五.魏武の強 青州黄巾賊(こうきんぞく)。 青州は、太平道(たいへいどう)の布教が盛んな地域で、その信仰は、教祖・張角(ちょうかく)の死後も色褪(いろあ) せることなかった。 その青州黄巾賊を迎え討つのは、エン州刺史の劉岱(りゅうたい)である。 反董卓連合にも参加したこの勇将は、味方である済北(せいほく)の相、鮑信(ほうしん)の持久戦に持ち込むという 提案を突っぱねるのであった。 青州黄巾賊は結束力が強く、戦場では無類の強さを発揮するが、手持ちの兵糧が少ないという欠点があった。 鮑信の提案は、その穴をつくものであったが、血気にはやる劉岱は混乱の戦場に身を置くことを選び、その中であ えなく戦死するのである。 劉岱戦死の報を受けた鮑信は、思案を巡らせた挙げ句、東郡に逗留していた曹操を頼ることにした。 曹操の所有する兵は少ないが、黄巾の乱のときの戦功は飛び抜けている。 黄巾賊を討つには、うってつけの人物と見たのだ。 そして、その使者を買って出たのが、曹操と親交のある陳留(ちんりゅう)太守の張バクである。 「曹操殿、エン州は刺史の劉岱が討たれ、黄巾賊の勢いを止める術が見つかりません。どうか、空席となったエン 州の主となってくだされ。」 曹操はその申し出に対して、即答をせずに考え込む。 地盤となる土地は欲しい。しかし、今はそれ以上に兵を欲していたのだ。 先の反董卓連合では、手持ちの兵力不足により発言力も小さく、行動できる範囲も狭かった。 最終的には李需(りじゅ)の策にはまり、危うく命を失いかける。新しく軍師として迎えた荀ケ(じゅんいく)の手厚 い看護により、元気を取り戻した曹操であったが、苦い思い出として記憶に残っているのであった。 その荀ケが主君に耳打ちをする。 「黄巾賊との戦、消耗を気にされているのでしょうか。」 その言葉に曹操は表情を変えずに頷く。 「ならば、その黄巾賊を丸ごと吸収されては、いかがでしょうか。」 『吸収か。』 曹操は声には出さず、頭の中でこの言葉を繰り返した。 曹操も当代きっての戦略家の一人である。 その自負もあるし、周囲も認めるところだろう。 しかし、その知略はいずれも敵を叩き伏せるために使ってきた。将の籠絡は考えたことがあるが、兵を丸ごと吸収 するのは、発想の外にあった。 傍らの荀ケに視線を預けると、そこには微笑みをたたえた軍師が立っていた。 曹操の中で結論に達する。 「分かった。これより、寿張(じゅちょう)へ向かう。」 曹操が言葉を発すると、すかさず夏侯惇が登場し、軍礼をとった。 「兵の準備は出来ている。」 そう言うと、颯爽と立ち去る。 「よし、出るぞ。」 曹操が立ち上がる。近臣から、自然と「おお!」という歓声が立ち上がるのであった。 エン州の牧。 曹操孟徳が天下への基盤を、いよいよ手に入れる。 その決意の場に立ち会わせたことへの感銘であったが、当時に士気も高揚したことはいうまでもなかった。 城に着いた曹操は、早速、軍議に入る。 「荀ケ、策を示せ。」 「はい。」 柔和な表情の荀ケが立ち上がる。 「黄巾賊の兵は、三十余万。これに正面からあたれば、劉岱殿の二の舞は必定。まずは籠城すべきかと。」 曹操を招いた張バクも鮑信も、その案には賛成である。 事実、鮑信は劉岱に進言したこともあった。 しかし、次策が続かなかったことにより、劉岱に受け入れられなかったのだ。 籠城とは、古来より、援軍を待つための持久策である。その援軍が、今のエン州には期待できないのだ。 「黄巾賊の強みは、その兵力。しかし、その兵力が多い故に、慢性的に兵糧不足です。軍師は、まさか兵糧不足で 撤退するのを待つというのですか?」 鮑信が荀ケに質問をする。すると、荀ケは鮑信に正対する。 「撤退してくれればいいのですが・・・恐らく、無理でしょうね。今は、劉岱殿を討ったことで勢いがついてます。 まず、その勢いを削ぐ必要があります。そして、この籠城では、殿の名が効いてきます。」 「ほう。」 荀ケの言葉を黙って聞いていた曹操が、非常に興味を示した。 「この曹操の名が効くとは?」 