昔を思い出し、気分は3人娘!
今回原水禁2007年世界大会に市労組から、福祉保育支部の和田さん、本部から佐々木さんと私の3人が代表として、そして和田さんの娘さんも同行することになり、4人で参加してきました。実は3人でその昔、20歳代前半に長崎に旅行をしたことがあり、その当時を思い出し、気分は二十歳代、わくわくとした出発になりました。今回青年の参加がなかったことが残念でしたが、事前学習会を一緒にとりくみ、青年部からの折鶴もしっかり預かっていきました。次回はぜひ直接被爆地を訪れ、原子爆弾の破壊力や被害、被爆者の苦しみを少しでも感じとってきてほしいと思います。そして苦しみを乗り越え、核兵器廃絶のため運動をしてこられた、その生き様に学び、平和を望む全ての人たちとの連帯の運動の力強さを学んでほしいと思いました。
360人の大阪代表団は、博多からは貸切バスに分かれて乗り、自己紹介など交流を行いながら、長崎に向かいました。なんと言っても裕徳バスの19歳のバスガール、森田さんのなんともかわいい話口調が印象的で、和やかなひと時を過ごすことができました。メモを見ながらも一生懸命に、長崎に落とされた原子爆弾やその被害のこと、原爆投下直後から自らも傷つきながら救護活動を行った永井隆博士の手記などを「長崎の鐘」の歌を交えて、紹介してくれました。最後には原子爆弾の悲惨さを学び、知らせていくことで、平和な世界を作るためにがんばりたいと語ってくれました。
熱気あふれる開会総会、しかし暑かった
開会総会は6800人の参加者で、会場は第2会場も含め、熱気に包まれました。きたがわてつさんの歌で始まり、各国代表団の挨拶やメッセージ、原爆症認定訴訟の代表、田上長崎市長の挨拶と続きました。19カ国33団体の海外代表団が紹介され、5カ国の国家元首と137の自治体首長からのメッセージが紹介されました。たくさんの国から政府を代表しての、挨拶やメッセージが送られ、核廃絶が世界の大きな流れになっていることを強く感じました。その反面、本来なら核廃絶のリーダーシップを発揮しなくてはいけない日本政府からは何の挨拶もメッセージもなく、世界の流れに逆行している事実を目のあたりにしました。

また多くの自治体で「非核日本宣言」を全議員が共同提案者として名前を連ね、採択されるなど広がっていることが報告されました。原爆投下を「しょうがなっかた」と発言した久間前防衛大臣を辞任に追い込んだのも、これらの国民世論の力だったことを強く感じました。韓国からは最も多い代表団の派遣があり、日韓平和行進の合流に会場からも大きな喚声が上がり、非常に盛り上がりました。7月末に勝利判決を勝ち取った熊本県の原爆症認定訴訟、原告団の中山さんは挨拶の中で、「原爆により、強制的に被爆者という人生を歩まされてきた。」と語り、政府に控訴しないことを強く訴えました。
一日目の夜は中華街で昼の暑さを吹き飛ばしました
「8時になるとオーダーストップになりますよ。大阪と同じように考えてはいけません。」とのアドバイスに、大阪原水協代表団の会議終了後、さっそく中華街で食事をすることになりました。念願の皿うどんやチャンポンなどを動けなくなるほど食べて大満足の3人でした。この後3食続けて、中華料理になるとは思いもよりませんでした。腹ごなしにと、ホテルまで歩いて帰りましたが、三方を山に囲まれ、本当に坂の多い町だということに気づきました。
4倍の競争率を勝ち抜き、手に入れた「原爆遺構めぐり」
2日目は、動く分科会に佐々木さんと2人で参加しました。爆心地公園に到着すると、もう参加者でいっぱいになっていました。まず青年部から預かってきた折り鶴を原子爆弾落下中心地の塔の前におき、責任をひとつ果たしました。
長崎市役所、生活保護のケースワーカーの職員の方から「長崎の原爆について」の説明を受け、その後班に分かれて、碑めぐりをしました。私たちの班は平和案内人の野口さんという素敵な女性が案内してくれました。
