一.プロローグ 
  

  「ママ、早く早く。」 
  「そんなに走っちゃ危ないでしょ。もう。」 
  白いワンピースを着た少女が少し小高くなっている丘の上で手を振っている。その丘の先には昔の古城を思い浮か
 べる外観のホテルが建っていた。 
  「初めての海外なんだ。仕方ないじゃないか。」 
  「でも。あなた・・・・。」 
  四十代半ば同士であろうか、夫婦は肩を並べて少女の後を追った。その穏やかな表情から、裕福な幸せ一杯の家庭
 であることが知れる。 
  「ほら、パパも。」 
  「ああ、わかったよ。じゃあ、我々も走ろうか。」  
  「ちょっと、引っ張らないで。」 
  妻は夫に非難の声を上げたが、口元には笑みを湛(たた)えている。それを見届けると少女は、又、勢い良く走り出
 した。 
  その時、一瞬、強い風が吹き、少女の白い帽子を飛ばした。 
  「あっ。」
  少女は慌てて手で押さえ、間一髪、遠くまで飛んでいくのを防いだ。 
  「危ない。」 
  「大丈夫か?」 
  「うん。それより、もう、目の前よ。パパ、急ぎましょ。」 
  ホテルの前に立つと、正にそびえ立つといった印象を受ける。妻は、軽く身震いをした。 
  「少し、冷えてきたわね。」 
  「ああ、もうこんな時間だ。」 
  振り返ると太陽が沈みかけている。真っ赤な夕暮れだった。 
  「さあ、早く早く。」 
  「よし、風邪を引くといけない。入ろうか。」 
  一家三人は、重々しい門構えを抜け、ホテルの中へと向かった。三人が建物の中に入るとゆっくりと静かに門が閉
 まる。 
  それは、まるで閉じこめるような、何か別の意志を感じさせたが、建物の中では対照的に屈託のない一家の笑う声
 がこだましていた。 
  
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     「見て、見て。凄い絵よ。」   ホテルの中に入ると、まず、吹き抜けになっているロビーがあり、そこに大きな絵が飾られていた。   「誰かの肖像画みたいね。」   「ああ、ルーマニアらしいな。」   「どう言う事?」   妻の怪訝な顔をよそに、夫はその肖像画に近づいて行った。そして、振り返った後、妻の疑問に答えた。   「ドラキュラ伯爵だよ。」   「まあ。」   夫の声に妻は言葉を失った。そういったオカルト的な話が苦手のようで、夫の陰に隠れるように、寄り添った。   「あのお化けの事?」   一瞬、沈黙の時間が訪れたが、肖像画をジッと見入っていた少女がそう言い、父親に視線を向けた。    「パパもそう詳しい訳じゃないけど、実在した人物らしいからね。」   「えー、本当に人の血を吸っていたの?」   父親はその質問に軽い笑いを含めて、「あれは映画の中のお話だよ。」と、答えて愛娘の頭を撫でた。   「でも、何だか気味が悪いわ。」   妻は心なしか、若干、青ざめた表情をしている。    「大丈夫だよ。この地方では、一種の名物だから。どこにでもこんな絵は飾られているんだよ。さあさあ、ホテル  ボーイがこっちを見て当惑しているようだ。部屋へ行こう。」   夫はそう言うと妻を促(うなが)して、その場を離れた。    「おい、どうした?」   夫婦はホテルボーイに続いて歩きかけたが、娘が肖像画の前で立ち止まっている。   返事が返ってこないので、父親は娘の前まで戻って、もう一度、声をかけた。   「どうした?」   「うん。」   娘は虚ろな表情を向けると、「何でもない。」と答え、父親の前を通り抜けて歩き出した。   父親は首を傾げながらも、疲れたんだろうと納得し、家族を追いかけた。   ふと、誰かの視線を感じて、振り返るが誰もいない。   「俺も疲れてるようだ。」   そう言うと軽く頭を振り、もう一度、家族を追いかけた。  
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     「ねえ、あなた、起きて。」   「ん・・・。」   「お願い。ちゃんと起きて。」   妻に何度が揺り動かされ、ようやく、夫は目を覚ました。   「今、何時だ。一体。」   「そんな事より、見て。」   妻の指さす方向を見て、先程まで半ば閉じかけていた眼が大きく開いた。それは、娘が寝ている筈のベットに誰も  いないからだ。   「どこに行ったんだ?」   「分からないわ。ひょっとしたら迷子になっているかも知れない。あなた、探してきて。」   夫は頷くとガウンを着込んで、部屋を出た。妻もそれに倣う。   「まず、下のフロントに行ってみよう。」   夫婦は急ぎ足でエレベーターに向かった。   このホテルはその外観通り、昔、城だったのを内装を直してホテルとして利用いる。当然、エレベーターや電灯等  の設備は備わっていた。   「でも、何であの子、こんな夜中に部屋を出たのかしら?」   「さあな、本人に聞いてみないと。よし、1階に着いた。」   エレベーターを降りると正面にホテルのフロントがある。夫は駆け足でフロントへ向かった。   「あなた、ちょっと。」   「何だ。」   「あそこ・・・・・。」     妻が降りたエレベーターの前で立ち止まり横を見ている。その先は、あの肖像画が飾られている吹き抜けのフロア  だった。そこは丁度、フロントからは廊下の壁が邪魔をして見えなくなっている。   夫は妻の元へ小走りで戻った。   「居たのか?」   妻の返事を待つまでもなく、夫も肖像画の前で動く人影を見付けた。   電灯が消されているため、はっきりとは見えなかったが、その人影の大きさからいって、自分の娘である事は間違  いない。   「心配したんだぞ。どうし・・・・・。」   夫の言葉が途中で止まった。それは目の前に信じられない光景が広がっていたためだった。肖像画の前に立ってい  たのは、確かに自分の娘だった。それは疑いようがない。   ただ、信じられないのは、その娘の口元から胸元にかけて、真っ赤な血に染められている事だった。      言葉を失ったのと同時に足も止まっていた。すると後ろから、ドサッという音が聞こえた。   どうやら、妻が気絶をして倒れてしまったようだ。夫がその事を認めると自分自身も気が遠くなっていくのを感じ  た。   そして、崩れ落ちる意識の中で見たものは、血に染まった口元をほころばせる娘の姿だった。   遠くで狼の鳴き声が聞こえたが、この夫婦の耳にはもう、届いてはいなかった。
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