四.変死体 女が一人で暗い路地裏を歩いている。その足取りは、お酒に酔っているのかフラフラしており、それを見ている者 がいれば、思わず手を差し伸べたくなるほどだった。 時折、立ち止まり嗚咽を洩らしているのは、どうやら泣いているためらしい。 女は、そのまま千鳥足で歩いていたが、とうとうその場に崩れ落ちてしまった。 肩に掛けていたバックも履いていたハイヒールも放り出されたように地面に転がっている。 女は目の前に転がるハイヒールを手に取ると静寂な闇の中へ投げつけた。乾いた金属音が響く。 暫(しばら)くそのまま地べたに手をつき泣き崩れていたが、その前に一人の影が立った。 そっと、先程投げたハイヒールが差し出される。 「浩二?」 女はそう言い、顔を上げるが直ぐに失望のため視線を落とした。 しかし、差し出される手に捕まって、担ぎ上げられるように立ち上がったのだった。女と影が重なったとき、ふと 甘い香りが女の鼻を突く。 戸惑うような女の目は、その影の表情を捉え、何かに驚いたように大きく見開かれた。 そして、その目は次第に光を失い、静かに閉じていった。 女が再び地面に崩れ落ちる。いつの間にか影は音静かにその場からいなくなっていた。 残された女の上で、夜であるのにカラスの鳴き声がこだましたのであった。* * * * * * * * * * * *「岸田警部、こちらです。」 警部と呼ばれた男は、四十代半ばで頭がやや薄くなりかけた男であった。呼んだ男の方は、二十代前半といったと ころで、よくドラマなどに出てくる新米刑事といった感じであったし、まさしくその通りでもあった。 人通りも少ないこの路地で、近所の主婦が朝の犬の散歩をしていた時、偶然、女性の死体を見付けた。この主婦は、 驚きのあまり、警察に通報することなどすっかり忘れ、飼い犬もそっちのけでその場から逃げ出した。 では、どうして、朝一番に警察が現れたかというと現場に残された犬が通報する訳もなく、その犬が死体の近くで しつこく吠えたて、近くを通ったサラリーマンが気付き警察に通報したのであった。 「瀬川素子、二十四才。えーと、近くの印刷会社に勤めていたようですね。」 新米刑事がまだ真新しそうな手帳を広げ、警部の岸田にそう説明した。 「他には?」 「はい、勤務態度は至って真面目だったそうです。」 「いや、室田そうじゃない。」 岸田は、自分の意図することが伝わらなかったようで苦笑いをした。 「交遊関係は?」 「えっ、あっ、はい。ここ二年ほど付き合っている男がいます。名前は近藤浩二、別の職場ですね。」 岸田は室田の言葉を聞きながら、死体の前でしゃがみ込み、何か不審な点がないか確認した。検死官に任せればい いことなのだが、これは性分というものだった。 突然、死体を見る岸田の表情が変わる。岸田の目が何かを捉えたのだ。 岸田は手を伸ばし、白い手袋をはめた手で、死体の襟元を触る。ブラウスの襟がずれ、露出された首筋には二つの 穴が穿(うが)たれていたのだ。 「何だ。この傷跡は?」 「さあ。わかりません。」 ベテランの岸田に分からないことだ。室田に分かるはずもない。思わずそう聞いてから気付いたが、室田に臆面も なく答えられると岸田は毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。 「おい、長沼。この傷跡なんだが・・・・」 長沼とは、この道十数年の検死官である。年齢は岸田とほぼ同じで、上背のあまりない岸田とは対照的にひょろり と背の高い男である。 岸田とは現場で数十年来顔を合わせて来ているので、既に顔馴染みというのを越えた関係であった。 「ん?何だって。」 「被害者の首元だ。」 