62年前の昭和20年8月9日、原子爆弾落下中心地の500メートル上空で原爆が炸裂、当時の人口は約24万人で、同年12月までに74,000人の人が亡くなり、75,000人の人が負傷しました。上空500メートルで炸裂した原爆は、一瞬で100万℃になり、1秒後には体積が急速に膨張し、温度は5000℃になりました。太陽は表面が6000℃なので、まさに太陽が上空500メートルの所に落ちてきた事になります。爆心地の松山町は一瞬にして、全てが消滅してしまったのです。町内にいた者は平和公園のがけの防空壕に避難していた一人の女の子を除き、すべて即死でした。強い爆圧と爆風の後、上空が真空になり、人も物も上空に吸い上げられ、次に地面に叩きつけられ、木っ端微塵になりました。歩いている姿のまま、起き上がろうと丁度手をついた姿のまま、またバスを並んで待っている状態のままで黒焦げになっている遺体から一瞬にして焼き尽くされたことが分かります。男も女も赤ちゃんも、そして爆心地からわずか1,5キロメートルのところにあった収容所(赤十字のマークをつけていた)所も容赦なく投下され、まさに無差別殺戮といえます。
この爆心地の公園の下にはたくさんの骨が眠っているそうです。たくさんの犠牲の上に今の日本の平和がある事を強く感じました。公園横の下の川にはその当時、たくさんの学生と教師が作業をしていたそうですが、全員が亡くなり、川は死体でふさがったそうです。その川をしばらく見つめて、たたずんでしまいました。
爆心地から500メートルに位置する浦上天主堂
長い間、キリシタン禁制の下での迫害にあってきた信者や神父たちが自らレンガや石を積み上げ、30年の年月をかけて大正14年に東洋一の規模といわれた赤レンガの天主堂を建設しました。しかし20年後の原爆で、わずかに残った爆心地公園に移された堂壁と鐘楼の一部を残して、破壊されてしまいました。信徒12,000人のうち約8,500人が亡くなったそうです。その被害を保存する運動が起こり、市議会でも何度も議論されてきたそうですが、S34年に市議会議員たちがアメリカに招待され、帰ってきてからは保存の話は立ち消えたそうです。
現在の天主堂は再現されたものです。アメリカは原爆投下後の調査の時点から浦上天主堂の被害は隠してきました。キリスト教徒のアメリカでその聖なる地の悲惨な現実が知れると批判にさらされるということを恐れたようです。堂壁の一部は爆心地公園に移され、すぐそばの川に落ちた鐘楼の一部は川を付け替えるなどの努力のおかげで、ようやく今も保存されています。教会の階段の下に、真っ黒に焼け爛れたり、顔の半分が崩れたりした天使の像が残っていて、「こんな風に人も何もかもみな、焼かれたんだな」と思いました。
たくさんの先生が被害にあった山里小学校
現在はレンガ造りの素敵な校舎で、吹奏楽の練習の音が響き、穏かでのどかな雰囲気の校舎でした。強い日差しの中、立派なごうやが実っている畑の横に崖がありました。62年前のその日、15人の先生たちが防空壕を掘っていました。かすかに爆撃機の音を聞いた19歳の女の先生が防空壕に逃げ込み、助かりましたが、出てきた時には男か女かも分からない、真っ黒の服も着ていない遺体が防空壕の入り口に積み重なっていたそうです。それ以外にも水田の草取りをしていた28名は即死状態だったそうです。
この地域は1581人中1300人が亡くなりました。5歳の辻本富士夫という男の子が祖母と遊びに来ていました。かすかに飛行機の音を聞き、祖母と防空壕に逃げ込み助かりましたが、母、兄、妹を亡くしました。たった5歳のこどもが小学校の校庭で自分の家族を荼毘に付したのです。永井博士が建立した「あの子らの碑」の前では、翌日に控えた慰霊祭の準備がされていて、小学生が「平和の鐘」を持ってきて吊っていました。こうして毎年、子供たちや教師により、慰霊祭が準備され、平和を願う心が受け継がれていることを感じました。
62年経って、初めて被爆体験を語った、草子正行さん
その後平和公園を見学した後、爆心地公園に戻り、被爆体験を聞きました。
草子正行さんは、8歳のとき川に遊びをしていて被爆、6歳の弟と4歳の妹は即死、父と母が見つからないので、ひとりで山の中に逃げ、草や野菜を生のままで食べ飢えをしのいだそうです。翌日もお腹がすくので、亡くなった人から芋や乾パンを盗り、食べたことが今も罪の意識として残っているそうです。被爆者ということで差別されることを恐れ、高校生のときから、「原爆のことは話すまい」と決めてきました。
