一.歌姫 
  

  長安へ都を遷し、巨大な砦をビに築いた董卓の専横は止まることをしらなかった。 
  初平二年の二月、これまでの相国(しょうこく)という地位から、更に上位にあたる太師の地位を得て、周の文王・ 
 武王を補佐した太公望と同じ「尚父(しょうほ)」を号するのである。 
  そして、天子と皇太子しか乗ることが許されない、青い蓋と金の華飾りと、両側を爪で模様が描かれた車を乗り回
 し、自分の権勢を誇示するのであった。 
  その車は、「竿摩車(かんましゃ)」と呼ばれ、天子に迫るという意味がその名の由来であった。 
  その竿摩車が、長安の往来を通行する。 
  いつもの市中見回りと称した、ただの散策であったが、その動きが突然、ピタリと止まる。 
  長安では、董卓によって密告が奨励された。 
  これにより、親不孝な子、不忠な臣、清廉でない官吏、従順でない弟などが刑に処された。 
  董卓が科す刑とは、当然、死罪である。 
  この法令が、公正に適用されれば問題はなかったのだが、他人を陥れるために乱用されるようになると収拾がつか
 なくる。 
  人々は疑心暗鬼となり、長安の往来は人通りが少なくなり、ひっそりと静まり返るようになったのであった。 
  董卓は、そんな状況にさえ悦に入っていたのだが、今日はいつもと様子が違う。 
  往来に人垣が生まれ、溜息と歓声が交錯しているのであった。 
  長安に久しぶりに訪れた活気と言って良い。 
  「何事だ?」 
  車から、僅かに身を乗り出すと、董卓は近くの者に確認してくるように命じるのであった。 
  その者は小走りに人垣の中に混じっていく。程なくして、昂揚した表情で戻ってくる。 
  「踊り子・・・いや、歌姫です。見事な声と舞踊でした。」 
  その返答に董卓は苛立ちを覚えた。 
  長安、いや、今の中華の支配者である自分がここにいるにも関わらず、歌姫か妓女(ぎじょ)か得体の知れない者に
 気をとられる人々。 
  『全て、焼き殺してくれる。』 
  董卓が車から大地へと降り立つと、長安の住民も流石に気付く。 
  皆、一様に平伏すると、これまで人垣で見えなかった歌姫の姿が董卓の目に映るのであった。 
  そして、次の瞬間、息を呑む。 
  急に董卓の足が止まったため、慌てて追いかけてきた侍従の者達が、危うくぶつかりそうになるのだが、そのこと
 にさえ気付かない。 
  董卓は、その歌姫を惚けるように見つめるのであった。 
  平伏していた長安の人々は、自分達の非礼に対して、罰が与えられるのを恐れて、地に額をつけたままでいたため、
 その場から董卓がいなくなったことにしばらく気付かなかった。 
  自分達が命拾いしたことを疑問に思うというのは、不思議な考え方だが、人々の思いは一様であり、この奇跡に感
 謝する。 
  そして、改めて歌姫の舞を見つめると納得するのであった。 
  この娘は天女であり、天女が我らの命を救ってくれたのだと・・・ 
  確か、その娘の名は、『貂セン』。 
  その貂センの舞を遠くから見つめる人物がいた。その男も同様に、この奇跡に驚いていたが、感謝や感動とは別の
 思いに支配されていた。 
  男は、意を決したように貂?に近づいていくのであった。 
  
  
  
