二.盤河の戦い 
  

  反董卓軍解散の後、劉備は公孫サンの取りなしによって、青州(せいしゅう)は平原(へいげん)の相(そう)となった。
  表向きは青州刺史の田楷(でんかい)の旗下となっているが、田楷自身が公孫サンの配下であるため、要は公孫サン
 の軍閥に入ったことになる。 
  それまで、放浪の身であったことを考えれば大出世なのだが、公孫?も弟弟子を単に喜ばせるためだけに抜擢した
 訳ではない。 
  公孫サンは、このところ冀州(きしゅう)の覇権を巡って遠紹と争っていた。 
  その遠紹を牽制するために、これまで軍功の多い劉備軍を配置したのである。 
  公孫サンと遠紹が争うことになった経緯は、冀州牧である韓馥(かんぷく)が脆弱な政治を執っており、これに変わ
 って冀州を分割統治しないかと遠紹の方から、公孫サンに持ちかけてきたことに始まった。 
  他人の領土を奪うことに対して、世間体を気にする公孫サンではあったが、連合軍の盟主まで努めた遠紹との共同
 戦線という点と、冀州の民のためという名ばかりの大義に飛びついて、その話に乗るのである。 
  結果、冀州は韓馥の手から、スルリとこぼれ落ちた。 
  そして、落ちた先に待っていたの遠紹、一人であった。結局、遠紹は冀州を独り占めすることに成功する。 
  その方法が、また、狡猾であった。 
  公孫サンが冀州を攻めると韓馥に喧伝し、自分に助力を求めるよう仕向けたのだ。そして、自軍を冀州領内に障害
 なく入れると、あっという間に主城を制圧する。 
  韓馥が遠紹の罠に気付いたときは、時すでに遅し、ほうぼうの体で領外に逃げ出すのであった。 
  そして、公孫サンは遠紹が冀州を手に入れたので、約束通り、その半分を貰えるものと遠紹に使者を送ったのだが、
 その返事は物言わなくなった使者の遺体によって返される。 
  また、その使者が公孫サンの実弟である公孫越(こうそんえつ)であったから、公孫サンの怒りは収まらない。 
  最初は互いに牽制し合う程度であったが、ついに反董卓連合という大義の下に集まった、群雄同士の争いが、盤河
 (ばんが)において始まろうとしていた。 
  盤河の畔に両軍が別れて並び立つ。 
  「遠紹よ。約定を違えたばかりか、我が弟まで手にかけるとは、名門遠家の名をこれ以上貶(おとし)めるな。」 
  戦の前、まずは公孫サンの方から遠紹へ呼びかけた。 
  「遠家の名は、今も燦々(さんさん)と輝いておるわ。約定と言うが、ことの始まりは惰弱な政治を行う者から、民
 衆を救うということだ。その点において、貴様も韓馥も変わらん。」 
  「何と独りよがりな詭弁よ。もはや、語るに落ちた。我が信義を破った報いと、弟の仇。その身を持って償っても
 らうぞ。」 
  公孫サンの号令とともに戦いの火蓋は切って落とされた。 
  互いに河の対岸に位置するため、船を利用しての戦闘となる。 
  これは公孫サン、得意の騎馬戦法を封じる遠紹の作戦であった。 
  この策を献じたのは、新しく幕下に加えた軍師、田豊(でんほう)である。 
  田豊は、元々、韓馥に仕えていたのだが、この度、主君の失脚により自宅蟄居していたところを遠紹が召し抱えた
 のであった。 
  田豊は、初め、遠紹のことを快く思っていなかった。勿論、韓馥が遠紹を頼ろうとしたときに、強く反対した一人
 でもあった。 
  しかし、韓馥に対して命をかけて進言しなかった点と、今も尚、生き長らえている点をつかれ、遠紹の家臣となる
 ことを承知する。 
  心を切り替えて、新たな主君に仕える。そうなったときの田豊の知謀の冴は素晴らしく、もう一つ、必勝の策を遠
 紹に示していた。 
  そして、公孫サンは味方の悲鳴によって、田豊の策を知ることになる。 
  「一体、どうしたのだ。」 
  直ぐさま、伝令が公孫サンの元に現れる。 
