七.呂伯奢 司州(ししゅう)・中牟(ちゅうぼう)の町に張り出された人相書きの前で、ふと、立ち止まった男がいた。 その男は大衆の視線を一点に集める、その手配書を一瞥すると、一瞬だけ口元を綻ばせた後に、その表情を消した。 そのおふれには、こう書かれている。 『曹操孟徳、天子に逆らう大罪有り。彼の者、捕まえたれば、県令の職と金子・・・・』 平民や百姓にとっては、夢のような報償であろう。 周りからは、歓喜の声が上がっている。その中を男は抜け出し、人の輪を後にするのであった。 そして、こう呟く。 「董卓め。人を掻き立てるだけの懸賞を懸けておきながら、本気で捉える気はないのだな。この私を・・・」 歩き出す曹操の肩越しから見える人相書きは、曹操の素顔とは全く異なる顔が描かれているのだ。 初めその人相書きを見た時は、あまりにも似ていないことから、苦笑いを浮かべた曹操であったが、これが董卓か らの挑戦だと悟ると、その表情を一変させるのである。 その似せ絵は似ていないのではなく、意図的に違う顔を描いたのだ。 それは面と向かって 反意を示した曹操に対して体面上は、捉えるように命じてはいるが、その実は捉えずとも恐 れるに足りないという意思の表れだろう。 「まあ、いい。ならば、私は自由にさせてもらうさ。」 曹操は、そのまま大手を振って歩き出す。案の定、関所でも何の尋問も受けずに通ることが許されるのであった。 障害が何もないことを望むのが、本来の道であるのに関わらず、この時ばかりは、曹操の自尊心はいたく傷つけら れるのであった。 「なかなか妙な手を打つ。自分の優越感と私の自尊心、二つに効果がある。・・・どうせ、李儒(りじゅ)あたりの 入れ知恵だろうが。」 褒めたくはないが、感心するより他にない。 何故なら、この時ばかりは、さしもの曹操も、ここで『私が曹操孟徳だ。』と、名乗り出たらどうなるだろうと、 普段は思いもよらない馬鹿げた行為まで考え出していたからであった。 流石にそんな自滅的行為は自制したが、董卓を討つ気持ちは更に強く、大きく膨らむのであった。 「・・曹操様ですね。」 そんな中、不意に声をかける男がいた。事前と手が剣の柄に及ぶ。 振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。全く、その青年とは面識がなく、先程の人相書きの前にも、こん な青年はいなかった。 「君は誰だ?」 自分の名は明かさず、相手の素性を確かめる。曹操は、慎重に青年の出方を待った。 すると、青年は、「失礼しました。私は洛陽で商売を営んでいる呂伯奢(りょはくしゃ)の身内の者です。」と、言 った。 ・・・呂伯奢。確か父の曹嵩(そうすう)と親しくしていた人物だったか。幼少の折り、何度か会った記憶がある。 「あの手配書が三日前から、張り出されまして、我が家でも話題になっていたんですよ。貴方の身の心配は元より、 あの似せ絵を男前の曹操様が拝見された時、いたくご立腹になるであろうと・・・」 その青年は曹操の思考中に割って入り、その屈託のない笑顔を向ける。 「それで、父より貴方のお顔の特徴を聞いておりまして・・・あの人相書きの前で不快な表情をされた貴方を見た 時、ひょっとしたらと思い、声をかけた次第です。」 この青年は、曹操の険しい表情を勘違いして読みとったのであろう。 「そういうことでしたか。如何にも私は、曹操孟徳です。貴方の父上には幼少の頃、お世話になりました。」 曹操が、そう言うと、その青年はその笑顔を更に綻ばせ、喜びを表現する。 「やはり。」 そして、周りに配慮するように声を低くすると、「あの人相書きでは、貴方と気付く者はいないかと思いますが、 用心に越したことはありません。どうでしょうか、我が家にしばし逗留なさって、様子を伺っては?」