四.別れ 盤河の遠紹陣営。 煌(きら)びやかな装飾が施された陣幕が並ぶ。 そんな華やかな外観と打って変わり、その中は重苦しい空気が流れていた。 その原因は主たる遠紹の機嫌が著しく悪いためであった。 目の前に控える文醜、顔良がその巨体を小さくし、主君の言葉を受け止めている。 「何故、勝ち戦を捨てて戻ってきた?」 先程から、何度となく繰り返している言葉を遠紹は二将にぶつける。 その度に両将は、言葉に詰まるのであった。 勿論、軍師田豊の言葉に従った行為なのだが、てっきり遠紹も了承済みことだと二人は思っていた。 ところが戻ってみると遠紹のこの剣幕。 二将は、今後の軍全体のことを考え、主君と軍師の間に亀裂が生じないように黙っているしかなかった。 不意に外の光が陣幕の中を照らす。その方向には田豊が立っていた。 「それは私の指示によるものです。」 「田豊か。」 遠紹の鋭い視線が飛ぶ。しかし、田豊は平然としたもので、そのまま、遠紹の前まで歩を進めると、二将を下がら せるのであった。 「この戦いは劉備が到着する前に決着をつけなければならないと、伝えておいたはずですが。」 「それは聞いている。だからといって、あと一歩の勝ちを捨てる道理はないだろう。」 「いえ、あのまま戦っても勝てたかは五分五分です。文醜、顔良、キク義と関羽、張飛、趙雲の三将を比較すれば、 どうしてもキク義将軍が一枚落ちます。三対二となった場合、残りの一将に退路を断たれれば、兵の中に動揺が走る でしょう。両将軍の判断は賢明かと・・・」 その言葉に遠紹は黙り込むが釈然としないのも事実であった。 「そこまで、劉備を評価するのか!あの小汚い筵売り風情を!」 遠紹の名門気質は、相当に高い。 四代三公を輩出した遠家。その嫡流たる遠紹よりも劉備の方を評価する田豊に苛立ちを覚える。 しかしと、田豊は言う。 血筋だけで言えば、劉備も漢室の流れを汲む。 疑わしいこと限りないと、田豊自身もそう考えるが、劉性はどこまでいっても劉性。 今の時代、劉氏というだけで、その影響力は計り知れないのだ。 「今の中華において、劉備玄徳、曹操孟徳、孫堅文台。この三名とは正面から戦わぬのが賢明です。」 「ふん。それでは、この遠紹に三名の陰に隠れて生きよと申すのか?」 「いえ。」 そう言うと、田豊は遠紹の目を見据え、語尾に力を込めるのであった。 主君に対して、従えとばかりの気迫をみせる。 「兵を集めるのです。絶対的な兵力、物量。これを得れば、先程の三名など取るに足りません。寡兵で敵を破るは 痛快かもしれませんが、所詮、誤魔化し。敵よりも多くの兵を集め破るのが、王者の道かと存じ上げます。」 「王道か・・・うまい口車だが、臨戦状態にある当面の敵、公孫サンはどうするというのだ?」 田豊の気迫と、遠紹が飛びつきそうな言葉で、主君と軍師の間の最悪の結末、破局は免れたようだ。 過ぎた戦果よりも、今後の展望を聞くのがその証拠であろう。 先程から、気を揉んでた文醜と顔良は、そっと胸を撫で下ろすのであった。 ところが、次ぎに発する田豊の言葉に仰天する。 「和睦(わぼく)しましょう。」 この言葉には、他の近臣達も騒然となる。 堪らず、沮授(そじゅ)が声を上げた。 沮授も田豊、同様に冀州を遠紹が手に入れた後に招集された人材であった。 「田豊殿、それをこちらから申し込めば、公孫サンのこと、何を要求してくるか分かりませんぞ。」 遠紹の意志を汲めば、公孫サンに頭なんぞ下げられるか、という感じであろうが、それを言うのは大人げないと、 沮授の言葉は含みを持たせた柔らかいものとなる。 そこは知者同士、共通理解が早い。 「いえ、朝廷に間に入ってもらいます。勅命なれば、公孫サンはおろか劉備も黙って従うしかないでしょう。」 「勅命であれば、こちらもしぶしぶ従うという体裁もとれます。公孫サンごときに兵を消耗するのは、確かに惜し いかもしれません。」 田豊と沮授の両名から、立て続けに言われると遠紹も考え込む。 「分かった。全て、田豊に任せる。これより、我が軍は兵力の拡大に努める。以降、このことを最優先課題とする。」 そして、遠紹がついに折れるのであった。 この宣言をもって、盤河の戦いに終止符が打たれる。 田豊の行動は素早く、三日後には両陣営に朝廷からの使者が現れるのであった。 