「さまよえるオランダ人」公演報告

半年も経ってしまいました。気の利いた化け物ならひっこむ時分、と落語で申します。書きかけて詰まってほっぽらかして・・・、まるで机の片隅に夏休みの宿題を積んだまま遊んでいる小学生。パソコン刷新でファイルを全部移動した折にヤッパリカコウと取り出しました。久しぶりにヴィデオもみて。あまりまとまりそうにはありませんので箇条書きに印象をつづります。(2001.2.3)(と)

第9回首都オペラ公演オペラ「さまよえるオランダ人」(ワーグナー作曲)
2000年7月30日(日) 神奈川県民ホール

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・稽古中にもさかんに書きましたが「随分声の軽いオランダ人だなぁ」というのが実感。ヴィデオで見ると「○○オペラから中継」の一流歌手と同じ環境で自分を見直すことになるので余計に感じます。経験と研究を重ねればもしかしたら「軽めではあるが田辺流の」オランダ人ができていくのかもしれないけど、唯一の公演ということでチャレンジ精神の方が色濃い。オランダ人自体を練っていく機会は今後もそう安々とはこないだろうけど、一回でもこういう経験を積まさせていただいたことは大きな収穫でした。昨秋のアイーダなどはまずまず上々の首尾でできましたが、ここなんかにはオランダ人が随分生きていたように思われます。

・演奏者としての自分と作品との精神的距離、ということも考えさせられました。本格的なドイツオペラ・大好きなワーグナー・バリトンの夢の役・・・・・、思い入れがどうしても先行してしまいます。頭に描く理想のオランダ人、という抽象的なイメージに縛られてしまったかもしれない。具体的にどう、というよりも「オランダ人のくせに・・・・」という自己批判が多かった。先入観とか固定概念というのは怖いものです。開き直ることもときには必要だな、とも。

・技術的には、声が軽いのに歌っているパートのフレーズ展開が重いから、なおさら気張る。気張ったところほど音は失敗です。余分な力みは音にならず息漏れにつながる。中くらいの音でクリアしているフレーズには良いヴィブラートが乗ってフワーッと響いていっている個所が随分あるのですが、ガンバッテしまったところとの落差が大きい。Weniger ist mehr. (Less is more??) これも実行するのは簡単ではありませんが。

・負担の大きい曲を舞台にかける時にはリスクは避けられません。声の疲労というのは蓄積しますので、本番で・フルヴォイスで・通して歌ってきて、しかも当日のコンディションにも左右されて「あの音のあとにくるこの音がどう出るか」ということになると、無責任なように聞こえますが「でたとこ勝負」の要素はどうしても残ります。きっと名歌手・大家たちにも多かれ少なかれあることでしょう。問題は即興的対応能力ですね。作品に没頭しながらもそういう冷静さを保つ、というテーマは、作品自体にがんじがらめになっていた感が強い今回のオランダ人ではうまく実行できませんでした。とはいっても成功している「しんどい音」はいっぱいあります。しかし即興的対応とはいえ技術面のいろいろなチェックポイントを瞬時にマスターする、という点においては計画的な作業です。その辺、不十分でした。一種のクライシスマネージメントなのかな。たとえば「ある音をだす直前のコンディションがこれこれだったから・・・」と瞬時に考えたときに、じゃあとばかりに力んでしまっては失敗。かといって力をぬくだけではフヌケになって音は出ない。もっと体が効果的に反応しないといけません。

・皆様の感想でも頂戴したことですが、オランダ人がほとんど幽霊あつかいだったことについては賛否両論。ことに幕切れでゼンタが切腹しオランダ人が心臓発作で後追い、というのは確かに不思議な解釈です。台本と違う、といってしまえばそれまで。しかし、ぼくにとってはやりずらくはありませんでした。歌舞伎的な芝居とか様式美とかいう視点については稽古報告でも触れてありますが、そこに立脚すれば「なぜ心臓発作なのだ」ということよりも、「苦しいこと・報われないこと・普通の人間ほど率直に感情表現ができないこと・・などのオランダ人性(?)をどうやって形に表すか」という課題が大きくなります。そういう象徴的な意味においては成功した演出だろうし、ぼくもやりやすかったし、その方向性で演技を考えることはとても勉強になった。ただし非人間性が前面にでた役作りと衣装・メイクでしたので、その強烈さ・異常さに気おされて性格表現としては単調だったかもしれません。喜怒哀楽のうち、殊に喜びの部分はもっと「マトモに」表現すべきだったかな、と思い返しました。