と、勧めてき た。 「・・・そうですね。それでは、お世話になります。」 僅かの間考えた後、曹操は、そう答えた。 呂伯奢と言えば、大富豪とまではいかないが、それなりの資産家である。 うまくいけば、軍資金の援助を受けられるかも知れない。 「おお、そうですか。貴方のような立派な御仁を迎えられるとは、これ程の名誉なことはございません。曹操様の 手助けが出来たとなれば、貴方が董卓を討った後、我が家が栄えることは間違いないでしょう。」 青年は、喜び勇んで曹操を先導するのであった。 「挨拶をしたいのだが、主の呂伯奢殿は、どちらに?」 「父は商品の仕入れに出ておりまして、間もなく戻ると思います。」 曹操の問いに、そう答えると、その時間も惜しいとばかりに、青年は急いで厨房に入りこまめに指示を送るのであ った。 今、招かれた屋敷の中は、ご馳走の匂いで充満し、曹操の食欲を刺激する。 手持ちぶさたになった、曹操は屋敷の中を探索した。 『それにしても広い閑静な屋敷だ。資産は思ったより、ありそうだな。それにしても・・・』 そんな算段をしている時に、召使いの一人が、曹操を呼びに来た。 どうやら、食事の準備が整ったようである。 曹操が食堂に着くと、目の前にはありとあらゆる山海の珍味が出揃っている。そんな感じがする程のご馳走が、食 卓の上に所狭しと並べられていた。 この歓待ぶりには、曹操も驚かされる。 促されるまま曹操が席に着くと、早くも目の前に杯が置かれ、酒を勧められた。 しかし、この席に至っても呂伯奢の姿が見られなかった。 「呂伯奢殿がいらっしゃらないのに、食事につくわけには・・・」 「そうですね。しかし、料理も冷めてしまいますし・・・食前酒を飲んでいる内に、戻っくると思いますので、軽 く始めていましょう。」 「まあ、私もこれだけの料理を前にして、指をくわえて待っているのは、正直、つらいものを感じますから。」 曹操は杯を持つと給仕の者に差し出し、酒で満たされるのを待った。 「しかし、静かな屋敷ですね。」 「今、奉公人を何人か暇に出しておりますので・・・。」 「それにしても、よく私と分かった。」 「父から聞かされた特徴通りのお顔立ちを、曹操様がしてらっしいましたから。」 「それで、私が何故、董卓を討つと?」 曹操の最後の質問に、青年の顔が急に強張った。 「み、都では、もっぱらの噂ですよ。」 「ほざくな。」 そう言うと、曹操は自分が手にしている酒を青年の顔に浴びせるのであった。 酒を浴びせられた青年は、慌てて、口の中から吐き出し、自分の酒で口をゆすぐのであった。 「その素振りだと、私の酒には毒でも入っていたのかな?」 曹操は、間髪入れずに隣に立つ給仕係を剣で両断する。 倒れた給仕係の懐中からは、短剣が出てきた。 「私が董卓を討つと言ったのは、丞相府の中でのみ。そんな高言を吐いた私を逃がしたとあっては、董卓の恥。誰 が噂になどするものか。」 「くっ。」 青年は、これまでの笑顔が嘘のように歪んだ醜悪な表情を見せる。 「いつから、気付いていた?」 「最初からさ。」 「う、嘘をつくな。」 「本当さ。君は人相書きの前に立つ私の表情を見たと言った。しかし、私はあの人垣の中で君を見ていない。なら ば、物陰から隠れながら見ていたということだろう。そんな人間を信用すると思うかい?」 曹操が、そう言いきるので、一瞬、たじろぐが、青年は虚勢を張って何とか言い返すのであった。 「人垣で見ていないって、気付かなかっただけかもしれないではないか。」 「ふっ、会ったこともない人間を、人に聞かされた特徴だけで見分けるのに、どれだけの時間を必要とすると思う? それ程の時間、視線を受けて、気付かぬ曹操だと思うのか。」 「くっ、分かった。もう、問答はやめだ。」 