  董卓は帰りの道中、自分がどのようにして車に乗ったのか、全く覚えていなかった。 
  それ程に、あの歌姫に心を奪われてしまったのであった。 
  あのとき、強引に連れてくれば良かったと悔やむが、引き返してまで実行するのは憚(はばか)られるほど、純粋な
 想いは強かった。 
  だが、それでは二度と会うことはないのではあるまいかと、複雑な心境である。 
  しかし、董卓の想いが通じたのか、初めて出会ってから、五日後に再び出会うことになる。 
  董卓の運命が大きく変わる再会は、不意に突然、訪れるのであった。 
  三公の一人。 
  司徒・王允(おういん)の邸宅に招かれ、歓待を受けたとき、想い人は董卓の前に現れた。 
  歌も踊りもあのときと同じ。そして、表情や容姿の艶やかさはあのとき以上であった。 
  董卓の杯が、思わず手から滑り落ちる。 
  「王允、その娘は?」 
  董卓の驚きように、王允自身、どう反応してよいものか分からなかったが、まずは問われたことのみ応えればと、
 目の前の華麗な歌姫の素性を明かす。 
  名は、貂セン。 
  王允の養女で幼少の頃より、珠を磨くように諸芸を学ばせていたという。 
  勿論、王允にこんな美しい養女がいるなど、董卓は初耳だった。 
  「先日、長安の往来で見かけたのだが・・・」 
  「ああ。歌と舞踊に関しましては、趣味の域を超えておりまして・・・人に見られることによって、芸を更に極め
 ると本人が・・・お恥ずかしい話です。」 
  「いや、そんなことはない。女性にして、その心意気は立派なことだ。」 
  董卓は、即座に王允を励ます。 
  そんな声などかけられたことがない王允は、董卓の豹変ぶりに呆気にとられるが、当の本人は、これ以上、王允と
 話している時間が勿体ないとばかりに、貂センの踊りを食い入るように見つめるのであった。 
  楽しい一時は、あっという間である。 
  長安を支配しても時間までは支配できない。 
  貂センの舞踊は終わり、深い礼の後、退出しようとするのであった。 
  思わず董卓が、声を上げようとするが、何とか、それは自制した。 
  すると、王允が貂センの退出を止める。 
  「これ、貂センや。こちらに来て、董太師にお酌をしないか。」 
  「はい。」 
  貂センは王允の指示に従い、董卓の隣りに座ると酒瓶を手にする。 
  董卓と目が合うと、頬を染めて目を伏せるのであった。 
  震える手で杯に酒を注ぐと、細く小さな手を董卓が握りしめる。驚きで、貂?が酒瓶を落としてしまうが、董卓は
 構わずにその手を握り続けた。 
  「王允、いや、王允殿。貂センを側室として輿入れさせてくれないか。」 
  その言葉に王允は、大げさなほど喜びの声を上げた。 
  「実は本日、董太師を招かさせて頂いたのは、この貂センと引き合わせるためだったのです。よもや、董太師の方
 から声をかけて頂けるとは・・・」 
  董卓は大いに満足する。 
  流石に、本日直ぐに連れて帰るという訳にはいかないので、後日、吉日を選んで縁組みを執り行うこととなった。
  宴も終わり、董卓は名残惜しそうに王允邸を後にする。 
  残った王允と貂センは、互いに目を合わせるのであった。 
  「本当にいいのだな。」 
  「はい。私から、望んだことです。」 
  貂センは、強い決意を胸に頷いた。官吏の最高峰、三公にまで登り詰めた王允がその気迫に圧される。 
  「そなたが、そう申すなら、私も出来るだけ協力しよう。」 
  「よろしく、お願いします。」 
  貂センは三つ指ついてお辞儀をする。 
  その姿に王允は、胸が詰まる。 
  そして、五日前のことを思い出すのであった。 
  
  
  