長沼は、長い手足を窮屈そうに曲げ、岸田が示す首元を見た。 「ほう。」 「何だと思う?」 長沼は、顔をしかめながら考え込んだ。腕組みをしながら、考え込む様は、苦悩の芸術家といった感じがする。 「おい、お前はお化けとか、そういった類(たぐい)のものを信じるか?」 「は?」 突拍子もないことを突然聞かれたので、岸田は逆に聞き返してしまった。 「あの、ひゅーどろどろって奴か?」 岸田は、多少やけ気味におどけて、両手を前にたれて幽霊の真似をして見せた。が、長沼は真面目に頷いてみせる。 「そうだ、但し、西洋の方だがな。」 「西洋?」 「ああ、この傷跡、俺にはどうも噛まれた痕のように見える。」 「噛まれたって、お前、まさか・・・・」 岸田の頭の中には、満月を背に黒いマントを纏(まと)った吸血鬼が思い浮かばれる。 「おいおい、冗談だろ。」 「ああ、それは冗談だ。しかし、俺の貧相な想像力じゃ、そんな事しか思いつかん。」 「なるほど。で、死因は何だって。」 「ああ、それなんだが・・・・」 長沼の言葉の切れが悪い。それは、およそ長沼らしからぬ事である。付き合いが長い岸田の表情に不審の影がとも った。 「どうした?」 「いや、正直言って、分からん。」 「何だって?」 「気になる点は幾つかある。その首筋の傷もそうだ。しかし、現時点では突然死としか言いようがない。帰って詳 しく検案してみない事には何とも言えんがな。」 「おい、だとすると俺の出番はないぞ。長沼。」 「ああ、そうだな。だが、ここで先の冗談に話が戻るんだが・・・」 長沼の表情が曇る。しかし、それは岸田も同様であった。この横たわる遺体が自然死という事であれ捜査一課の警 部である岸田とは、全く関係のない話になる。 岸田は、憮然としながら長沼に次の言葉を促した。 「冗談がどうした?」 「いいか。真面目な話だぞ。」 長沼が重たい空気となったこの場面で、わざわざ、そう前置きをした。岸田の苛立ちは、最高となる。しかし、長 沼は敢えてそう言葉を切ったのであった。そうしないと長沼自身もおかしくなりそうであったからだ。 「この遺体が軽すぎるんだ。」 「どういう事だ?」 「多分・・・・血が抜かれている。」 「お、おいおい。冗談じゃないぞ。」 「ああ、今度は冗談じゃない。」 岸田と長沼の視線がぶつかり合う。お互い何かを確かめ合うような格好であった。 が、ふと、岸田の方から視線を切った。 「何のために?」 「それを調べるために、お前が呼ばれたのさ。」 「なるほどな。」 多少、掠れた声で岸田が頷いた。 岸田は若干、寒気を背筋に感じながら、身震いすると、 「分かった。それじゃ、何か詳しいことが分かったら知らせてくれ。」と、眼鏡をかけたちょっと神経質そうな刑事 に告げその場を離れた。 「おい、室田。その近藤って奴の所に案内してくれ。」 室田は岸田に呼ばれると手帳を開き、近藤の身元を確認する。続いて、携帯電話を取出し、電話をかけた。 「警部、今から行けば、近藤は社内にいるそうです。」 「分かった。それじゃ、長沼、後を頼む。」 少し離れた位置にいた長沼に声をかけると岸田は、室田を連れだって、パトカーに乗り込む。 「朝っぱらから、とんでもない事になったな。」 「はい、犯人は、一体どういう奴なんですかね。」 「さあな。」 パトカーの窓から臨む朝日が雲に隠れ、大きな影が町を包む。 岸田は、半分開いていた窓を閉め、体を深々とシートに預けた。そして、溜息を一つつき、「嫌な予感がする。」と、 呟いた。 その言葉を聞き取った室田は、不安な表情を向けるが、岸田はシートに座り込んだまま微動だにしなかった。 複雑な思いを乗せパトカーは薄暗い路地を抜けて、活気あるオフィス街へと向かったのだった。