一.プロローグ 「ママ、早く早く。」 「そんなに走っちゃ危ないでしょ。もう。」 白いワンピースを着た少女が少し小高くなっている丘の上で手を振っている。その丘の先には昔の古城を思い浮か べる外観のホテルが建っていた。 「初めての海外なんだ。仕方ないじゃないか。」 「でも。あなた・・・・。」 四十代半ば同士であろうか、夫婦は肩を並べて少女の後を追った。その穏やかな表情から、裕福な幸せ一杯の家庭 であることが知れる。 「ほら、パパも。」 「ああ、わかったよ。じゃあ、我々も走ろうか。」 「ちょっと、引っ張らないで。」 妻は夫に非難の声を上げたが、口元には笑みを湛(たた)えている。それを見届けると少女は、又、勢い良く走り出 した。 その時、一瞬、強い風が吹き、少女の白い帽子を飛ばした。 「あっ。」 少女は慌てて手で押さえ、間一髪、遠くまで飛んでいくのを防いだ。 「危ない。」 「大丈夫か?」 「うん。それより、もう、目の前よ。パパ、急ぎましょ。」 ホテルの前に立つと、正にそびえ立つといった印象を受ける。妻は、軽く身震いをした。 「少し、冷えてきたわね。」 「ああ、もうこんな時間だ。」 振り返ると太陽が沈みかけている。真っ赤な夕暮れだった。 「さあ、早く早く。」 「よし、風邪を引くといけない。入ろうか。」 一家三人は、重々しい門構えを抜け、ホテルの中へと向かった。三人が建物の中に入るとゆっくりと静かに門が閉 まる。 それは、まるで閉じこめるような、何か別の意志を感じさせたが、建物の中では対照的に屈託のない一家の笑う声 がこだましていた。* * * * * * * * * * * *「見て、見て。凄い絵よ。」 ホテルの中に入ると、まず、吹き抜けになっているロビーがあり、そこに大きな絵が飾られていた。 「誰かの肖像画みたいね。」 「ああ、ルーマニアらしいな。」 「どう言う事?」 妻の怪訝な顔をよそに、夫はその肖像画に近づいて行った。そして、振り返った後、妻の疑問に答えた。 「ドラキュラ伯爵だよ。」 「まあ。」 夫の声に妻は言葉を失った。そういったオカルト的な話が苦手のようで、夫の陰に隠れるように、寄り添った。 「あのお化けの事?」 一瞬、沈黙の時間が訪れたが、肖像画をジッと見入っていた少女がそう言い、父親に視線を向けた。 「パパもそう詳しい訳じゃないけど、実在した人物らしいからね。」 「えー、本当に人の血を吸っていたの?」 父親はその質問に軽い笑いを含めて、「あれは映画の中のお話だよ。」と、答えて愛娘の頭を撫でた。 「でも、何だか気味が悪いわ。」 妻は心なしか、若干、青ざめた表情をしている。 「大丈夫だよ。この地方では、一種の名物だから。どこにでもこんな絵は飾られているんだよ。さあさあ、ホテル ボーイがこっちを見て当惑しているようだ。部屋へ行こう。」 夫はそう言うと妻を促(うなが)して、その場を離れた。 「おい、どうした?」 夫婦はホテルボーイに続いて歩きかけたが、娘が肖像画の前で立ち止まっている。 返事が返ってこないので、父親は娘の前まで戻って、もう一度、声をかけた。 「どうした?」 「うん。」 娘は虚ろな表情を向けると、「何でもない。」と答え、父親の前を通り抜けて歩き出した。 父親は首を傾げながらも、疲れたんだろうと納得し、家族を追いかけた。 ふと、誰かの視線を感じて、振り返るが誰もいない。 「俺も疲れてるようだ。」 そう言うと軽く頭を振り、もう一度、家族を追いかけた。* * * * * * * * * * * *「ねえ、あなた、起きて。」 「ん・・・。」 「お願い。ちゃんと起きて。」 妻に何度が揺り動かされ、ようやく、夫は目を覚ました。 「今、何時だ。一体。」 「そんな事より、見て。」 妻の指さす方向を見て、先程まで半ば閉じかけていた眼が大きく開いた。それは、娘が寝ている筈のベットに誰も いないからだ。 「どこに行ったんだ?」 「分からないわ。ひょっとしたら迷子になっているかも知れない。あなた、探してきて。」 夫は頷くとガウンを着込んで、部屋を出た。妻もそれに倣う。 「まず、下のフロントに行ってみよう。」 夫婦は急ぎ足でエレベーターに向かった。 このホテルはその外観通り、昔、城だったのを内装を直してホテルとして利用いる。当然、エレベーターや電灯等 の設備は備わっていた。 「でも、何であの子、こんな夜中に部屋を出たのかしら?」 「さあな、本人に聞いてみないと。よし、1階に着いた。」 エレベーターを降りると正面にホテルのフロントがある。夫は駆け足でフロントへ向かった。 「あなた、ちょっと。」 「何だ。」 「あそこ・・・・・。」 妻が降りたエレベーターの前で立ち止まり横を見ている。その先は、あの肖像画が飾られている吹き抜けのフロア だった。そこは丁度、フロントからは廊下の壁が邪魔をして見えなくなっている。 夫は妻の元へ小走りで戻った。 「居たのか?」 妻の返事を待つまでもなく、夫も肖像画の前で動く人影を見付けた。 電灯が消されているため、はっきりとは見えなかったが、その人影の大きさからいって、自分の娘である事は間違 いない。 「心配したんだぞ。どうし・・・・・。」 夫の言葉が途中で止まった。それは目の前に信じられない光景が広がっていたためだった。肖像画の前に立ってい たのは、確かに自分の娘だった。それは疑いようがない。 ただ、信じられないのは、その娘の口元から胸元にかけて、真っ赤な血に染められている事だった。 言葉を失ったのと同時に足も止まっていた。すると後ろから、ドサッという音が聞こえた。 どうやら、妻が気絶をして倒れてしまったようだ。夫がその事を認めると自分自身も気が遠くなっていくのを感じ た。 そして、崩れ落ちる意識の中で見たものは、血に染まった口元をほころばせる娘の姿だった。 遠くで狼の鳴き声が聞こえたが、この夫婦の耳にはもう、届いてはいなかった。