八.挙兵 長い旅路の果てに、沛国・しょう県の門をくぐった男の猛禽(もうきん)のような鋭い眼光には、昔と変わらぬ景色 が飛び込んできた。 この故郷を離れたのが、黄巾の乱の折りに漢朝から招聘された時であり、あれから五年の歳月が流れているのだった。 曹操は、ふと立ち止まると感慨深げにその頃のことを思い出すのであった。 あの時は、五百の精鋭とこの町を出た。そして、今はただ一人でこの町に戻ってきた。 しかし、曹操には卑下する気持ちは、全くなかった。 何故なら、五百の兵はことごとく失ったわけではないからだ。勿論、激戦の中、数名の死傷者は出たが、今、曹操 の元にいないのは、それぞれ各地に散り、勇者を募っているためなのだ。 そして、この沛国・しょう県で合流することになっている。 「ふっ。」 突然、曹操は一笑すると再び馬を進める。 自らに与えられた時間の少なさを思い出し、過去の思い出に身を寄り添わせる自分を軽く自嘲したのだった。 そう、今の曹操には董卓を討つための兵と武具を早急に揃えなければならない。 反董卓の激を飛ばした自分が、連合に参加できないではお話にならない。 そのためには資金を援助してくれる協力者の存在が不可欠であった。 両伯奢に出会い、上手くいけばと一時は、思った曹操であったが、その当てが外れた以上、頼れるのは曹家の名前 だけであった。 曹操は父に交友関係のある大富豪の紹介を頼もうと考えていたのだ。 勿論、紹介されただけで直ぐに資金が得られるとは思っていない。 しかし、本人と直に会うことができれば、何とかなる。巧みな話術を駆使し、必ず資金を得てやるという気概があ った。 曹操は急ぎ、父の待つ生家へと急いだのだった。 「父上、ご健勝そうで何よりです。」 曹操の挨拶に父の曹嵩(そうすう)は、にこやかに出迎えた。 「うむ、お前も元気そうで安心したよ。」 そう言う、父の頭が白髪に変わっているのに、五年の月日の重みを感じる曹操であった。 「父上、実は・・・」 曹操が、切り出そうとする所を曹嵩が制した。 「分かっておる。今日の昼過ぎに陳留(ちんりゅう)の大富豪、衛弘(えいこう)殿が当家に参られることとなってい る。直にお会いし、お願いしてみるといい。」 「それは、・・・ありがとうございます。」 流石は曹操の父、その昔には司隷校尉(しれいこうい)、大鴻臚(だいこうろ)を歴任し、ついには三公の大尉まで昇 進した男である。 その辺の読みは、曹操顔負けであった。 そんな曹嵩は、曹操が深々と頭を下げるのを照れ臭そうにする。 「何、本当は当家で用立てできれば、一番良いのだが、何しろ、儂は今、職を失っておる身だからな。お前の祖父、 曹騰(そうとう)の遺産を食い扶持に当てている。それだけの余裕がないのだよ。」 曹家に余財が少ないのは事実だ。だから、曹操自身も最初から当てにはしていなかった。 曹操が深々と頭を下げたのは、そんなことよりも、いつ帰ってくるか分からない息子の身を案じ、これ以上ないと いう形で陰から支えてくれる。 そんな父の姿に感動を覚えたためだ。 「父上、余財のことは気になさらずに。この孟徳が父上を必ず迎えに参ります。」 「そうか。頼んだぞ。」 言い切った曹操の姿を曹嵩は頼もしく見つめた。 そして、改めて大きく成長したなと感心する。 子はいつか、親を越える。 曹嵩にとって、今がその時なのだと感じ取るのであった。 「よし、では衛弘殿のおもてなしの支度にとりかかろうか。」 「はい。」 曹家、親子の絆が一層、深まった瞬間であった。 曹家は貴人を迎える最高のおもてなしで、衛弘を招き入れた。 豪商・衛弘もこの歓待には深く感激し、夕食の宴では、酒杯も進む。 その中、機を伺っていた曹操が、いよいよ衛弘の前に進み出るのだった。 その姿を認めた曹嵩も自然と箸が止まり、成り行きを見守るのである。 「衛弘殿、この曹操孟徳。貴殿にお願いがございます。」 賑やかだった宴が急に静まりかえる。 そんな雰囲気に衛弘は、ただならぬものを感じるのであった。 加えて目の前にいる曹操の真剣な表情が、衛弘の中から酒気を奪っていく。 「何かな。孟徳君。」 ほろ酔いの赤顔ながら、衛弘には富豪としての威厳があった。 財を成した、成功者の威厳と言っていい。 その威厳を真っ向から受け止め、曹操は切り出した。 「衛弘殿は、洛陽の荒廃ぶりはご存じでしょうか。」 「荒廃?」 衛弘が怪訝するように、洛陽の活気は失われているものの、そこまでいうほど今の所ひどくはない。 大げさに言ったのは、切り出しのための演出であった。 これで相手が食いついてくればいいい 「まあ、洛陽の商人に元気はないのは事実だが。その分、私たちが儲けさせてもらっているよ。」 「流石に豪商らしいお言葉です。しかし、商売は物が流通してこその生業(なりわい)でしょう。」 「何が言いたいのかな?」 その言葉を待っていた曹操は、ここぞとばかりに一気に話を進める。 「今、衛弘殿が得られている利益は一時のもの。洛陽の活気を取り戻さなければ、その利益も長続きはしないでし ょう。」 