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以下は前に書きかけた尻切れトンボです。

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なにをどう書こうか、ずっと思案しておりました。このたびに比べれば、去年のボエーム報告は随分気楽だったようなきがします。時系列のルポなんて呑気なもんだ。運営してみて判ったことではあるけど、ホームページは文章量の点でも速報性の点でもファン倶楽部の会報などとはけた違いですから、結局自分の「己」なるものを吐露していくしかない。歌手田辺とおるの七転八倒をリアルタイムでルポするしかない。虚飾と世辞だけじゃ、しょっちゅう更新している、月刊誌さながらのメディアに書き連ねる価値もない・・・・・、とはいえ専ら傷を露呈したのでは、夢売る商売のイメージも台無しではないか・・・とか迷いつつ、書き始めています。

今回は本当に、成功に浮かれる気分が微塵もないわけなのです。基本的にぼくは芸に関する限り悲観論者ですから、いつの本番でも浮かれる気分はあまりない。せいぜい安堵。でもいつもは、おぼろげに思い出しても録音録画を見聞きしても、びっくりするほどの失敗も成功もなく、自分の頭で描いた歌手田辺とおるが左程の誤差なく存在しているのですね。ところが今回は課題のでかさ故、あたまがついていっていない。客観的・分析的視点に著しく欠けています。理屈屋のぼくにとっては、まるで手足をもがれたよう(苦笑)。目下の手持ちは7月30日の朝から終演まで、自分が考えていたことと、自分で感じた自分の体調と歌の案配に対する主観、それに皆様から頂戴したコメントの数々・・・・。これだけです。じつに頼りない。とりあえずメモのつもりで書き留めておくだけ、と思って書きます。

声の疲れが完全に回復していない、という不安を抱えた劇場入りでした。ゲネプロ翌日にへたばっていたものの、当日朝起きた感じではほぼ回復、と思えたのですが発声してみてちょこっと不安。普通の役なら2日前のゲネプロの疲労をここまで引きずらないし、逆にこの程度残っている疲労なら問題なく歌える。なんといっても専属歌手時代はこんな調子で年間100公演以上やっていますからね。なにぶん「オランダ人」なもんで、万事勝手が違います。リハ日記にゲネプロについては「・・・ゲネプロの目的は、ぼくにとっては第一に「慣れ」です。本舞台の上は聞こえ方が違います。自分の声も相手の声もオケも。そして照明効果。本番通り、ということで気分的にも興奮します。そこでコントロールがおろそかになっては本番がもたないし、かといってこういうテンションは維持せねばならないし、とこれも毎度おなじみのテーマなんですけど、易しくはありません。・・・」と書きました。そりゃそうに違いないのだけど、声の負担度を考えるとゲネプロ全力投球をちょこっと後悔してしまいます。
ともあれ、一旦劇場入りしたからには、その日のコンディションで公演を全うするしかないのですから、疲労のなんのは気にしないことにします。ペース配分だけは注意しないといけないので、頭だけは忙しく使っていますが。
準備のところは、そういう訳ですから去年となんらかわりません。日本のスタッフはほんとにいたれりつくせりで世話やいてくれるし、かといって煩わしくつきまとうわけでもないので、本当にいい気分。化粧もオケ合わせ・ゲネプロにつづいて3回目ですから、メイクさんとあれこれ細かい工夫を相談します。写真でその差がわかるかなぁ。本番のメイクはなかなかいいものにしあがりました。