弟を殺された公孫サンとしては、納得できるものではなかったが、頼りの白馬義従の壊滅と渤海太守の印綬という おまけまでついてきたことを秤にかけ、従うことにする。 こうして、和睦が成立したのであった。 その後、遠紹は冀州に盤石の基盤を作り、公孫サンも青州まで伸ばした勢力を揺るぎないものにしていった。 いずれ、この両者の対決は避けられないものと、誰もが予測するが、今は一時の平和に安堵する。 そんな安らかな日が過ぎた後、公孫サン陣営には、一つの大きな別れが待っているのであった。 それは戦が終わったので、役目を終えたとばかりに劉備が平原に戻ろうとした二日前のことである。 浮かない顔をした趙雲が劉備の前に現れ片膝をついた。 陽気な劉備もそんな趙雲の姿に、怪訝な表情をみせる。 「どうしたってんだ、子龍。」 「はっ。」と、言ったきり、趙雲は黙したままとなった。 これでは埒があかないと判断した簡雍が、二人の間に割って入った。 簡雍は事情を知っていたのだ。 「小耳に挟んだのですが、趙雲殿の兄君が亡くなられたと聞きました。もしや、そのことと関係がおありですか?」 簡雍の言葉に趙雲が頷く。 「これから、郷里に戻り、兄の喪に服したいと思います。」 趙雲の沈んだ声には、兄を亡くした悲しさと劉備と離れなければならない寂しさが混じり合った、切ない響きが込 められていた。 「・・そうかい。おいら、何て言っていいかわからないけど、しばらくの別れだね。」 劉備もついつい視線を落としがちになる。 何ともいえない空気が、その場に流れるのであった。 それを打ち破ったのが、義弟の張飛である。 「何でぃ、今生の別れじゃあるまいし。辛気くさくなるんじゃねぇよ。」 「こら、益徳。兄上を亡くした子龍に明るく振る舞えとは言えないだろう。」 関羽がたしなめるが、張飛の一言に救われた感は否めない。 「まぁ、雲長、益徳の言葉にも一理ある。おいら達まで沈んでちゃあ、子龍も後ろ髪が引かれるってもんだよね。」 劉備は、そういうと目の前の趙雲の手を取る。 「いつか、また、再会できるさ。そん時はおいらを助けてくんな。雲長はおっかねぇし、益徳は頼りねぇ。憲和(けんわ) は・・・えっと・・・」 「ないのなら、名前を出さないで下さい。」 言葉に詰まった劉備に、すかさず簡雍が突っ込みを入れる。 絶妙の間であったため、笑いが生じるのであった。 その雰囲気に趙雲の気持ちが救われる。 「はい、どこにいても必ず、この趙雲子龍が駆けつけます。」 「頼むぜ。」 劉備が鼻の下を擦りながら、はにかむ。 関羽と張飛が趙雲に手を差し伸べて、立ち上がらせると、それぞれ別れの挨拶をすませるのであった。 このとき、趙雲は涙するが、それは悲しみではなく感涙の涙であった。 「それじゃあ、帰る前に俺と一勝負していきな。」 突然であったが、趙雲は涙を払うと、張飛の申し出を受け入れる。 「いいか、一合、勝負だぞ。子龍はこれから、長旅に出るんだから。」 「分かってる。」 外に出た一同、劉備の声に張飛が返事を返す。 「それでいいか?」 「結構です。」 趙雲も張飛に促され、劉備の言葉を了承した。 間には関羽が入る。 「それでは、両名、前へ。」 丈八蛇矛を握る張飛と槍を手に持つ趙雲が、近づく。 「始め!」 その開始の言葉とともに、唸る得物同士が空中で激突する。 その激しさは、突風を発生させたかの錯覚を起こさせるほどであった。 「それまで!勝負なし。」 砂埃が舞う中、関羽の言葉がこだまする。 二人の勝負は、全くの互角。手に残る痺れも、全く一緒であった。 「いいか。俺はこの痺れを一生、覚えていく。お前もこの感触を忘れない内に、戻ってくるんだぜ。」 「しかと!」 趙雲が劉備に向かって、一礼すると荷造りが終わった馬に飛び乗る。 「趙雲の命は、劉備様に預けました。この体は、しばし亡き兄のために捧げます。再会の日まで、どうかお健やか に。」 「ああ、子龍もな。」 「では。やぁーっ」 掛け声を発すると趙雲を乗せた馬は、全力で走り出す。 それを見送る張飛の肩に、関羽が手をかけた。 「何だかんだ言って、一番、悲しそうじゃないか?」 「そ、そんなんじゃねぇよ。」 図星だったのか、益徳は言葉を詰まらせる。その目は、若干、潤んでいるようでもあった。 関羽は見ないふりをし、小さくなった趙雲の騎影を追う。 「また、会えるさ。きっとね。」 劉備の言葉に関羽と張飛は、頷くのであった。