二十一.玉璽 前漢時代の都、長安。 この古都は、新しい都として機能するために、今、急速に整備されていった。 それは都としてというよりも、軍事要塞を建設しているかのようであった。 事実、洛陽から長安に遷都したのは、董卓の軍事基盤である涼州が近いという理由が大きかったし、その涼州から の強兵をこの長安に向かい入れる用意もあった。 また、それが可能となった背景には、潤った財源が欠かせない。 その財源は、洛陽の富豪達を無実の罪で捕らえ、その財産の全てを没収したことによって得た。更に董卓は、あろ うことか歴代皇帝の陵墓まで荒らし、その中の財宝を残らず掠奪したのである。 神をも恐れぬ所業とは、まさにこのことであり、洛陽の人々も今更ながら、董卓の傍若無人ぶりに呆れ果てる。 しかし、今や絶対的君主となった董卓に逆らう術もなく、遠く長安まで連行された上、過度な労働を強いられても 従順に従うしかないのであった。 そして、当の董卓は真新しい腰掛けに巨漢の身をゆったりと預け、自らの懐刀である李需と今後の展望を話し合う。 「・・・曹操を仕留め損なったのは、失敗だったな。」 「・・はい。」 成皋で曹操を返り討ちにしてから、五日の月日が流れている。 その間、曹操の首級が見つかっていないのだ。あの曹操のこと、生きているとの見解で一致していた。 「しかし、いかに曹操と言えど、壊滅した自軍を立て直すには、相当の時間が必要でしょう。その間、我らの軍備 を整えることができます。」 「そうだな。・・・とすると、後は孫堅の軍勢か。」 董卓は目を大きく見開きながら、顎髭に手をあてる。 言葉とは裏腹に自信に満ちた表情であった。 孫堅軍が廃都と化した洛陽に、間もなく入るとの報が董卓の耳に入っていたのだ。 とすると、あの策がいよいよ使えるのである。 敵軍が目と鼻の先に迫っていながらも、余裕を見せられるのは、そういう理由からであった。 「しかし、孫堅ならば・・・、欲望にかられるということがないのではないか?」 「その時は、遠紹に知らせを送ります。」 李需は董卓の問いに即答で返す。その返事に、董卓も満足な表情をみ せるのであった。 「ふふふ。連合軍・・・結成も早かったが、崩壊も早い。・・・そういうことだな。」 「御意。」 獰猛な目と陰険な目が、一致するのであった。 「・・・これが、洛陽か。」 洛陽にたどり着いた孫堅軍の中から、誰とは分からないが、こんな言葉が洩れた。 孫堅軍の多くは、江南の出自である。 口には出さないが、中原、とりわけ都に対する憧れは強い。 その都が自分達の目の前にある。 見るも無惨な廃都として・・・ 他に感想の言葉が出ないのは、それが孫堅軍の皆が思う全てであることを表している。 それは一軍を束ねる主君、孫堅も同様であった。 「董卓め。見事なまでに、無にしてくれたものだ。」 しかし、孫堅は一般兵とは違い、落ち込んでいるだけでは終われない。 直ぐに気持ちを切り替えると、都の修復を指示するのであった。 特に董卓に荒らされた歴代皇帝の陵墓の状態はひどい。 住民なき都市部よりも、そちらの修復を優先するのであった。 一通りの指示を終えると、敵兵が近くにいない現状、取り立てて孫堅の仕事はなくなる。 程普、黄蓋、韓当などの重臣を集め、一息つくのであった。 「さて、上洛することが無事にできた。これから、どうするべきか・・だが。誰か意見のある者はいるか?」 すると、真っ先に黄蓋が言上する。 「まず洛陽一番乗りは、反董卓連合における第一功。その余勢をかって、このまま長安に攻め入るべきかと思いま す。」 「いや、無闇に攻め入っては、曹操軍の二の舞。ここは他の諸侯の到着を待って、じわりと董卓を追いつめるが上 策かと思います。」 これは、韓当の意見であった。 「しかし、それでは長安への先駆けの栄誉が、他の者にとられてしまうぞ。」 「そのような栄誉など、壊滅してしまっては意味がなくなる。焦りは禁物だ。」 二人は、激しく議論を続けるが、孫堅としてはどちらの意見も容れる気にはなれなかった。 そのことを察知した程普が、その中間案を献策する。 「長安を攻めるにしろ、兵には休息が必要です。しばし、兵を休め、その間に斥候を送り情報を集めましょう。そ うすれば、曹操軍の轍を踏むことはありますまい。」 「・・・だな。」 程普の言葉が孫堅の琴線を奏でる。 これで、当座の孫堅軍の方針が固まるのであった。 「やっと、一息ついたな。・・・それで、曹操の消息は掴めたのか?」 孫堅は傍らの朱治に声をかけるが、朱治の返事は鈍い。 しかし、確証はないが生存の情報はあるという。 何でも、対岸に打ち出された身分の高そうな将校が、数人の人間に運ばれていくのを目撃した者がいたのだ。 