「殿は、先の黄巾の乱の際に、知略、奇略で名を馳せた英雄です。その曹操が亀のように城に閉じこもるのは、何 かの罠、策があるのではと疑心を抱かせます。人というのは、考え込めば考え込むほど、その動きは止まるものです。」 荀ケの言葉は丁寧で、分かりやすかった。 だが、鮑信が気にした次策は、まだ、明かされていない。 そんな鮑信の気持ちを察したのか、荀ケはニコリと笑うと立ち上がり、歩を進める。 そして、地図が貼り出された壁の前で足を止める。 「黄巾賊の動きが鈍くなった時期を見計らって、討って出ます。」 「ふむ。いよいよか。」 話の途中で声を上げたのは夏侯惇であった。 横の夏侯淵も頷く。 「いえ、両将軍。残念ながら、本気で戦われては困ります。戦うのではなくいなす感じでお願いします。そして、 こちらの地まで誘導して下さい。」 そう言って、指した場所は済北であった。 「鮑信殿、済北はここ数年、不作だったと聞きますが?」 済北の相を務める鮑信は、領地のことは熟知している。 「今年もそうです。穀倉にも、それほどゆとりはないでしょう。」 「なるほど。敵を兵糧のない地に追い込むということか。・・・して、仕上げはどうする?」 その問いに荀ケは、主君の目を正視して応えた。 「後は、殿の度量次第です。」 「ははは。おい、惇。新軍師はお前達だけではなく、この私まで試そうというらしいぞ。」 曹操の言葉に闊達に笑う武将達と、否定することなく微笑み返す荀ケ。 この様子を見ていた鮑信と張?は、ただ、その雰囲気に飲み込まれるのであった。 「さあ、軍師殿の命令だ。済北まで、誘導するぞ。」 籠城を決め込んでから、七回目の昼を迎えたとき、夏侯惇が陣頭に立った。それに続くのが、夏侯淵、曹仁、曹洪 と鮑信である。 鮑信は、済北までの道先案内役であった。 曹操と荀ケは後方に待機し、夏侯惇の将帥ぶりを観察する。 青州黄巾賊と激突したのは、寿張の城から三里ほど離れた地においてであった。 黄巾賊は、その数ばかりが喧伝されたが、実際の攻撃力も凄まじい。 だが、若干、精細を欠くのは、やはり曹操の籠城に付き合わされたためであろう。 兵糧が心細くなっていることもあり、少々、攻撃が雑な面もある。 「思ってた以上でも、以下でもないな。黄巾は。」 「曹仁、その言葉は無事、済北に着いてからにしろ。」 曹仁を窘めたのは夏侯淵である。 「済北に着いただけでいいのか?」 「軍師の言葉通り、後は孟徳に任せる。」 曹洪の問いには、夏侯惇が答えた。 これが普通に茶でも啜りながら行われている会話ならば、驚かないのだが、敵に囲まれ剣を振るいつつ成立してい る会話であるため、鮑信は呆れかえる。 「済北は、少しばかり先。集中して、油断なきように。」 その言葉に四つの視線が集中する。 的となった鮑信は、ギョッとした。何か、まずいことでも言ったのかと心配になる。 しかし、本当に心配しなければいけなかったのは発言の内容よりも、自分の身であった。 「お前が油断するな!」 そう、叫ぶ夏侯惇の言葉は、最後の方までは鮑信には届かない。 夏侯惇の目の前には、兜が陥没し、曲がっては行けない方向に首が曲がってしまった、鮑信の哀れな姿があったか らだ。 一瞬の出来事だったが、その犯人を夏侯惇は逃さない。 「誰だ、お前は!」 「ん?俺かぁ。」 ゆっくりとした口調だが、一目見るだけで相当な力量だと読みとれる。 夏侯惇が手にした槍を握り直す。ここまで、緊張する相手は、久しぶりであった。 いざ、闘わん。 その時、夏侯惇に声が飛んだ。 「待て。」 「何?」 どんな状況であろうと、主君の声は忘れない。相手が曹操だということは、はっきり分かっていたが、前線に来て いた気配を感じさせない曹操に驚いたのであった。 「この男は虎痴だ。こいつには技をみせるより、力を示した方が分かりやすい。」 曹操の後に続いて登場したのは典韋である。 「典韋に相手をさせるのか?」 「そうだ。」 役目を降ろされて不満の夏侯惇だが、曹操の言うことには従わなければならない。 曹操に虎痴と呼ばれた男は、二人のやりとりをジッと見つめ、不意に手を叩く。 「思い出したぁ。