状では、本書の視点は、まずこれを受け容れたうえで叩き台にしなければならないのだろうが。
 また、写真をこのように論じる際にも、依然として写真論の「剰余」として未解決のまま残されてしまう問題がある。それが、写真固有のものである(と言われる)「インデックス性」である。これをいかに議論の中に導入できるのか? その方法は? 例えば、写真行為という、定着と現像と複製と流通、あるいは写真家と被写体とレンズと受容者から成る、独特の時間的空間的構造を持った写真の「系列」の中で、−写真は現実の写しであるといった単層的ではないしかたで−インデックス的ーリアルな特性を理論化することができるのだろうか。これを、フルッサーの「装置」や「プログラム」という観点から、あるいはエーコの記号学的分析から引き出してこれないのだろうか…。
 この論文集は教科書という性質上、理論的な深さはそれほど期待することはできないかもしれない。むしろ、別の「意味」での参考文献の「インデックス」として利用価値が高いかもしれない。事実、この本の最大の長所は、各章の文献表である。写真研究を始める際に、いまだにゲルンシャイムの写真史(絶版)を探しまわり、写真理論といえばベンヤミンとソンタグとバルトのものをとりあえず揃えて終わり、という不毛な準備作業を軽減してくれるだろう。さらにいえば、この書は、写真というメディアを作家論や技術論とは異なるしかたで微分−積分する理論的可能性を与えてくれる基本書とも言えるだろう。



(c)Osamu Maekawa