それが、姿や状況から、曹操ではないかというのだ。 それを聞いた孫堅は、その将校が曹操であると確信するのであった。 しかし、そのことよりも、曹操を助けた人間の方に興味が惹かれる。 近くの村人というわけではないらしい。 助かったのは、曹操の天運だろう。 だが、その謎の者達が、曹操の天運に磨きをかける存在であるならば、曹操の敗北は決して意味がないわけではな く、むしろ必要な事件であったともいえる。 曹操の存在が、ますます気になるのであった。 そんな孫堅の前に、慌てた報告が入る。 何と井戸から五色の光が立ち上っているというのだ。 そのような馬鹿な話は、流石の孫堅とて聞いたことがなかったので、自ら確認に赴くのであった。 すると、報告通り、井戸から五色の光というか気が立ち上っているのを確認する。 早速、井戸の中を部下に調べさせると、暫くして、五色、五本だった気が一つずつ消え、結局、三本の気が残った。 しかし、その気の力は先程よりも間違いなく強くなっていくのであった。 そして、これ以上ないという圧力を感じた時、井戸から部下が顔を出す。 その一瞬の後、不思議な力はかき消されたように、何も感じなくなるのであった。 戸惑う孫堅に部下は、薄汚れた絹の袋を差し出す。 これが井戸から見つかった物だという。 孫堅がゆっくりと中身を取り出すと、そこから方円四寸の竜があしらわれた印章が現れる。 その印章には、「受命于天既寿永昌」という八字が彫られていた。 一見、相当な価値のある高価な物だということが受け取れる。 「と、殿。それは・・。」 それを横から見ていた程普が、珍しく声を上ずらせるのであった。 「伝国の玉璽か?」 興奮する程普とは対照的に、孫堅は落ち着いて答えを出した。 「は、はい。そうでございます。」と、程普は、やはり興奮を抑えられない。 その程普の言葉が伝播した孫堅軍は、皆一様に興奮をし、歓声を上げるのであった。 そんな中、孫堅、一人が冷静に自分を保っていた。 「玉璽が、何故、ここに落ちていたと考える?」 その問いで、興奮が収まり、逆に静けさを迎えるのであった。 「遷都の際に、宮廷の誰かが董卓にとられるのを恐れ、隠したのではありませんか。」 これは、朱治の答えであった。 なるほど。その考えも一理あるが、孫堅は別のことを考える。 あの狡猾で素早い董卓のこと、洛陽を占拠し新皇帝を打ち立てた時点で、玉璽は既に奪っている可能性が高い。 と、すればこの玉璽には、何か別の意図があるのではないか・・・ そして、孫堅がある結論に達したとき、悔しさで下唇を噛みしめるのであった。 「連合軍は、解散だ。」 孫堅の言葉に、疑問と動揺が広がっていく。 「それは、どういうことでしょうか?」 堪らず、黄蓋が主君に質問を投げかける。 すると、孫堅は遠く長安を睨みつけた後、部下達に視線を戻す。 「この玉璽は董卓の罠だ。」 「・・罠、ですか。」 「そうだ。玉璽は、いずれ天子様に返さなければならない。ということは、連合軍で保管することになる。・・・ しかし、盟主は遠紹だ。あの男のこと、玉璽を必ず自分の物にするだろう。」 孫堅の言葉にどよめきが起こった。 しかし・・・ 「果たして、遠紹がそこまで・・」 「する。傍らに曹操がいるのであれば、流石の遠紹もできなかっただろう。だが、今の連合軍に遠紹を抑える者は いない。」 孫堅は、そう言うと玉璽を元の袋に収める。そして、玉璽を拾った井戸の前まで歩き出す。 「かといって、この玉璽を再び、井戸に放り込めば、他の野心家の手に渡る可能性がある。・・・まさか、壊すと いう不遜もできまい。」 ドッシリと井戸の縁に腰を下ろした孫堅は、絹の袋を見つめた。 『これも天命か。』 そして、意を決するとその場に立ち上がるのであった。 「玉璽を持って、連合軍に合流するわけにはいかない。よって、我らは長沙に帰る。」 結束力で名高い孫堅軍である。孫堅の断に異を唱える者はいなかった。 陵墓の修復工事、通常、十日かかるところを三日で終わらせると、孫堅軍は疾風のごとく洛陽を後にするのであっ た。 「董卓め。見事だと、まず、褒めておこう。俺が去り、曹操が去った連合軍は、望み通り崩壊の一途だろう。しか し、お前を倒すという志まで、消し去ったわけではない。」 洛陽を出る前に、孫堅が西の空を見上げて呟く。 負け惜しみのように聞こえるかもしれないが、孫堅の気持ちの中には、そういった弱々しい部分はなかった。 ただ、一つ気がかりがあるとすれば、置いていた息子達が何と言うかであった。 「伯符(はくふ)と仲謀(ちゅうぼう)。早く、会いたい気持ちとそうじゃない気持ち・・・。」 百戦錬磨の孫堅も息子相手では、臆する一面を持つのであった。