三.親友 
  

  けい州・長沙(ちょうさ)郡にて、董卓の上洛及びその暴挙を聞くに、胸の内を沈ませる男がいた。 
  それはこの地で太守を務める孫堅文台(そんけんぶんだい)であった。 
  孫堅と董卓は、かつて涼州の乱を鎮めるために共に戦った中であったが、とても友好と呼べる間柄ではない。 
  孫堅が涼州を去るとき、董卓の手勢に命を狙われているのだった。 
  共に戦火の中を駆け抜けている最中も、董卓の野望、凶暴性には気付いていた孫堅だったが、それをはっきりと認
 めたのは、その命を狙われた事件がきっかけであった。 
  そのとき、孫堅は董卓の参謀である李需に、かの地で力を蓄えても決して天の時は与えない。中央には進出させな
 いと大言を吐いたのだが、結果は都の争乱に乗じて、政治の実権を握られる事となった。 
  勿論、それは孫堅の責任と呼ぶには、ほど遠い話である。 
  しかし、董卓の野望に真っ先に気付いていた自分が止められなかったのかという悔やみは拭いきれない。 
  董卓の野望を止めるのは自分しかいない。 
  しかし・・・ 
  今の董卓は、以前の董卓の比ではない。 
  洛陽から天下を睥睨(へいげい)するに至った怪物へと成長しているのだ。 
  果たして、己の力だけで対抗できるであろうか・・・ 
  思い悩む孫堅に声をかけたのは、まだその表情に若干の幼さを残す、息子、孫策(そんさく)であった。 
  「父上、長沙の民は至って平穏な日々を過ごしておりますが、遠く洛陽の民は、日々、恐怖と失意に落ち込んでい
 ると聞いております。これを放っておくは、勇者にあらずと思いますが。」 
  「伯符(はくふ)よ。言わずとも分かっている。」 
  「では。」 
  孫策はその言葉に一瞬、目を輝かせたが、父、孫堅の口からは、その後歯切れの良い返事は帰ってこなかった。
  失望を隠しきれない孫策の口調は、ついつい厳しいものへと変わるのであった。 
  「一度(ひとたび)、戦に立てば負ける事を知らず。百戦百勝の実態は、弱い者しか相手にしてこなかった結果です
 か?」
  「若君、お控え下さい。」 
  親子の遣り取りをそばで聞いていた孫堅麾下四天王の一人程普(ていふ)は、孫堅の怒りで不幸な結果を回避すべく、
 素早く孫策を窘(たしな)める。 
  が、若い孫策の耳には届かなかった。 
  「父上、どうなのですか?」 
  孫策の詰問に孫堅は、目を閉じて答えようとしない。 
  まさか、このような姿の父を見るとは夢にも思っていなかった孫策は、落胆のあまり、その場で膝から崩れ落ちる
 のであった。 
  その間、一方の孫堅は、自分の心の中で自問を繰り返していた。 
  息子の投げ放った言葉が核心をついている気がしたからだ。 
  『弱い者しか相手にしてこなかった。』 
  兵力の上では、十倍、二十倍の相手を打ち破ってはきたが、人間的に自分と互角、それ以上と思った相手と鎬(しのぎ)
 を削ったという記憶が、確かに孫堅にはなかったからだ。 
  「伯符、父と董卓ではどちらが上だと思う。」 
  「父上にございます。」 
  「そうか。」 
  涙でグシャグシャになっている孫策の顔を孫堅は優しく見つめ返した。 
  その瞳にいつもの父が帰ってきた事を孫策は悟る。 
  「徳謀(とくぼう)、公覆(こうふく)、義公(ぎこう)、大栄(だいえい)。戦の準備をせい。上洛だ。」 
  孫堅の宣言に、「おお。」という歓声が上がる。そして、その声は歓声から鬨の声へと変わった。 
  その中を孫堅はゆっくりと歩き出すのであった。 
  その孫堅の前に若い情熱が進み出る。 
  「父上、私も上洛の供に加えて下さい。」 孫策は感情のまま、自分の希望を述べる。 
  孫堅、初めての上洛が嫡男の初陣となれば、これ以上の好事はない。 
  誰もが必勝の予感に沸き立った。 
  しかし・・・ 
  「駄目だ。冷静に大局を見られぬ内は、戦場に立つ事は許さん。・・・今は董卓の方が上だ。」 
  熱い情熱が一瞬で冷めた。 
