五.勅 
  

  夜陰に乗じて、天子が住まう皇居へ忍び込む三人の影があった。 
  その影は素早く、阿吽(あうん)の呼吸で助け合いながら、確実に障害を乗り越えていく。 
  そして、その影は夜陰の中に溶け込んでいくのであった。 
  
  「劉備殿、壮健そうで何よりだ。」 
  「それは、お互い様だね。」 
  劉備三兄弟は、盧植の屋敷を辞して洛陽を離れようとしていた矢先、曹操の手の者に呼び止められたのであった。 
  劉備が曹操と会うのは、黄巾の乱以来であり、久方ぶりの朋友の再会を互いに喜ぶのであった。 
  しかし、曹操孟徳がわざわざ劉備を招くのには、何かしらの理由がある。 
  そこら辺は、劉備も十分理解している。曹操が切り出すために、あえて挨拶程度の言葉しか発しない。 
  そして、曹操も劉備ならば直ぐに理解してくれるだろうと余計な説明を省くのであった。 
  「ここに密書がある。」 
  「密書?」 
  そう言って、曹操は懐から一片の紙面を出し、劉備の前にかざした。 
  「中身は?」 
  「董卓の非道を訴える天子様の苦悩が書かれている。・・・そして、董卓を討てと。」 
  劉備が手にした紙面は天子から密書だったのだ。 
  「密勅かい。」 
  「そういう事になる。」 
  「で、おいらに何を?」 
  「手を貸して欲しい。」 
  単刀直入に曹操は言った。そして、密勅だという紙面を劉備に手渡すのであった。 
  一瞬、劉備の顔の眉の間にしわが浮き上がる。その後、表情が戻ると、自分の大きな耳たぶを指で玩(もてあそ)び
 ながら、「・・・なるほど。分かった。」と、笑顔を向けるのであった。 
  その一言で曹操の顔に安堵の色が広がる。劉備はその紙面を曹操に返すと、勢いよく踵(きびす)を返す。 
  「それじゃ、おいら達はこれで失礼するよ。」 
  劉備が一人で歩いていくのに、関羽と張飛は慌てて後を追った。 
  劉備達がいなくなった後で、夏侯惇が曹操に近付き不満そうに耳打ちをするのであった。 
  「あいつらで良かったのか?」 
  「これ以上の適任はいないさ。それに・・・」 
  「それに?」 
  「惇、お前だから話すが私は、董卓が怖い。」 
  「怖い?俺の耳はおかしくなったのか。曹操孟徳の口から、そんな言葉が出るとはな。」 
  「いや、勘違いをするな。董卓は確かに怖いが恐れてはいない。ただ怖い相手だと認めているという事さ。」 
  その言葉を聞いて、夏侯惇は一拍おいた後で納得するのであった。 
  「だから対抗すべく人を集める。」 
  「そうだ。そのためにも劉備玄徳の途方もない器、人を惹きつける力が必要なのさ。」 
  夏侯惇は、正直、『そんなものかね。』と半信半疑だが、幼少の頃より曹操の眼力を疑う事が如何に無駄な事かを
 熟知している。 
  無用の反論はやめて、与えられた職務、早馬集めに取りかかる事にするのであった。 
  
