セリフのつまみ食い〜「ラ・ボエーム」 筋書きにかえて
1999年9月26日、神奈川県民ホールの首都オペラ公演「ラ・ボエーム」マルチェロ役出演に際し、後援会「田辺とおるオペラ倶楽部」の会報「とおる」第二号に掲載したもの。公演当日の聴衆にも配布された。
「(画架に向かい)この『紅海』のお蔭で俺はすっかり窶れて凍えちまう・・・・仕返しにファラオを溺れさせてやるか!」僕が今回担当する画家マルチェッロの、旧約聖書のモーゼ紅海横断をもじった開口一番でオペラは開幕します。所はパリの屋根裏部屋。同居する自称大芸術家こと大言壮語の夢想家は他に詩人ロドルフォ・哲学者コリーネ・音楽家ショナール。ボヘミアンと呼ばれる連中です。
オペラは映画や演劇に較べて大袈裟な芝居で作劇されるため、歌と管弦楽が強調される一方でセリフ(歌詞)は軽視されがちですが、この作品ではプッチーニ一流の名旋律に乗って浮遊する対話がとても魅力的です。土台、貴族が登場せず決闘も戦争もおこらない「青春ドラマ」という骨子は、極めて非オペラ的と言えましょう。「タイタニック」がヒットするように、おセンチはいつの時代にも生き続けるもの。公演当日には字幕が出ますが一足先に、拙訳ですが僕の好きなセリフを拾ってみます。
なお、今公演では屋根裏部屋ではなくて橋の下だそうです。オペラ演出では、演出家の趣向で設定を変更し、古典の作品に独自性を盛り込もうという試みが珍しくありません。今回はどんなアイディアに出会えるのか、僕も稽古初日を楽しみにしているところです。
〔第一幕〕
詩人ロドルフォとのやりとり。「殿様気取りの怠け暖炉の詐欺師」「正当な所得を受けてないからな」「森は雪の下でなにやってんだ」「我が深遠なる思索を披露するが・・俺は寒い!」「君には隠すまい、僕も額の汗なぞ信じられぬのだ・・・そうだ!僕の灼熱のドラマで暖まろう」「朗読する気か、凍死するぞ」「原稿が灰になり霊感は天を飛翔するのだ。人間界の大損害だがローマは危機に瀕してる」哲学者コリーネが帰宅して「最後の審判の兆しだ。イブの晩には質屋が閉まっている」「シッ。ドラマ上演中だ。(原稿束を持って)第二幕!」「深遠な思想だ」「適切な色彩だ」「熱烈な恋の場面が煙となる」「パチパチ音がする」「それが接吻さ」「三幕一度に聞こうよ」「大胆な男の理想は全うされた」・・・ストーブ焚くのも大演劇、夢想家たちの日常である。そこに音楽家ショナールが酒肴に金まで持ち帰ったので大騒ぎ。仕事がとれたらしい。「イブだ。この食い物は陰鬱な日のための兵糧にしてラテン区のモミュスに繰り出そう」。
ノックの音。大家が来て家賃を催促する。一計案じた四人組は散々おだてて浮気をのろけさせたあげく「この男は淫らな欲望で我々の清き住まいを汚した!」うまく追い出して夜の街に出陣する。
仕事を片づける、と残るロドルフォ。またノック。肺病の隣人でお針子のミミが燭台の火を貰いにきた。帰りかけて鍵を忘れたことに気づき戻るが、風で火が消えてしまう。暗闇で鍵を探す手と手が触れ、ロドルフォが歌う。「僕は詩人。楽しき貧困の内に愛の讃歌を王の如く費やし、空想の宮殿で長者の気分を味わっているんだ」答えるミミ「私の話しは簡単。花の刺繍と、愛や空想を語ってくれるもの、つまり詩が大好きなの。天窓に射し込む最初の太陽は四月のキス。鉢の薔薇も香るわ。私の作る花には香りがないけれど」。はや、恋は成就した。
〔第二幕〕
ラテン区の雑踏。音楽家ショナール「このホルン、レの音がおかしいぞ」哲学者コリーネ「大変な珍本だ」画家マルチェッロ「カノジョ、お茶しない?」ミミ「ピンクの帽子、似合う?」ロドルフォ「金持の親戚がいるから今度すごいネックレス買ってあげるよ」露店をひやかした仲間達と新カップルが食堂モミュスに来る。ロドルフォ「この人は花作りのミミ。僕が詩人で彼女が詩。僕の頭から歌、彼女の指から花、そして幸せな心からは恋が芽吹くのだ」三人の勿体ぶった返答「珍しき見解也」「加盟にふさわし」「要あらば入られよ」。