  厳しい表情。 
  孫堅の後ろ姿に戦場に赴く男の姿を孫策は見たのであった。 
  落ち込む孫策の肩に程普がそっと触れる。 
  その手には震える程の悔しさが伝わるのであった。 
  
  
  
  「母上、お疲れではありませんか。」 
  孫堅が上洛を誓った一月後に孫策は母である呉太(ごたい)夫人を護りながら、そして、七つ年下の弟である孫権仲
 謀(そんけんちゅうぼう)を連れ立って、揚州・寿春(じゅしゅん)へと移り住んでいた。 
  これは董卓との戦乱に備えての孫堅の命であった。 
  が、孫策にとっては戦陣を外された上、父の留守を守る事も赦されないと、自分の不甲斐なさを痛感せずにはいら
 れない。 
  そんな孫策の気持ちを思いやってか、呉太夫人は、優しく声をかけるのであった。 
  「伯符や、父の事も分かってあげて。董卓との戦は、何も背負わない裸の孫堅文台で臨みたいのよ。」 
  「分かっています。・・・しかし、私は父上の重荷にしかなりませんか?」 
  「いいえ、それは違います。この度は、恐らくあの人にとって、はじめて個人の感情を持ち込む戦。そんな姿を貴
 方や仲謀には見せたくなかったのでしょう。」 
  「そうでしょうか・・・」 
  「そうです。貴方と仲謀は孫家にとって、特別な存在なのです。私が貴方を身籠もったとき月を呑み込み、仲謀を
 身籠もったときは太陽を呑み込んだ夢をみました。その事をあの人に話すと、『月と太陽は陰陽の精髄で最高位の象
 徴。きっと、この二人が孫家を栄えさてくれるに違いない。』と、大層喜んだのです。」 
  「私と仲謀がですか。」 
  父から、冷たくあしらわれたと感じていた孫策は、自分と孫権にそんな期待がかかっている事をはじめて知った。
  何となく、今の母の言葉で救われた気がした孫策は、溜まっていた鬱積(うっせき)が氷解していくのを感じるので
 あった。 
  そして、自分と同じ期待をかけられているという、まだあどけない弟を見やる。 
  自分にかかる期待には十分に応えたいと思うが、そんな重荷をこの弟には背負わせたくないと思うのであった。
  「良い顔に戻りましたね、伯符。」 
  孫策に思い悩む影がなくなった事を機敏に察した呉太夫人は、傍らにいる孫権の頭を撫でながら、一つの提案をす
 るのであった。 
  「どうです。今夜、月琴の演奏会があるそうです。気晴らしに出かけてみませんか。」 
  それはいい案なのだが、母の身を護らなければならない孫策としては、人の集まる所へ出かけるのは気が進まない。
  しかし、その提案にすっかり乗り気になって、はしゃいでいる孫権を止める術が孫策にはなかった。 
  「分かりました。」としか答えは用意されていないのであった。 
   
  
  
  月に一度開かれているというその演奏会に孫家の親子が着いた時は、既に最初の演目が終わってしまっていた。 
  孫権が僅かに拗(す)ねるが、目立ってはいけない事は十分承知しているので、騒ぎ立てはしない。 
  我が弟ながら、こいつは大物になると関心する孫策であった。 
  演奏が進むにつれ、孫権の機嫌も直ってきたのだが、問題も生じつつあった。 
  お酒が振る舞われている関係上、どうしても周りの雑音というのも大きくなってしまう事であった。 
  勿論、演奏を楽しむためにここに集まっている人間が大半な事は言うまでもない。その問題の雑音を出しているの
 は、一箇所に集中されているのだ。 
  誰もがそちらに白い視線を向けるのだが、表だって注意する人間はいなかった。 
  それは見るからに腕っ節が立つ男達が三人で酒を酌み交わしているからであった。 
  普段であれば、演奏者に対しても周囲の人々に対しても非礼であるこの行為を、認める訳もない孫策であったが、
 母を護る身であれば騒ぎたてを起こすわけにいかない。 
  父の威光の裏では、逆恨みを抱く人間も多数いるのだ。 
  何事も慎重に行動しなければならない。 
  孫策の注意力がその男達に向けられている最中、隣に座っている孫堅が着物の裾を引っ張る。 