  
  「なあ、関兄。俺達、何でこんな事をしているんだ。」 
  暗闇の中、張飛が関羽に耳打ちした。こんな真夜中に皇居に忍び込んでいるのだ。見つかれば、いかなる理由があ
 ろうとも打ち首は免れない。 
  しかし、張飛の口調の中には悲壮な響きはまったくなかった。 
  むしろ、この状況を楽しんでいるふうに見える。 
  そして、長兄の劉備はというと、見えるではなく、はっきりと楽しんでいるのであった。 
  そんな二人に同調するのを避けるべく、関羽は寡黙に今夜のこの行動について考えるのであった。 
  張飛に言われるまでもなく、関羽自身、劉備が何を考えているのか分からない。 
  この目的さえ分からないのだ。 
  目指す先は、天子である事に間違いはないだろうが、密かに会って、何をしようというのか。 
  行動の発端から推察するに、曹操が持っていた密書に関わりがあるはずなのだが、あの密書とは、一体、何だった
 のか。 
  結局、中身を見たのは劉備だけなので、関羽には想像する事すら難しい。 
  董卓の討伐以外にも、何か記(しる)されていたというのが、関羽の今の所の見解なのだが、はたして・・・ 
  「おい、雲長。まだ、悩んでいるのかよ。」 
  「はい。あの密書が深く関わっているのだとは、推察しますが・・・。」 
  「おお、分かってるんじゃない。それで、十分さ。」 
  「しかし・・・」 
  言い淀む関羽に劉備は顔を近づけると、にこやかな顔から、真顔へと変わる。 
  「いいか、雲長。お前は劉備一家の屋台骨だ。そんな考えに悩むなんて事は、簡雍の奴に任せときな。」 
  「屋台骨?」 
  「そう。だから、何時、如何なる時でもドンと構えていてくんなって事よ。」 
  「如何なる時もですか。」 
  「そうだ、例え・・・」 
  劉備の声は最後の方まで関羽には届かなかった。何かの気配を感じて、三人がめいめいにその場から、飛び散った
 からだ。 
  『目的は天子との謁見だ。おいらが着くまでに、その場をしっかりと拵(こしら)えておくんだぜ。』 
  暗闇の中から、劉備の意思が関羽と張飛にはっきりと伝わった。 
  それは三人にしか分からない呼吸であった。 
  理由は分からないが、目的ははっきりとした。関羽は雰囲気から緊張感がなくなった事を確認すると、先程の場所
 へと戻る。 
  程なく、張飛も戻ってきた。 
  が、劉備だけが戻らない。 
  恐らく、劉備が囮となって、あの気配の主を引き付けてくれたのだろう。 
  「おい、長兄がいないぜ。」 
  「案ずるな、益徳。長兄ならば心配はいらない。それより、分かっているな。」 
  「ああ。」 
  関羽と張飛は劉備の意志に従って、一路、天子の元へと急ぐのでった。 
  
  
  「まずったかな。」 
  自分が引き受けたはいいが、どうやら、手に余りそうな雰囲気がある。 
  劉備は暗闇の中から、相手の身のこなし、息づかいを感じ取り警戒心を強めるのであった。 
  劉備が動くと相手も動く。 
  単純に自分の動きが読まれているだけなのかもしれないが、それとは何かが違う。そんな違和感を感じるのであっ
 た。 
  劉備が右に動くと相手も右に動く。左に動けば、これも打ち合わせしたかのように左に動く。 
  だが、読まれているのとは、少し違うようだ。これは動きが読まれているというよりも、似ているといった表現に
 近いのかもしてない。 
  そして、そんな違和感を感じていたのは、劉備だけではないようだ。 
  徐々に相手の動きが鈍くなっている。ひょっとしたら、迷いが生じているのかも知れない。 
  この隙を利用しない手はない。一気に勝負に出る事にした。 
  劉備は、見晴らしのいい広場らしき場所へ移動すると、その真ん中に立つ。 
  五感を研ぎ澄まし、敵がどこから現れても対応できるように集中した。 
  この大胆な行動には、流石に相手も躊躇しているのか、なかなか手を出してはこない。 
  劉備の集中力が途切れるのが先か、相手がじれるのが先かという勝負になった。 
  劉備の額を汗が伝う。 
  大して時間は経過していないはずだが、暗闇の中での集中力の持続は、思っていたより消耗が激しい。 
  そして、汗が顎を伝って地面に落ちた時、劉備の中で張り詰めていたものが途切れた。 
  「やはり、玄徳か。」 
  それは、懐かしい声の響きが届いたためであった。 
  「何だよ。早く出てこいっての。」 
  ゆっくりと近付く足取りに向かって、声をかけると、劉備はその場に崩れ落ちそうになった。 
  「大丈夫か。」 
  そう言って、劉備を支えたのは、何と従兄弟の劉徳然(りゅうとくぜん)であった。 
  「何、やってるんだよ。」 
  劉備は徳然の肩を借りる。本当に限界だったのだ。 
  「それは、こっちの台詞だ。このような時間に皇居に忍び込むなど、謀反と騒がれても仕方がないぞ。」 
  「ああ。でも、どうして騒がなかった。近衛兵を呼んでいれば、おいら達はこれ以上進入できなかった。」 
  劉備の問いは、それ程、難しい話ではない。しかし、徳然は答えるのにしばらくの時間を要するのであった。 
  「近衛兵と言っても、その大半は董卓の兵さ。みだりに董卓の兵を入れたくないからな。」 
  「おいおい。近衛兵の意味がないじゃないか。」 
  「いや、近衛兵の中にもしっかりした人間はいる。だから、俺は近衛兵に志願した。そして、頼める有志を募って、
 こうして見回りをしているのさ。」 
  徳然は黄巾の乱の折り、一時、董卓の配下となった事がある。その時、董卓のありのままの姿を直に見ていた。 
  それだけに董卓を赦せないのだろう。 
  「それで、玄徳。お前はこんな所で何をしていたんだ?」 
  「ああ、それだが。頼みがあるんだ。」 
  