ダーラント (山口俊彦)、オランダ人(田辺とおる)
ゼンタ (島田美香)
このページの写真はいずれも公演舞台から
(写真提供:はっちゃん

開場前の舞台にひとしきりたたずむこと、共演者と挨拶かわしながら、彼らの今日の顔、といったような印象を胸におさめることも去年とかわりません。「思いつめた夢見る少女」の島田さんは普段でもどこかそんな雰囲気の方。楽屋で会ってもゼンタの眼をしています。惹き込まれる魅力があります。とにかく練習量が多い。楽屋でも終始歌いっぱなしで心配になるほどです。山口さんは歌手仲間でもパパ的存在。御本人はとても繊細でナイーフな方だけど、豪快な雰囲気でアンサンブルに大きな安心感をもたらしてくれます。楽天性がよくわかるダーラントだから、コントラストの点でもオランダ人としてはとてもやりやすい。やっぱり素地の顔をみておかないと、役として芝居しているところの人間だけでは人の肌のぬくもりを感じずらいのね。舞台の相手役といえども、まず血も涙もある人間なんだと実感しておくのは大切なんです。その点では相手役にとても恵まれました。ぼくとはからみがありませんが、エリックの片寄君・舵手の日隈君、ふたりの若手テノールもどこかしら、楽屋の顔・素地がよくでた役作りをしていますね。一本気にぶつかる若き恋人役のエリック、船長の命におどおどしながらも能天気な歌を歌う律義者の舵手。いずれも将来とても楽しみな美声テノールの二人です。

開演まぎわには指揮者の楽屋で児玉さんにも挨拶。「これだけ稽古して間合いの呼吸も合ってきているのだから思いっきり歌いなさいよ。バッチリ伴奏してあげるから大丈夫よ」。稽古期間を通じて彼はずっとこのスタンス。ほんとうに見事な歌手掌握術にたすけられてきました。演出家ヴィニーとは、本番になってしまえばもう直接の付き合いは無いので、素直に激励を受けます。練達の演出家にとって、ぼくがオランダ人を歌うということの不安定性は百も承知だったでしょう。細かいひとことひとことのアドヴァイスに、非常に心遣いを感じた一月でした。当日は意味ありげな眼くばせだけ。洒落たおじさんです。
そして開演。オランダ人の出番は1・2・3の各幕とも、後半の1ブロックをしめているので、3回にはっきり区切れます。三回とも、登場してしまうとしんどい歌の連続だけど、はっきり三回に分かれているのは非常にやりやすい。ボエームの3・4幕のように二分の場面転換で3ヶ月後の自分になりきっている、というのはとても精神的に大変なんです。


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と、ここまで書いてあとが続かなくなりました。簡単にまとめておけば、一幕のアリアと続くバスとの二重唱ではかなり力みが目立ち、声も早く疲労。もっぱら気負いがありました。アリア前半はまずまずの滑り出しだったけど、音楽のクライマックスにむけて登山する勢いあまった感じ。2幕のソプラノとの二重唱では、二度目の出番なので精神的に随分ほぐれており、前半・中半はまずまず自分なりの出来。力んだ一幕がよくなかった反省をもって登板したので声にも表現にも抑制がきいたのがよかったようです。出だしの2ぺージ分などは稽古でもやったことないくらいおとなしく歌いました。音量だけでなく表現上も抑えて。ヴィデオみるとそれでちょうどいいくらいかと思える。クサイ芸は歌でも芝居でもだめなんですねぇ。二重唱後半は「ミ」つづきの殺人的フレーズ。うぅーん、率直にいってここはマスターしたとは言いがたい。オランダ人独特の難所です。もう一度取り組む機会があれば、宿題。第三幕幕切れの大見得はかなり精神力勝負といったところ。「われこそはオランダ人也」の大見得につづいて死ぬ芝居ですから異常な興奮状態で、声の負担も大きい。本来ならば「判る人にだけはバレる」という歌手の企業秘密なんでしょうが告白いたしますと、二幕の二重唱後半とこの幕切れの「ミ」と「ファ」10何発のうち4・5発は、和音構成音のうちの低い方、それぞれ「シ」と「レ」に下げて切り抜けました。本番で通演する怖さが身にしみた次第。この辺も「身の丈に余る曲」と実感した所以のひとつです。

久しぶりにヴィデオを見て「俺はこんな気分でこんな芝居やったんだっけなぁ・・。」と感心しきり。あの時の自分とヴィデオみている自分のテンションの差に唖然とします。これがあるから舞台に立ちたくなるわけなのでしょうね。いい体験でした。


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