  「兄上、あの人の演奏は凄いよ。」 
  孫権が指す壇上には、若い男が一人で月琴(げつきん)を奏でていた。 
  孫権が指摘するように、その男の演奏は音楽に疎い孫策が聞いても素晴らしいと感じる程であった。 
  そして、若い。 
  化粧も施しているため、初めは気付かなかったが、よく見ると自分とそう変わらない年齢ではないかと思う。 
  眉目秀麗と言っていいだろう。その整った眉が時折、震えるように動くのを孫策は認めた。 
  恐らく、騒がしい男達に不快感を示しているのだろう。 
  いつかは演奏を途中で投げ出してしまうのではと、孫策は危惧を抱いたが、そうしないのは音楽が好きなのか、そ
 れとも彼の使命感からなのか。 
  いずれにせよ、素晴らしい演奏を堪能できている事に孫策は感動を覚えた。 
  しかし、演奏者の我慢にも限度があったようだ。 
  ギリギリの所まで張り詰めていた糸を切ったのは、若い女性の悲鳴によってである。 
  孫策がその声の元を辿ると、あの男達が隣の卓に座っていた少女の手を掴んでいるのであった。 
  演奏がピタリと止まり、周囲の視線が一斉に注がれる。が、男達が一睨みすると静寂の世界に包まれた。 
  これは流石に放っておけないと感じた孫策は、母にここを動かないように頼むと男達の元に歩み寄る。そして、少
 女の手を掴んでいる反対の手を軽くねじり上げるのであった。 
  その弾みで少女の手が離され、その場に倒れこんでしまうが、周囲の人の手助けでその場から連れ出された。 
  「てめぇ、何しやがる。」 
  予想の範囲からまるで逸脱しない台詞を聞かされ、孫策はうんざりする。 
  どう見ても大人しく聞いてくれそうもない。 
  孫策は、ため息をもう一つするのであった。 
  そんな余裕の孫策とは裏腹に、母親である呉太夫人は緊張で、いてもたってもいられなかった。 
  体躯はそれなりに大きい方であるが、孫策は何といっても、まだ、十四歳なのである。 
  大の大人三人を相手に立ち回りなど、ましてや、あのような見るからに乱暴な連中の相手など・・・ 
  「大丈夫だよ、母上。兄上は負けないさ。」 
  いつの間にか卓の真ん中にどんと座っている孫権が、母親の心情を察したかのように呟く。 
  その自信の眼差しを見ていると呉太夫人も何となく、そんな気がしてくるのであった。 
  そして、まさしく孫権の言葉通りに三人の男達を、孫策は瞬く間に地に叩きふせたのであった。 
  周りからは喝采の拍手が巻き起こる。 
  この様子に呉太夫人は、我が子ながら本当にとんでもない子達と思うのであった。 
  拍手の渦を掻き分けて、助け出された少女が返礼のために孫策の前に現れる。 
  その孫策が一瞬、そちらに気を取られたときであった。 
  「危ない。」 
  孫権がそう叫ぶと同時に鮮血が飛んだ。 
  孫策はもつれ込むように倒れている。 
  「伯符!」 
  「いえ、私は大丈夫です。」 
  直ぐに孫策は立ち上がると元気な返事を返す。 
  その声に一安心の呉太夫人だが、では、あの目に飛び込んできた鮮血は・・・ 
  「これです。」 
  孫策が倒れている男の体を仰向けに返すと、腕に飛ひょうが刺さってた。 
  そして、その近くには短剣が落ちている。 
  孫策の背後を狙ったのであろうが、間一髪の所で誰かに救われたのだ。 
  「すまない。助かったよ。」 
  孫策はあの状況の中でも、飛ひょうが飛んできた位置を確認していたのだ。その恩人に礼を述べた。 
  その人物は、ゆっくりとした足取りで歩き出した。その歩く先は、不思議と人の波が分かれる。 
  そして、孫策の前に立ったのは涼しい微笑を残す少年で、何と先程まで月琴を奏でていた演奏者であった。 
  「いや、君なら余裕で躱せたでしょう。ただ、近くに女性もいたのでね。」 
  この少年は孫策が躱した後の事を心配したのだろう。しかし、その配慮よりもこの遠間で狙った腕前の方が凄いの