音楽が変わりムゼッタが登場する。原作に依れば「非常にあだっぽく野心的」な娘で一度はマルチェッロと別れたもののお互いにふっきれない。老いらくの恋にのぼせたパトロン、アルチンドロを連れている。マルチェッロ「彼女?姓は誘惑、名はムゼッタ、仕事は恋の風見鶏。血に飢えた梟の如く心をついばむが故に俺はもう持ってない!」ロドルフォ「奴は恋の喪中なんだ」悩殺のワルツでムゼッタもやりかえす「私が道を歩くとみんな見とれるのよ。あの視線、ゾクゾクするわ・・・でもあの人・・・正直じゃないのね」ワルツは重唱になる。その頂点で二人は再び抱擁。縒りが戻った。
「勘定だと」「誰が頼んだ」「高い」「お前いくら持ってる」ショナール「すっからかんだ?あの金どこいっちまったんだ」連中は食い逃げ常習犯である。ムゼッタ「私のジジイが払うわよ」「ムゼッタ万歳!」。軍隊の帰営行進の雑踏に彼らの無責任讃歌が重なる。
〔第三幕〕
二ヵ月後。ラテン区に通ずる市門界隈の夜明け。税関吏が開門。郊外から来た掃除夫や物売りの農婦が通り過ぎ、マルチェッロとムゼッタが勤めるキャバレーから嬌声がもれる中、衰弱したミミが訪ねてきてロドルフォの嫉妬をマルチェッロに訴える。「あいつここで寝てるよ」「だめ、私会えない。もうおしまいだ、他の恋人を探せって言って夕べとびだしたの」ロドルフォが来る気配にミミは身を隠す。「マルチェッロ、僕はミミと別れる」「移り気だな。ま、陰気な恋はよすことだ」「ミミは浮気だ。子爵の息子が色目使うとスカートをチラチラさせてる」「お前の本心とは思えないな」・・音楽が一瞬停止した後、突如ロドルフォの叫びが炸裂「そうだ!違う!愛してるさ!でも恐いんだよ。ミミの病気がひどいのに部屋には火の気もない。僕が殺すようなものなんだ!」。
ミミの咳とすすり泣きにロドルフォが気づいて駆け寄る。ミミは切々と歌う。「さようなら。ミミは見せかけの花を作りに戻ります。恨みっこなしね。私のものを取りに門番をやります。そう、枕の下のピンクの帽子は・・・もしよかったら・・・もしよかったら・・・愛の記念に・・・取っておいてね(このクライマックスにプッチーニの情感は極まる。全曲随一の愁嘆場)さようなら。恨みっこなしね」。別れの二重唱。そこに突然マルチェッロとムゼッタの大喧嘩が重なって、ユニークな四重唱になった。「あの男と何話してたんだ」「なにさ亭主面して」「浮気女」「どうせ。じゃ、ご機嫌よろしゅう。店屋の看板書き!」「蝮!」「蟇蛙!」「魔女!」・・・。
〔第四幕〕
数カ月後。第一幕と同じ屋根裏部屋。マルチェッロ「馬車だと?」ロドルフォ「ムゼッタがな」「そりゃ結構だ。俺も見たぜ」「ムゼッタか?」「ミミさ。女王のようななりしてたな」「祝着至極だ!」。虚勢を張る二人だが仕事のペンと絵筆は毫も捗らず、それぞれの恋人を懐かしむ独白が二重唱になって絡み合う。
「今何時だ」「昨日の飯時だ」ショナールとコリーネがパンと塩ニシン一尾持って戻った。夢想家の本領発揮、大晩餐が始まる。「公爵殿、オウムは如何」「いや、太りますでな」「もうご満腹で」「急ぎますのじゃ。王に拝謁せねば」「舞踏会でございます」「メヌエットを」「ハバネラを」「いやカドリーユが宜しかろう」「お嬢さま」「恥ずかしいわ・・」「その方、身共を侮るか。剣を抜け」「おうさ、いざ受けなむ」・・即興劇はとどまるところを知らない。
その渦中にムゼッタが駆け込んで来た。「ミミを連れてきたの。子爵の所を飛びだしたって聞いて捜したわ。もう危ないのよ」粗末なベッドに寝かされたミミの傍らでロドルフォが手をとる。ムゼッタはイヤリングをマルチェッロに託して薬と医者を都合させ、手が冷たいと訴えるミミの最後の望みを叶えるべく、マフを取りにいく。「古びた外套よ、お前のポケットを哲学者たちが通り過ぎた日々は終わった。さらばじゃ」と荘厳に歌って質屋に赴くのはコリーネ。ショナールも同伴して、部屋には二人だけが残った。管弦楽は第一幕で歌われた二人のアリアを静かに奏で、歌詞は思い出話を紡ぐ。ミミの咳でそれが途切れた時、仲間達が戻って来た。ミミはマフを嬉しそうに手に取ってロドルフォに「あなたがくれたの?」ムゼッタが返事を奪う「そうよ」「向こう見ずね。高いんでしょ」ロドルフォは涙をこらえられない。眠くなったと目を閉じるミミ。木管楽器とシンバルが印象的な短調の和音を弱音で鳴らす。穏やかな臨終の瞬間。ムゼッタは聖母に快癒の祈りを捧げている。最初にショナールが気づき、マルチェッロの袖を引いた。窓際から目を戻したロドルフォは仲間達の様子からミミの死をさとり、絶叫して遺骸の上に泣き伏す。幕。