  「後方からの一軍が、我が軍を蹴散らして進軍しております。間もなく、こちらに現れるかもしれません。」 
  「何だと!して、率いる将は誰か?」 
  「はい。それは文醜(ぶんしゅう)にございます。」 
  文醜の名を聞いて、公孫サンの配下の顔色が一瞬で青ざめる。 
  文醜は、顔良(がんりょう)と並ぶ、遠紹自慢の勇将であった。 
  「殿。相手が文醜であれば、この本陣まで迫るという話も頷けます。ここは、一旦、引かれますよう。」 
  「・・・しかし、戦は始まったばかりだぞ。」 
  「だからこそです。殿を失っては、戦になりません。」 
  近臣達の説得により、退却することに納得する。しかし、少しばかり、決断が遅かったようだ。 
  気がついたときは、文醜の一軍が迫っているのであった。 
  「ええい。平原からの援軍は、まだか?」 
  平原からの援軍とは、つまり、劉備のことである。劉備の義弟、関羽と張飛であれば、文醜に後れをとることはな
 い。 
  残念ながら、今の公孫サン軍には、文醜と闘える豪傑はいないのであった。 
  「こちらに向かっているところでしょうが、今暫く時間はかかるでしょう。ここは、私が食い止めますので、殿は
 お急ぎ下さい。」 
  そう言って、文醜の前に躍り出たのは厳綱(げんこう)であった。 
  部下の献身的な行為に公孫サンは礼をし、白馬に跨り退却する。 
  しかし、その厳綱の行為も大して時間稼ぎにはならない。 
  文醜の矛、一振りで、あえなく馬上から叩き落とされたのであった。 
  落とされた厳綱は、息が詰まり、身動きできない。勢いに乗った文醜を追うことは、不可能であった。 
  頼みの厳綱が、一瞬で敗れたのを確認すると、公孫サンの脳裏には絶望の二文字が浮かぶ。 
  幸いのなのは、厳綱達の必死の頑張りにより、追ってくるのが文醜、ただ一騎になったことと、騎乗している馬が
 幽州でも有名な名馬であったことだった。 
  だが、いかに名馬とはいえ、永遠に走り続けることができる訳ではない。 
  いつかは捕まってしまうかもしれない。 
  後ろ向きな連想が、公孫?の胸中を駆け巡る。 
  いずれ捕まるのであれば、ここは一軍の将らしく・・・ 
  公孫サンは、剣を抜き、文醜に向き直そうとしたとき、不意に横から声がかかる。 
  「勇敢ですが、賢明とは言えませんね。」 
  驚いて、そちらを見るとそこには白い甲冑を纏った偉丈夫が、公孫サンと併走して馬を駆っていた。 
  「君は?」 
  自軍では見かけたことがないが、どうやら、遠紹の手の者でもなさそうだ。 
  公孫サンが値踏みしていると、偉丈夫はニコリと笑って、「劉備玄徳の縁(ゆかり)の者です。」と、言った。 
  「おおお!」 
  まだ、窮地を脱した訳ではないが、不思議と安心感を与える微笑みであった。 
  「では、私があの男を止めますので、その間にお逃げ下さい。」 
  「すまぬ。」 
  厳綱のときとは違い、公孫サンは振り返る不安もなく、ただひたすら馬を駆ることに専念するのであった。 
  それを見送った偉丈夫は、迫り来る豪傑を前にして、気を引き締める。 
  「待て。」という言葉の前に、槍の一閃が文醜の動きを止めた。 
  この一撃を見て、目の前の男がただ者ではないことに気付く。 
  「貴様、何者だ?何故、公孫サンに味方する。」 
  「私は、常山(じょうざん)の趙雲子龍(ちょううんしりゅう)。公孫サンは劉備玄徳殿の同窓。よって、助太刀い
 たす。」 
  趙雲子龍という名に聞き覚えがあったが、思い出せずにいた。しかし、それは文醜にとって問題ではなかった。 
  問題なのは、この趙雲が相当に手強い相手ということにつきた。 
  「では、趙雲。この文醜が貴様を屠(ほふ)ってみせよう。」 