  長安の往来で舞終えた貂センは、弾む息を整えようと大きく深呼吸をする。 
  そんな折り、突然、声をかけられて驚くのであった。 
  振り返ると、そこには身分高そうな男が立っていた。 
  「何でしょうか?」 
  「いや、そなたの歌と舞に感銘を受けた。」 
  「ありがとうございます。」 
  貂センは、この得たいの知れない男の言葉に素直に礼を述べる。 
  その男は、何か言い淀んでおり、うまく言葉が続かない様子であった。 
  付き合うのつもりは貂センにないので、軽く会釈だけして、その場を去ろうとするのに、ついに男は意を決した。
  「待ってくれ。私は王允と申す。少し、私の話を聞いて欲しい。」 
  王允という名を聞いて、貂センはそのつぶらな瞳を大きく見開くと、ニッコリ微笑むのであった。 
  それは傾国の微笑である。 
  「今日は大きな魚が二匹も釣れました。」 
  「二匹とは?・・・私と・・?」 
  「ええ。王允様が想像されている方です。」 
  この返答に、何か訳ありと察した王允は、ひょっとしたら、自分の思惑と一致するかもしれないと希望を抱く。 
  往来では詳しい話が出来ないので、続きは王允の邸宅で行うこととした。 
  屋敷につくと、話は貂?の方から切り出してくるのであった。 
  「司徒の王允様。どうか、董卓様へ口利きをして頂けないでしょうか?」 
  「口利きとは?何か目的があるのかね?」 
  返答に窮してた貂センは、「決して、ご迷惑はおかけしません。」と、一言、話すのみであった。 
  しかし、このままでは話が進展しないと踏んだ王允は、一つ鎌をかけることにした。 
  「迷惑をかけないというが、得体の知れない女性を近づけて、董太師に万が一のことがあっては、困るのだがな・・」
  貂センは顔を青ざめた後、目を伏せるのであった。 
  その仕草に、『やはり』と感じた王允は、自らの腹の内を貂センに伝えることにした。 
  「いや、心配しなくても大丈夫だ。私も今の漢の現状を憂う者の一人だ。」 
  「それでは!」 
  貂センの表情が一転して明るくなる。 
  その表情は作られたものではなく、その人本人の内面を映し出しているような、そんな希望に満ちた表情であった。
  「うむ。恐らく、お互いの利害は一致していると思う。・・・しかし、信用を深めるために、もう少し詳しい話を
 聞かせてもらえないだろうか?」 
  王允の提案に貂センも頷く。 
  そして、自身の身に降りかかった忌まわしい出来事を話し始める。 
  今から、およそ一年前に陽城に董卓が突然、巡行に現れた。 
  折しもその日は、春祭りの日であったため住人一同は神社に集まっており、董卓の来訪に誰一人気付かなかった。 
  そのため、出迎えることももてなす準備もできず、董卓の怒りに触れて、大虐殺が敢行された。 
  貂センは、そのときの生き残りで、董卓に強い恨みがあるという。 
  貂センの話は、王允の記憶とも一致した。 
  しかもより詳しい情報を持っている。 
  それは董卓がわざと春祭りの日を選んで口実を作り、部下達に大量虐殺の快感を思い出させるよう仕向けたという
 ことであった。 
  「分かった。君を信じて、董卓と引き合わせよう。」 
  「はい。よろしくお願いします。」 
  貂センの瞳から、涙がこぼれ落ちる。 
  王允の良い返事に安堵したのか、緊張の張りが一気に緩む。 
  その涙は止めどなく流れ続けるのであった。 
  そんな姿に王允は、心打たれる。 
  貂センは、若く魅力的な女性である。それが董卓と引き合わせれば、どのような顛末が待っているかは想像するま
 でもない。 
  しかも想像を絶するほどの憎い相手にである。 
  「本当に・・・」 
  王允のその言葉は、貂センの意志によって掻き消された。 
  「全て、覚悟の上です。どうか、私の願いを聞いてください。」 
  「分かった。我らが不甲斐ないばかりに、君のようなか弱い女性に頼らなければならぬとは・・・・必ず、董卓を!」
  「ええ。お任せ下さい。」 
  
  
  
  そして、貂センの輿入れの日がやって来た。 
  董卓の迎えが貂センの登場を、今か今かと待ち望んでいる。 
  そんな中、王允と恐らく今生の別れとなる挨拶をすませるのであった。 
  「本当にすまぬ。・・・それ以外に言葉がみつからん。」 
  「ふふふ。私の思いは私情、王允様の願いは大志でございます。もっと、胸を張られてもよろしいのではありませ
 んか?」 
  そう明るく振る舞う貂センの姿に、ますます言葉を失う王允であった。 
  「空元気ではございませんよ。これから、私の想いが遂げられる日が近づいてくると思えば、自然と笑みがこぼれ
 てくるのでございます。」 
  「そうか。・・・では、私も笑顔で見送ろう。涙は不吉であるからな。」 
  「はい。・・・それでは、そろそろ。」 
  そう言って、貂?は王允の前を後にした。 
  屋敷を出る一歩手前、突然、振り返る貂センは深いお辞儀をする。 
  「短い間でしたが、本当の父上のような錯覚を覚えました。本当にありがとうございます。」 
  王允は言葉を詰まらる。やっと振り絞った言葉は、「ここは、もうそなたの家だ。こと成就した暁には、必ず戻っ
 てくるのだぞ。」であった。 
  「はい。」 
  大きく返事をした貂?は、躊躇うことなく董卓が用意した牛車に乗り込む。 
  牛車が小さく見えなくなるまで、王允は見送り続けるのであった。 
  成功と貂センの無事を祈って・・・ 
 

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