「君に商売の何たるかを教わるとは思わなかった。参考にしよう。」 話を早く切り上げたいのか、衛弘は冗談交じりにそう答えた。 しかし、曹操は、引き下がらない。 「行動の伴わない参考など、意味がありません。」 「では、どうしろと言うんだね。」 「この曹操孟徳にご助力を。さすれば、洛陽に救う悪漢・董卓をたちどころに追い払って見せます。」 曹操がそう発言すると衛弘は、一瞬、返す言葉を失うのだが、その後苦笑いを浮かべるのである。 「君の言うことは壮大だが、内容が伴っていないように思う。君、一人であの董卓を打ち破ると言うのかね。」 「無論、私も一人でできるとは思っておりません。これをご覧下さい。」 曹操は、そう言って、各地の諸侯に出した檄文を差し出した。 それを読んだ衛弘は、一息唸ると猜疑の目を曹操に向ける。 「この檄文の中に天子の密書とあるが、本当かね。」 「嘘です。」 これまで、黙って見守っていた曹嵩が、不安になり心の中で、「おいおい。」と、呟いた。 しかし、曹操は平然としている。 「密書の話は嘘ですが、天子の真意に偽りはありません。それを確かめるために私の友人が命を賭して、宮中に忍 び込み天子に謁見して参りました。」 「なるほど。君はその友人の信義にも応えたいというわけか。」 衛弘にそう言われて、曹操は、ハッとした。 今まで、そんなことを考えてもいなかった。逆に劉備を利用している気でいたのだが、心のどこかでは、確かにそ んな気持ちがあったのかもしれない。 「しかし、これで各地の諸侯が本当に集まるのか?」 「それは間違いありません。董卓はすでに天下を手に入れた気でいるかもしれませんが、まだ、四海を制したわけ ではありません。各地には野心家の人間が、まだ、残っています。加えて、天子の御心に応えなければ従えている部 下の手前、示しもつきません。」 「うむ。君の話は分かった。可能性がない話ではないということか・・・」 衛弘は、そう言うと黙って考え込んだ。 その頭の中では、様々な計算がされているのだろう。 衛弘の頭の中の天秤がどちらに傾くかによって、曹操の人生が全く変わったものになる。 曹操をしても緊張する時間であった。 「分かった。」 「では!」 曹操の声色が一段、高くなる。 「いや、ちょっと待ってくれ。」 肩すかしを食らい、一瞬、前のめりになった体をどうにか、曹操は堪えた。 しかし、隣では派手な音をたてて、お膳に倒れ込む曹嵩がいた。 それを見た給仕の者が、慌てて曹嵩に駆け寄る。 「いや、すまない。別に断るわけではないんだ。・・・ただ、私も商人の端くれ。その・・・」 「担保ですか?」 曹操の顔が険しくなる。 曹家に残った財産は、この屋敷しかない。 この屋敷を担保に取られては、両親の住む場所がなくなってしまう。 「衛弘殿、この屋敷でよければ差し出しますぞ。」 料理で顔が油まみれになった曹嵩が、そう叫ぶ。その言葉を曹操は、目を瞑り唇を噛み締めながら心に刻んだ。 「待って下さい。曹嵩殿。友人の貴方から、そんなことはできません。私が言いたいのは、その担保ではなく、成 功の証が欲しいということです。」 曹操は、その言葉を聞いて晴れやかな気分になった。 そんな簡単なことを・・・ 「ならば、この曹操孟徳をよくごらんになって下さい。この曹操孟徳自身がその証です。」 そう言われて、衛弘は唖然とした後、高笑いを始める。 曹操は、それで勝ったと確信した。 「分かりました。人を動かすのも商才だとすれば、孟徳君は私以上の商売人だ。私以上ということであれば、諸侯 を必ず動かしてくれる。・・・ご援助させてもらいましょう。」 衛弘と曹操が手を取り合った。その隣で感涙にむせる曹嵩の姿が給仕達の目には印象的に残るのであった。 それから、一週間後、曹操の前には武装した五千の私兵が集まっていた。 各地に散り、勇者を募っていた仲間が帰ってきたのだ。 前列には古参の夏侯惇、夏侯淵、曹洪、曹仁が並び、その後ろには巨漢の典韋と小兵の楽進がおり、そして、その 隣には見慣れない二人の人物が並んで立っていた。 一人は李典(りてん)、字は蔓成(まんせい)といい、山陽郡(さんようぐん)の生まれで、その慎重な性格は顔にも表 れていた。 そして、もう一人は、李通(りつう)、字は文達(ぶんたつ)といった。この江夏郡(こうかぐん)出身の若者は、膂力 に自信がある様子で内に秘めたる闘志で目を輝かせている。 陣容は揃った。後は曹操の号令を待つだけである。 曹操は隊列の前へとゆっくりと進んでいった。 独特の緊張感が軍全体を包む。 「故郷から兵を挙げるのは、これで二度目だ。」 小さな声だが、不思議と全員の耳に響き渡る。誰もが曹操の一挙手一投足に注目している証拠であった。 「一度の目の挙兵で、黄巾の乱を鎮めた。そして、この二度目の挙兵では、・・・董卓を討つ。討てる討てないで はない。討つんだ。この曹操孟徳とともに都で暴政に震える天子様をお救いするんだ。」 鬨の声が天を衝く。 曹操が拳を天に掲げると皆がそれに続いた。 興奮冷めやらぬまま、曹軍は都洛陽を目指すのであった。