  「できないことは口にしないことだ。」 
  「何だと!」 
  これまで、立ちはだかる敵は、全て一合のもとに打ち倒してきた。 
  その文醜、自慢の一撃を趙雲はあっさりと弾き返す。 
  そして、鋭い突きを返される。 
  二人の闘いは、およそ、五十合を数えるが明らかに優勢なのは趙雲の方であった。 
  文醜の気持ちに焦りと打算が働く。 
  今更、公孫サンを追っても間に合わない。ここで趙雲を倒しても、大した戦果とはいえない。 
  文醜にとって、これ以上の一騎打ちは無意味なのだ。 
  ならば・・・ 
  思い切って、矛を投げつけると、趙雲が体勢を整える前に走り出す。そして、馬上から、振り向きざま矢を放つの
 であった。 
  その矢を弾き飛ばしている内に、文醜の姿は小さくなっていくのであった。 
  その様子に趙雲は、溜息を漏らす。 
  「文醜、強いことは強いが・・・、私や張飛殿とは、根本的に一騎打ちの考え方が違うようだ。」 
  趙雲は文醜が走っていった方向に背を向けると、そのまま、公孫サンを追うのであった。 
  盤河の戦い。 
  緒戦は、遠紹に軍配が上がる。 
  しかし、対岸に渡ってきたのは文醜の一軍のみであったため、結局は大して公孫サン軍に被害はでなかった。 
  田豊の策は、一気に公孫サンを亡き者にするものであったが、趙雲の登場により、その策が霧散と化したのだ。 
  その知らせを聞いて、遠紹の表情が曇る。 
  「文醜ほどの豪の者と互角以上に闘える者が、公孫サンにつくとは・・・厄介ではないか?」 
  その言葉に田豊は頭を振った。 
  「大丈夫でしょう。その偉丈夫が趙雲子龍であれば、恐らく、公孫サンは重用しないでしょう。」 
  自信を持って話す田豊だが、遠紹は、今一納得ができなかった。 
  すると、田豊がその訳を話す。 
  「それは、趙雲が黒山賊の出だからです。義賊とはいえ、賊は賊。名門嗜好の強い公孫?が重用するとは思えませ
 ん。せいぜい、後軍に置くのが関の山でしょう。」 
  「趙雲とは、あの有名な・・・しかし、万が一、公孫サンがそのことに気付かなかったときは、どうする?」 
  「もう、手は打ってあります。間者を放ち、その噂を公孫サン軍にばらまいております。」 
  それを聞いて、遠紹は安心する。 
  「流石は田豊だ。そなたの諌言に韓馥が耳を傾けていたらと思うと、ゾッとするぞ。」 
  その言葉に田豊の胸がチクリと痛んだが、気持ちを落ち着かせると、遠紹に諌言を呈す。 
  「趙雲のことは忘れて頂いて結構ですが、問題は、平原からの援軍が到着する前に決着をつけることです。」 
  「劉備か?・・・それ程、気にすることはなかろう。」 
  劉備の率いてくる援軍など、その数は知れている。警戒には当たらないと、遠紹は高を括るのであった。 
  「いえ、あの男を侮ってはいけません。あの男が到着すれば、死んだ趙雲も生き返るでしょう。そうなると、関羽、
 張飛、趙雲という豪傑が公孫サンに揃うのです。」 
  田豊が真剣な気概を持って、遠紹に説いた。 
  その気迫に圧されて、遠紹は頷くのであった。 
  「わ、分かった。早期に決着をつけようではないか。」 
  その言葉を聞いて、田豊は遠紹の前から退席する。 
  その後ろ姿に、遠紹は気づかれないように溜息を漏らすのであった。 
  また、田豊も遠紹の陣幕から出ると溜息を漏らす。 
  そして、夜空の月に向かって、独り言を呟くのであった。 
  「私の言葉の全てを受け入れてくれる主君がいれば・・・天下すら・・・。いや、月よ。今の言葉は、忘れてくれ。」 
  田豊は軽く肩を落として、自分に宛(あてが)われた宿舎に戻るのであった。  
 

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