Krauss,Rosalind 
写真的なもの:隔たりの理論

序文(別ページへ)

第4章-3  写真とシミュラークルについてのノート


◇「批評」に代えて−「隔たり」から隔たるには?


 前回報告のあったクラウスの写真論(「シュルレアリスムの写真的条件」(OctoberNo.19[1981])、「写真の言説空間」(College Art Journal  42[1982])に引き続き、彼女の写真論紹介ということになる。この論文は、『オクトーバー』誌31号[1985Winter]に掲載されたもので、後にフランス語でまとめられた写真論集(『写真的なもの 隔たりの理論』[1990])のなかでは最新のものである。    
この論文の議論の骨格は明快である、写真は芸術的対象としては批評不可能である、だから写真に相応しい言説は、美的言説ではありない、むしろ写真(についての言説)は、美的言説の諸概念の統一を掘り崩す、あるいはそれらの機制を脱構築する企図となるべきだと。その例としてシャーマンの試みが挙げられる。そこには、美的言説の脱構築、芸術批評という行為の「再構築」(!?)が写真において行われている。オリジナルや同一性を基にした世界から、すべてが現実効果をもつシミュラークルと記号の世界への移行、これがシャーマンの試みの背景には控えている。写真的シミュラークルによって芸術(批評の自閉性)を破砕する試み、これが一方の極である。他方で、ペンの写真の試みが挙げられる。ペンは商業写真から芸術写真への転向を試みたと一般には言われている。ところが、芸術写真のオリジナルな手法を支えてくれるはずの数々の手法が、実は商業写真の文法に酷似してしまう。ペンの芸術写真はシミュラークルに依拠している、いわば抑圧されたものが回帰しているのだ、と。

 美的言説にたいする写真の緊張関係、それを表す2つの実践の極をつなぐのが、テレビ番組≪1分間に1つのイメージ≫での言説であるとクラウスは言う(この番組はその名の通り、1分間だけ1枚の写真がスクリーンに投影され、同時にコメントが流されるというもの。コメントは、写真家、作家、政治家、美術批評家、一般的な人々に至るまでの多様なものであった)。大衆的意見の収集にすぎず、真摯な批評的言説に限りなく隔たったかに見える試み、あるいはこれと傾向的には近しいブルデューの『写真論』の手法、これがどうやって両極をつなぐのだろうか、クラウスはその答えを出すに至っていない。彼女は次のような言葉で本論文を締め括っている。

「これら2つの例は、美的言説にたいする写真の関係の両極において作用している。ただし、これら2つの実践の間をつなぐ線を横断することが、私が最初に言及したヴァルダの実験の社会的言説なのである。≪1分間に1つのイメージ≫は、−遊離された写真を、観者が空想的物語を投影する誘いとして呈示するシステムであり、そしてまた大衆的意見のある種の概観のために、批評的能力という概念を放棄している−それは、真摯な批評の厳格さから可能なかぎり遠い位置を占めている。しかし、そのような立場を採ることで、それは、写真の領野にとってそのような批評が全く重要ではないということ、その可能性を提起しているのだ。/この可能性の亡霊は、今や写真生産、写真史、写真の意味という領野を考察しようとするあらゆる作家たちを脅かしている。しかもそれは、次第に数の増えつつある、写真にかんする執筆者たちが−美術館の壁であろうと、画廊であろうと、講義室であろうと、写真を遊離して分析するための言語を見出そうとする際に−取り組む批評のプロジェクトに最も深く影を投げかけている。というのも、彼らは自ら、どのような意味においてこの言説が適切なしかたで支持されるのか、どのような意味でこの言説が、批判的な反省として、ただの「ひとつのイメージに1分間」という空虚なことを越えてなお継続されるのだろうか?と問うているからである。」  

 前回も疑問が提起されたように、クラウス自身の写真へのスタンスは流動的である。一見すると
「シュルレアリスムの写真的条件」と同様に、シャーマンに対する立場は、芸術的批評=言説を「脱構築」するといいながらも、その「再構築」という帰結に行きついてしまうし、他方で、アジェの写真の属していた空間が美的言説とは異質な言説空間であると指摘した(「写真の言説空間」)のと同様に、ペンの芸術写真は、実は美的世界とは異なるシミュラークルの世界に属していると主張する。この論文では、この2つの極の「隔たり」が彼女自身に意識されたものだと言える。もっとも、その隔たりの空間にブルデュー流の写真論が無造作に置かれただけなのだが。    クラウスの試みへの批判は、すでに報告したジェオフリー・バッチェンのもの(『Burning with Desire』)がある。もう一つ、最近目にしたクラウス批判を挙げておこう−プライスの批判(メアリー・プライス『写真−閉ざされた空間』)−。

「字義どおりの記述において見られるものを名指す前に、写真の概念的解釈を思い描くのは難しい。あるいは、かならずしも概念的解釈が[字義どおりの見方や記述]より興味深いものであるわけでもない。それが興味深いのは、視覚的に名指すことのできる要素、つまり主題を、字義的見方と概念的見方という二重の見方を維持するようなしかたで強調するばあいである。主題に抽象が置きかわると、それは興味深いものではないのだ」。

つまり、クラウスのオリジナル/コピーについての議論が抽象的であり、具体的に写真画像を見る際の特定化の行為が欠けている、それではただの空論にすぎない、という批判である。たしかにクラウスのここでの議論は画像の分析があまりに少ない。プライスはクラウス批判をこう続ける。

「クラウスは写真についての枚挙的記述を無用なものと記述している、なぜならそのような記述は「可能な主題の潜在的に無限のリスト」にしかならないからだ。この議論はこう続く、それは無差異化された世界を反映しているのだ、と」。

しかし、クラウスは枚挙的記述が無用だと言っているのではない。上記の隔たりの空間に広がる社会的言説として、利用可能な間隙として、特徴的な枚挙的記述という素材を挙げているのである。ただし、それは、写真についてしばしば指摘されるような、−「統辞のない文」「名詞だけの文」としての写真という−記号論的見解の「反復」にすぎないのではないか。物足りなさが残る。
   クラウスの写真論をつねに閉ざしてしまうのは芸術という参照点−「隔たり」の参照点−ではないだろうか。それではそこから隔たるにはどうすればよいのか。例えば、写真の(非−)記号論的観点からの考察(もちろんクラウスはそれを試みてはいるのだが…)、写真と言語の関わりの問題の検討(ex.プライス)、あるいは写真が呈示される方法(印刷媒体や展覧会など)の考察(ex.クリンプ)、こういった分岐点を考えてみてはどうだろうか。
 それにしても、あれほどクラウスの批評を牽引していたはずのインデックスの力は感じられない。なぜ彼女は写真という「インデックス」にもっと引きずられていかないのだろうか? いずれにせよクラウスの写真論全体、
『写真的なもの−隔たりの理論−』に向かわなければならないだろう。

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