  
  寝台の上に座る少年は、恐怖と戦っているのか、気丈にも平伏する偉丈夫の前で天子としての威を放っている。 
  「我々は陛下に仇なす者ではありません。」 
  「何を言う。このような時間に天子の寝所を訪れるなど、不届きであろう。」 
  天子の横で騒いでいるのは、董太后の甥である董承(とうじょう)だった。 
  「近衛の者は、何をしているのか。」 
  「董承殿、これ以上騒がれるな。」 
  関羽がそう話すと、張飛がギロリと董承を睨んだ。 
  「な、私を脅そうてか。」 
  「よい、董承。この者達からは悪意は感じない。」 
  「ありがたき、お言葉。」 
  劉備よりも一足早く、天子の元に辿り着いた関羽と張飛は、天子を驚かせてはまずいと世話役である董承を叩き起
 こし、天子の元へ案内させたのだ。 
  「して、朕に何用だ?」 
  劉協としては当然の質問だろうが、張飛は不安げに関羽を顧みる。 
  結局、劉備からは何も聞いていないはずだ。 
  しかし、関羽は堂々とした態度で言い放つのだった。 
  「いえ、私には何一つございません。」 
  悪びれないとはこの事だと、董承は呆れるのであった。 
  「では、悪ふざけでこんな事をしているのか。」 
  「董承殿、陛下にご用があるのは私ではない。と、申し上げただけです。無論、そこの愚弟でもございません。」
  「むむむ。」 
  董承は馬鹿にしているのかと、顔を真っ赤にする。 
  一方、劉協は、「関羽と申したか、そなたの言葉を朕は理解できん。」と、流石に天子らしく落ち着いた対応をす
 るのであった。 
  これでは、どちらが大人でどちらが子供か分からない。 
  傍観していた張飛が率直に、そう思った。勿論、言葉には出さないが・・・ 
  関羽も似たような印象を受けた。いや、それ以上の好印象と言っていい。 
  『この天子は董卓の傀儡で終わる程、愚鈍ではない。』 
  劉協の中の聡明な部分を見付けた時、何となく劉備がしようとしている事が関羽にも分かった。 
  分かった以上、長兄の意を汲まなければならない。 
  「陛下、暫くお待ち下さい。今、長兄であり、我が主君である劉備玄徳がここに現れます。そして、陛下はその男
 に溜め込んだ気の全てを吐きだして下さい。我が主君は、その全てを受け入れる事ができる男でございます。」 
  「・・溜め込んだ気、とは?」 
  劉協が怪訝な表情を示し、董承に助けを求めるが、頼りの董承も首を横にひねる。 
  「溜め込んだ気ってのは、陛下の胸に眠る竜の事にございます。」 
  その時、また、一人の男が劉協の寝室の中に入ってきた。 
  「長兄。」 
  関羽と張飛が同時に叫ぶ。 
  劉備は徳然の手引きで、ここまでやって来た。そして、徳然には人払いをお願いしたのだ。 
  だから董承が大きな声で騒いでも、誰も人がやってこなかったのである。 
  「そなたが劉備玄徳か。」 
  「はい、お初にお目にかかります。」 
  劉備は劉協の前まで歩くと、その場に平伏する。 
  「陛下。近頃、星を見上げた事はございますか。」 
  「星?・・・いや、このところ、見てはいないが。・・・その方は、星を読むのか。」 
  「いえ、私には、そのような力はございません。」 
