七.接触 「瀬川素子さんを御存知ですね。」 その名前を聞いた男は、明らかに動揺を表情に表した。 「あまり、その名前をここで出して欲しくないのですが。」 「どうしてですか?」 その男は辺りを見回してから、小声になって、 「誰か会社の人間が聞いてるかもしれない。」 「そうですか。」 岸田は向かいに座る瀬川素子の恋人の近藤浩二をジッと見た。先程から応対しているのは新米刑事の室田である。 ここは近藤が勤めるビルの地下にある喫茶店であった。 「会社の人間に聞かれてまずいというのは?」 室田は手帳を広げ、右手に持つペンを指先で回しながらそう聞いた。近藤はもう一度周りを確認し、室田に顔を近 づける。 「もっと、声を落として。・・・実は、今度、部長の娘さんと婚約することになったんです。素子とはとっくに別 れたことになってるんで。」 近藤は頭を掻きながら、情けない表情でそう言った。そして、気分を落ち着けようと胸ポケットから煙草を取出し 火を付ける。 煙が岸田の顔の前を揺らぐ。 「俺も失礼するか。」 これまで、ずっと沈黙していた岸田がおもむろに身を乗り出して、煙草を取出した。 見るからにやり手と思える岸田の初めての動作に近藤も合わせるように身動ぐ。岸田はそのままゆったりとした動 作で美味しそうに煙草をふかすが、逆に近藤はテーブルの上でせわしなく指を動かす。 「近藤さん。落ち着いて下さい。」 「そんな、落ち着けるわけないでしょう。いきなり、会社に警察の人間がやって来たら。」 岸田より、若い室田の方が組みやすいと見たのか、突っかかるように叫んだ。 「近藤さん。あんたの声が一番大きいよ。」 岸田がたしなめると近藤は、一旦、口を閉ざすが、今度は岸田の方にむき直し、 「一体、何があったんですか?素子が何か?」 「あんたの恋人、いや、元恋人ですか。瀬川素子さんが今朝亡くなられているのが発見されました。」 「え、まさか・・・・・」 流石にこの言葉には驚いたのか、近藤はしばらく絶句していたが恐る恐る、岸田に尋ねる。 「自殺ですか?」 「どうして。どうして、そう思うんだ?」 「いや、それは・・・・」 近藤は言葉に詰まり、視線を宙に泳がせる。岸田は、立て続けに、 「あんたは、昨日、瀬川素子に会っている。そして、おそらく別れ話を持ち出したのだろう。あんたが瀬川素子と 飲み屋で言い合っているのを見たという証言がとれている。」 「何だ。知ってるんじゃないですか。そうです。私は昨日、素子に別れ話をしました。それがどうしたって言うん ですか。」 「その部長の娘さんとやらとの婚約が決まったのは、半年前と聞いていますが。どうして、別れ話が昨日なんです か?」 横から、室田が口を挟んだが、近藤は居直ったように憮然とした表情を作る。 「そんなのあなた達に関係ないでしょ。確かに自殺の原因に俺のことが関係したとしても、それが犯罪になるんで すか?」 「ちょっと、待った。誰も自殺とは言ってませんがね。」 「え?」 近藤は本当に驚いている表情を二人に向けた。どう見ても演技ではない。 岸田は表情には出さないが、心の中で舌打ちをした。 「どういう事ですか。殺され・・・。まさか、僕を疑っているんですか?」 「一応、関係者全員にあたってるだけですよ。」 「僕は関係ない。」 ドンとテーブルを叩くと近藤は立ち上がった。「悪いけど、失礼させてもらいますよ。」 「ちょっと、待って下さい。昨日、瀬川さんと別れた後、午前一時から二時の間、どこに居られましたか?」 「別の店で飲んでました。それじゃ。」 近藤は、そう告げるとさっさとその場去っていった。室田は追うように中腰になったが、岸田に腕を捕まれ、席に 戻される。 「いいんですか。警部」 「ああ、あいつは多分違うな。」 大ベテランの岸田が言うのだ。