青年の言葉が合図だったかのように、厨房から、屈強な男達が四、五人表れた。 手には、それぞれ白刃が煌めいている。 「最後に旨い物を食わせてやろうと思っていたが、もう、やめだ。ここで、死ね。」 一斉に男達が、曹操に斬りかかってきた。 しかし、刹那の動きでそれを躱すと、曹操が反撃に出る。 一人、一人と倒れだし、瞬きをする間もなく、全ての男達が地に倒れ、呻(うめ)いているのであった。 まさに早業である。 青年は、まさか曹操がこんなに剣の達人とは思ってもいなかった様子で、優勢を気取っていた顔からは完全に余裕 がなくなっていた。 「君が、本当は呂伯奢の身内でなければ、良かったのに。」 曹操が振り向きざま、大きな食器棚の扉を斬ると、そこからは縛られ、猿轡(さるぐつわ)をされた初老の男が現れ た。 この男が呂伯奢である。 「この表情を見る限りは、やはり、息子か。」 名を語っていたのであれば、それで呂伯奢に恩を売ったことになり、援助の話もしやすかったものを、本物の息子 を斬ったとあれば、もう、望めまい。 曹操は、嘆息を一つすると、身動きできない呂伯奢の前で、その息子の命を絶つのであった。 血で濡れた剣は、鞘にしまわれることなく、そのまま、呂伯奢の前で鈍い輝きを見せる。 息子の次は、自分の番だと感じた呂伯奢は、神に祈るのであった。 そして、曹操の剣が振り下ろされた瞬間、目をつむる。 しかし、不思議と痛みは感じなかった。 何故なら、曹操の剣は呂伯奢ではなく、体を縛っていた縄だけを斬ったためである。 「私は董卓を討つ。それを邪魔する者、私の道を遮る者は、全て斬る。」 そう言って、呂伯奢に背を向ける曹操であった。そして、何を思ったか、自分の剣を呂伯奢の元へ投げ出すのであ った。 「しかし、親子の情の深さは、分からないではない。貴方が、その剣を持って、私を斬るというのであれば、仕方 がないだろう。」 曹操は、背を向けたまま、ゆっくりと歩き出した。すると背後で、呂伯奢が剣を持った気配を感じるのである。 覚悟を決めて、立ち止まると、最後に曹操は、こう言うのであった。 「私は、今、天下の中にある。貴方の剣でも止められなければ、即ち、私の悲願は成就する。私は天下だ。」 燃えるような目で前方を見つめ、言い切った曹操は微動だにしない。 その強い意志を貫き通す刃など、この世に存在しないだろう。 そんな大きな背中を見た時、呂伯奢は意を決して白刃を振るうのであった。 それは曹操の背ではなく、自らの体にである。 苦悶の声に反応した曹操は、直ぐさま、呂伯奢の元に駆け寄り、その体を抱きかかえた。 「何故?」 「・・私は、一商人でございます。・・天下、国家を語る訳にはいきません。息子のしでかしたことは、私欲から の私事。貴方を恨むなど・・・」 「し、しかし・・・何も貴方が死ぬことは・・」 「息子の不始末は親の責任でありましょう。それに私目にも一家を統率できなかったという負い目がございます。 そのような者の末路とは、こんなもの・・・」 「・・・・」 曹操の言葉が出てこない。曹操としては、珍しい程、動揺している証拠である。 「・・・大きくなられましたな。・・このまま、貴方は、もっともっと大きくなられます。商人の私が、・・・保 証しますよ。」 呂伯奢は、最後にそう告げると、曹操の腕の中で事切れた。 曹操は、呂伯奢の体から剣を抜くと屋敷の裏に運び、息子の遺体と並べて埋葬するのであった。 屋敷を後にする曹操は、幼少の頃、呂伯奢に言われた言葉を思い出す。 「曹家のお坊ちゃんは、何でも人以上にできますが、一番はその意思の強さですな。その意思を持ち続ければ、き っと大きな大人になれますよ。商人の私が保証します。」 曹操は屋敷の前で黙祷した後、一路、郷里を目指した。その頬は月夜に輝いていた。