「語ろうとすると、怒りが溢れ、話すことができなくなる。はじめて福岡から平和行進に参加したが、自分の人生、このままではいけない。話すことで自分自身が楽になる。救われるのではないか。」と決意をされました。最後に「今も権力に対し許さない気持ちが強い。」と一言一言かみ締めるように語っていた草子さんの語彙が強くなりました。
たくさんのボランティアに感謝
この分科会だけでも長崎市役所の方をはじめ、平和案内人などたくさんのボランティアの方にお世話になりました。毎年こうして原水爆禁止世界大会を支え、日常的に被爆の現実を語り継ぐ作業をされていることに感謝、そんな草の根の運動に平和をつむぐ運動が支えられていることを強く感じました。長崎が選ばれた理由のひとつに「今までの爆撃での被害が少なく、原爆による被害がわかりやすい」ことがあげられています。まさに実験場にされたのです。「しようがなかった」の発言に改めて、怒りが湧きます。
平和の泉でのコンサートに感激
2日目の夜は、少し涼しくなってから、平和公園の平和の泉で行われた「平和の灯火コンサート」に行きました。長崎の小学生や中学生たちが平和を願う気持ちを灯篭に書き、公園の階段や泉の周りにびっしり、敷き詰められていました。日が落ちると幻想的な雰囲気でした。私たちが到着したときには、もうすでにたくさんの地元の小学生や中学生たちが親や先生に連れられて来ていました。山里小学校、城山小学校の子供たちに続き十八銀行の混声合唱団の「さとうきび畑」「ヴィリーブ」「長崎の鐘」の歌声が続きました。最後にテノール歌手の秋山さんの「千の風になって」を聞く事ができました。秋山さんは昨年も来られたそうです。ちょっぴりお得な夜でした。
青年たちの活気あふれる閉会式
閉会式は7000人の参加で、「長崎からのよびかけ」と「長崎からの手紙」が採択されました。全国からの「草の根からの発言」に続き、新婦人のお母さん、署名活動にとりくんでいる高校生たちの発言があり、最後には横断幕やタペストリーを持った青年たちが壇上を埋め尽くしました。全国から集められた50万以上の折り鶴でいっぱいになった壇上に感激でした。最後は青年たちによる「We shall Overcome」「青い空は」「ヒロシマ」「ねがい」などの大合唱で感激のうちに終わりました。
最後に
今年アメリカのテレビ番組で、14人の被爆者の証言と実際の爆撃に関与した4人のアメリカ人の証言を中心に、記録映像や資料などを交え、広島・長崎の真実を描いた、ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」が放映されます。「核兵器のない公正な世界をめざす運動」は着実に日本をはじめ世界各国に広がっています。
閉会総会の当日、「熊本県の原爆認定症の控訴をしないよう」に訴えたにもかかわらず、その翌日控訴を決めました。またしても被爆者の思いを踏みにじる日本政府に、怒りと大きな悲しみを感じます。「海外で戦争する国」をめざす安倍内閣・改憲勢力は憲法9条を敵視し、「従軍慰安婦はなかった。」「沖縄戦での集団自決は軍の命令ではない。」「15年戦争はアジア開放の正しい戦争だった。」などと歴史を歪め、戦争の反省など少しもありません。しかし真実は明らかです。私たちは歴史の真実に学び、平和のとりくみを強めていかなくてはなりません。一人ひとりの草の根のとりくみが世界を動かしているんだと実感する大会でした。大阪に帰ってきてから、さっそく保育所でお土産の「ひよこまんじゅう」を配りながら、休憩時間にナガサキ、原爆、憲法9条の話などをし、盛り上がりました。
最後に、長崎原爆松谷訴訟最終準備書面の言葉より、「私たちが、被爆者の訴えや被爆後の写真に触れるとき、常に、一瞬のうちに生命を奪われた人々の、人間としての尊厳を否定された姿を忘れてはならない。そのことに重ねて、被爆者の訴えに耳を傾けるとき、私たちは被害の実相により近づくことができるのである。」3年後の国民投票法の選挙では、9条を守り、憲法を変えない力を持たなければなりません。