おめぇ、初めておらを倒した男だぁ。」 「ふ、覚えていたか、虎痴よ。」 曹操の冷笑を浴びた虎痴は、顔を真っ赤にする。 「今日こそ、おめぇを倒すぞぉ。」 虎痴は片手にそれぞれ、柄に球状の打撃部をつけた錘(すい)と呼ばれる得物を手にしていた。 「待て、私を倒す前に、まずはこの男と闘ってもらおう。こいつを倒せないようでは、私には到底適わんぞ。」 「んんん?こいつかぁ。」 目の前の典韋を柔和な顔で睨みつける。虎痴は童顔であり、武骨な典韋とは対照的である。 そんな姿の二人がにらみ合うのは、少し、滑稽に映った。 しかし、二人とも至って大まじめなのである。 「わかったぁ。やっつけるぅ。」 その言葉と裏腹に、まず、仕掛けたのは典韋の双戟であった。それを虎痴が受け止める。 奇しくも得物を二つずつもつ両者は、仲良く、攻撃と守備を片手ごとに行い、空中で得物が制止する。 武器を通しての力比べに変わった様子だが、その均衡は破れることはなかった。 どれほどの時間、力比べしていたか分からない。 両者の額はおろか、体中から汗がしたたり落ちる。 「分かったか、虎痴。今の自分の強さが。世の中、まだ、上はいるぞ。」 両者の水入りをしたのは、曹操であった。 「おらは、負けてないぞぉ。」 「ああ、だが勝ててもいない。それでは、この曹操には勝てない。」 「むむむ。」 虎痴の反応を曹操は楽しむようにみつめる。 「どうだ、典韋は私の元に来て、強くなった。お前も来たらどうだ。」 「・・・でもぅ。」 曹操の言葉に虎痴が困った表情をみせた。そして、顔を赤らめる。 「飯を食わせてもらってるからぁ。」 その言葉に曹操陣営から笑いが洩れる。しかし、曹操は表情を崩さずに真剣に頷いた。 「一宿一飯の恩義は、大切だな。」 「うん、おらの一飯はただの一飯じゃないからぁ。」 先程まで、命の奪い合いをしていた相手と、ここまで砕けて話せるのは虎痴の美徳である。 曹操は、何としても虎痴を配下として欲しくなってきた。 「ところで、手にしている武器が変わったようだが?」 「あれは、おめぇに負けたから、おら持つ資格ねぇんだぁ。だから、張角様に返したぁ。」 曹操の顔がパッと輝く。籠絡の活路を見いだした。 「分かった。張角はお前に武器を与えたが、この曹操はお前に名前を与えよう。」 「名前?」 「そうだ。虎痴は本当の名ではあるまい。」 虎痴は、今まで名前のことなど考えたことがなかったのかもしれない。頭がポーッとなる。 名前は人として扱われる第一歩である。 「そして、お前が受けた飯の恩も、私が代わって黄巾に返す。」 「え、おめぇが?」 虎痴の問いに答えるでもなく曹操は、馬を進める。その後に夏侯惇が続いた。 自然と虎痴もその後を追う。 「下がれ!黄巾よ。」 雷鳴のような夏侯惇の声が戦場に響く。 黄巾賊に対する命令権は、当然ないのだが、夏侯惇の声によって黄巾賊と曹操軍の間の戦闘が停止し、お互いに距 離が出来た。 その間に、曹操が立つ。 「黄巾よ。お前達の望みは何だ。」 黄巾賊はざわつくが、誰も明確な答えを発しない。 「中華の大地は、万民のものだ。そして、自由だ。」 曹操は更に黄巾賊に近づいていった。 「私は太平道の信仰を許す。太平道を護ることを許す。太平道の子として生きていくことを許す。もし、この言葉 を違えたときは、この許チョが私の首を刎ねるだろう。」 許チョと言われたのは虎痴である。許チョが虎痴に与えられた名であった。 「おらが許チョかぁ・・・おらの名が許チョ。」 「そして、今日から青州黄巾党は、曹操孟徳の一部となる。」 初めはざわついていた黄巾賊であったが、いつの間にか歓声が上がっていた。 元は虐げられてきた農民達の反乱から生まれた黄巾賊である。 こうして、認められたのは、初めての体験であった。 「中黄太乙(ちゅうこうたいいつ)!中黄太乙!」 この言葉が繰り返される群衆の中、曹操は単騎で馬を進め、いつの間にか取り込まれる。 この後、青州黄巾賊は青州兵と名前を変え、曹操が結んだ契約は、三十年間、違えることなく継続されるのであっ た。 ここから魏武の強が始まる。