  劉協には劉備の言わんとしている事がさっぱり、分からない。しかし、劉備は構わずに言葉を続けるのであった。
  「それでは空を見上げたのは?太陽を見上げたのは?」 
  質問の真意は分からないが、劉協は劉備の言葉にいずれも首を横に振るのであった。 
  「では、最後に蒼天を見たのは?」 
  「・・蒼天。」 
  蒼天とは青空を意するが、漢朝を示す言葉でもある。 
  劉協が答えに窮していると、「私はいつも蒼天を見ていました。」と、劉備が言う。 
  「いつもか。」 
  「はい。・・・しかし、この洛陽には蒼天はございません。」 
  その言葉に劉協は、落胆の表情を示す。自分の不甲斐なさを責められているのだと感じたからだ。 
  そんな劉協に追い打ちをかけるように、「その理由が陛下にはお分かりでしょうか。」 
  「劉備、不遜であるぞ。」 
  堪らず董承が声を荒げるが、劉備には怯んだ様子など、まったくなかった。 
  「陛下にその理由が分からないであれば、私がお教えしましょう。・・・それは、笑顔がないからでございます。」
  「え、笑顔とな。」 
  「はい。そうです。」 
  そう言う劉備は、天子に満面の笑顔を向けるのだ。劉協は、そんな劉備に惹かれていく。 
  「笑顔か。・・・そなたのような笑顔をするためには、どうすればよいのか。」 
  「それは自分が楽しいと思う事を考えればよいだけです。」 
  劉備の言に納得する。「そうだな。では、劉備。そなたが楽しいと思う事は何だ?」 
  「それは、・・・万民の笑顔を見る事にございます。」 
  劉協は雷に打たれたような、そんな衝撃を感じるのであった。確かにそれが見られれば、中華の皇帝として、どれ
 ほど楽しい事か・・・ 
  「それは、朕もそう思う。」 
  「良かった。陛下が私と同じ考えで。」 
  もう、劉協に言葉はなかった。 
  劉備が立ち上がると、関羽と張飛はその横に並んだ。 
  「では、陛下。私どもはこれで失礼いたします。」 
  「もう、行ってしまうのか。」 
  「はい。これから民の笑顔を取り戻さなければなりません。」 
  「董卓を討つのか。」 
  劉備は軍礼を取って、返事とした。その姿に劉協は躊躇わず、「董卓討伐の勅を出す。そなた達だけでは、董卓は
 倒せない。」 
  「その心配はありがたく思いますが、そのような勅を出されては陛下の身に危険が及びます。」 
  「そ、そうです。陛下、どうかお止め下さい。」 
  董承も慌てて引き留めを行った。劉協も仕方なく、納得せざるを得なかった。 
  「陛下、ご安心下さいませ。私を信用できずとも劉氏の血はお信じ下さい。」 
  「劉氏・・・そうか、そなたも劉姓であるな。」 
  「はい。蒼天は未だ輝きを失っておりません。」 
  そう言うと、劉備は関羽と張飛を伴って、天子の寝室を後にするのであった。 
  「また会いたいな。会えるだろうか?」 
  その問いに董承は、否定も肯定もしなかった。董卓が強大であるがゆえの結果である。 
  しかし、希望が最後に、「陛下がお望みであれば。」と、言わせるのであった。 
  
  翌日、夏侯惇が集めた早馬達が中国各地の群雄の元へと送られるのであった。  
 

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