前回も疑問が提起されたように、クラウス自身の写真へのスタンスは流動的である。一見すると「シュルレアリスムの写真的条件」と同様に、シャーマンに対する立場は、芸術的批評=言説を「脱構築」するといいながらも、その「再構築」という帰結に行きついてしまうし、他方で、アジェの写真の属していた空間が美的言説とは異質な言説空間であると指摘した(「写真の言説空間」)のと同様に、ペンの芸術写真は、実は美的世界とは異なるシミュラークルの世界に属していると主張する。この論文では、この2つの極の「隔たり」が彼女自身に意識されたものだと言える。もっとも、その隔たりの空間にブルデュー流の写真論が無造作に置かれただけなのだが。
クラウスの試みへの批判は、すでに報告したジェオフリー・バッチェンのもの(『Burning with Desire』)がある。もう一つ、最近目にしたクラウス批判を挙げておこう−プライスの批判(メアリー・プライス『写真−閉ざされた空間』)−。