 だが・・・ 
  「兄上!」 
  孫策とこの少年が微笑ましく言葉を交わす中、倒れていた男達がこれも友情か手を取り、肩を貸し合って立ち上が
 るのであった。 
  「お前ら、俺達にこんなことして、ただですむと思うなよ。」 
  「やれやれ、最後まで期待通りの台詞だな。一体、どうなるんだよ。」 
  「俺達は、寿春の領主・劉よう様の身内の者だ。覚えてやがれ。」 
  男達は、そう吐き捨てた。 
  劉ようの名前が挙がった事で、先程まで喝采していた連中も黙り込んでしまった。 
  男達は蹌踉(よろ)けながらも、表情だけは勝ち誇った顔をして、その場を立ち去ろうとする。 
  男達がいなくなる事で、何となくホッとした空気が流れ出したとき、卓に座っていた孫権が立ち上がった。 
  「待て!劉ようの身内なら、何をしてもいいというのか。それがまかり通るのならば、いずれ孫家が滅ぼすと劉よ
 うに伝えろ!」 
  孫権は大迫力で言い放つ。 
  大半の人間は、その勢いに圧倒されるのだが、孫策一人は頭が痛いという仕草をするのであった。 
  「そ、孫家だと。」 
  初めは呆気に取られていた劉?の身内達も、正気に戻ると孫権がばらしてしまった事実に驚いた。 
  早速報告だとばかりに、そそくさとその場を立ち去る。 
  劉?の身内がいなくなった事で、一気に場の空気は和んだが、一部だけ空気が固まった箇所があった。 
  「仲謀!」 
  「ごめん、兄上。あいつらの横暴ぶりについ・・・」 
  雷が落ちた瞬間に、孫権は直ぐに平謝りである。 
  やっと住み慣れてきた所なのに、これでまだどこかに移らなければならない。 
  孫策は、これからの行動を考えると、ついつい憂鬱になるのであった。 
  「なるほど、君達はあの孫堅文台のご子息か。」 
  孫策が頭を悩ませているとき、不意に先程の少年が声をかけてきた。 
  一瞬、緊張が走り、孫策は構えをとった。が、少年の微笑みがそれを解かす。 
  「どんな事情があって、こちらに参ったのかは存じませんが、僕の屋敷に逗留されてはどうですか。」 
  「?」 
  「大丈夫、兄上。この人は信用できるよ。」 
  孫権に言われるまでもなく孫策にも気付いていたが、一家を任される身となれば慎重にならざるを得ない。 
  「まあ、見ず知らずの人間にこんな事を言われても戸惑うでしょうね。僕の名は周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)です。
 周家ならば、劉ようとて簡単に手出しは出来ないと思いますが。」 
  周家といえば、かつて二代にわたって朝廷の要職である太尉を輩出した名家である。 
  周瑜という少年と周家という砦に、孫策の気持ちは揺らぐのであった。 
  「分かった。君の申し出は、大変ありがたい。しかし、私の一存では決められない。母上に仰ぐので、暫く時間が
 ほしい。」 
  それは至極もっともと、周瑜は孫策の申し出を受け入れた。 
  そして、呉太夫人の答えは孫策の思うようにしなさいという事であった。 
  こうして、孫策親子は寿春にいる間、周家の世話となるのである。 
  周家へと向かう道中、周瑜は孫策に嬉しそうに話しかける。 
  「良かった。もう少し、君と話がしたかったからね。」 
  「それは、私もだ。」 
  孫策と周瑜、何か互いに運命を感じだ出会いであった。この後、二人の友情によって、中華に新風を巻き起こす事
 になるのだが、それはまだ先の話である。 
  「そして、君の弟ともね。」 
  「ああ、あれはまだ、子供だよ。」 
  「いや、先程の大言には王者の風格があった。いずれ君の弟は大人物になるよ。」 
  その言葉の後、孫策は馬車に目をやる。そこには母の膝の上でスヤスヤと眠る孫権がいた。 
  そして、周瑜に顔を向けると、「私もそう思う。」と、はにかむのであった。  
 

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