室田も納得した。が、 「でもバックやその中味には不審な点がありません。つまり物取りの犯行ではありません。怨恨が一番臭いと思う のですが。」と一応自分の意見を述べる。 「そうだな。」 岸田は手にした煙草を深く吸い込むとそれを灰皿に押しつぶした。 「一応、今の裏をとってくれ。それと他の関係者を。」 「はい、分かりました。」 室田が張り切って店を出る。一人取り残された岸田は、冷めかけたコーヒーに口をつけ、しかめっ面をすると背も たれに寄りかかった。 「目撃者が出ん事には、どうにもならんか。」 捜査は始まったばかりだというのに、こんな弱気をみせている自分に驚き、思わず苦笑いをする。 「俺も歳を取ったな。」 「お下げしてもよろしいでしょうか。」 感慨に耽っていると丁度、そこにウエイトレスがやって来た。岸田は一瞬考えたが、もう一杯コーヒーを注文した。 「まあ、じっくりやるさ。」 岸田はもう一本煙草を取出すとジッと見つめ、ゆっくりと火を付けるのであった。* * * * * * * * * * * *「素子が殺されたって。冗談じゃない。」 近藤は喫茶店を出ると足を早める。自分の職場に戻るため、エレベーターの前で立ち止まると、苛立ちを紛らわす ようにそう呟いた。 近藤は階数表示を見上げるが、こんな時に限って、エレベーターはなかなか降りてこない。 舌打ちを一つ洩らすと、近藤は階段へと向かった。自分の勤めるオフィスはこのビルの三階である。エレベーター はまだ九階、階段でいった方が速いと判断したためだ。 部長の娘との婚約で、ただでさえ同僚や身近な上司から睨まれているっていうのに、これ以上警察に付き合って職 場を離れていると何と噂されるか分かったもんじゃない。 そう思うと近藤の足は自然と速くなる。 「ふん。でも、もう少しの辛抱だ。正式に結婚まで辿り着けば、誰も俺に文句を言えない。」 近藤は、幾分口元をほころばせたが、同時に今日のことの言い訳を考えなければならないことを思い出した。 今が一番大事な時期である。近藤の中では、すでに終わっていた相手であるが、正式に別れ話をしたのが昨日。し かも、その日に殺されたのでは、自分が疑われるのは当然である。 自分は間違いなく殺しちゃいないが、警察はそうは思わないだろう。それで、周りをうろつかれると・・・・ 「クソ。よりによって、こんな時期に。」 近藤は、このぶつけようのない苛立ちに歯ぎしりをする思いだった。しかし、今はそんな事より、どう繕うかだ。 部長には、一年以上前に別れたことになっている。まず、ここからであった。 素直に誠心誠意謝るか。いや、これは駄目だろう。短い付き合いであるが、近藤は部長の正確を見抜いていた。 自分は人を騙してもいいが、自分が騙されることは最も嫌いというタイプである。ここはやはり、素子とはとっく に切れていて、昨日はたまたま彼女に呼び出されたことにしよう。 そして、問題なのが自分への容疑だが、自分は絶対にやっていない。それに絶対のアリバイがある。あの時間は間 違いなく、別の店で飲んでいた。 警察が疑い、捜査を進めれば進めるほど自分の容疑は晴れていくのだ。 「よし、これでいこう。」 近藤が考えをまとめ終わった頃、丁度、階段を上り終えた。一息吐いて近くの壁により掛かり、呼吸を整える。 「しかし、一体誰が素子を・・・・」 近藤が知る限り、人に恨みを買う人間ではない。むしろ、その傾向は自分にあると言ってもいい。 「まあ、いい。」 近藤は考えを断ち切ると体を起こし、オフィスの入り口へと向かう。 「ちょっと、待った。」 そこに呼び止める声が聞こえた。続けて、 「あなたの恋人を殺した人間を教えましょうか。」 「何だって。」 近藤は振り返り、声の主を見付けると、その相手の姿を確認するように目を細めるのであった。