二.本能 

  
  光熹(こうき)元年、新帝となったばかりの劉弁(りゅうべん)が廃帝となり、新たに弟の陳留王(ちんりゅうおう)・
 劉協(りゅうきょう)が帝位に就いた。 
  年号も新たに昭寧(しょうねい)へと変わり、その真新しい玉座の傍らには、巨躯に朝服を纏った董卓がふんぞり返
 っていた。 
  その姿に歯噛みする人間の数は、忠臣の数だけいるのだが、丁原の兵力までも吸収した董卓に逆らう気概のある者
 は、誰もいなかった。 
  僅かに尚書(しょうしょ)の盧植(ろしょく)が廃帝の際に気を吐いたが、その盧植も職を解かれると宮中は董卓の思
 うがままとなる。 
  新帝の挨拶に百官が並び、居並ぶ漢臣の中には曹操と袁紹の姿もあった。 
  「おい孟徳、こんな事が白昼堂々と行われていいのか。」 
  「新帝の挨拶がか?」 
  曹操は悪戯っぽく笑った。袁紹は込み上げてくるのを必死に押さえ、声を落として曹操に詰め寄る。 
  「董卓の傍若無人ぶりがだ。」 
  「分かっている。・・・が、今度は首が飛ぶぞ。」 
  新帝擁立時に逆らった盧植を董卓は処断しようとしたのだが、侍中(じちゅう)・蔡ようの助命で役職を解かれたの
 みに終わった。 
  しかし、二度目はない。 
  曹操は、その意味を含めて袁紹に言ったのであった。 
  「ふん、死など恐れん。恐れるのは臆病者のそしりを受ける事だ。」 
  「本初、君はもっと利口だと思っていたよ。これじゃあ、君の従弟の遠術の方が賢い。」 
  「何!それじゃ、お前はこのまま黙って、指をくわえて見ているというのか。」 
  曹操は袁紹のあまりにも直情的な憤りを受け流す。その視線はあくまでも前方の新帝に向けられていた。 
  式典が終わっても怒りが収まらないのか、袁紹はそのまま曹操の屋敷まで着いてくるのであった。 
  「おい、孟徳。俺は見損なったぞ。」 
  「宮中であんな話を大声でする、君の方がどうかしていると思うがね。」 
  その一言で袁紹の顔がサッと青ざめる。 
  そして、キョロキョロと周りを見回すのであった。 
  「大丈夫。後を付けてきた董卓の手の者はいない。」 
  「そ、そうか。」 
  袁紹は落ち着きを取り戻そうと、咳払いを一つする。 
  「この書状、君の所にも届いたと思うが?」 
  曹操は、そう言って袁紹に手渡す。袁紹は、無論と頷いた。 
  「ああ、胸糞が悪くなる。董卓め、都中の新鋭官吏にばらまいているらしいな。」 
  「すでにいる高官達ではなく、若い力に目を付けるのは、悪くはない。」 
  「おい、お前・・・まさか。」 
  袁紹は曹操の微笑に不安を抱いた。長い付き合いだから分かる、これは何か悪巧みを考えている顔だ。 
  「本初、君はどうする?従弟の遠術君は、関わり合いになるのを避けて、さっさと都を抜け出したようだけど。」 
  「その行動をお前は利口と言うのだろうが、そのお前自身は、どうしようと言うんだ。」 
  「なに、ただ会いに行くだけさ。董卓の凶暴性、政治観は分かった。しかし、まだ、内面には触れていない。」 
  「そ、そんなもの知ったからといって、何になる。」 
  「兵書にある、彼を知り・・・だ。」 
  そう言って、高笑いする曹操に袁紹は返す言葉を見付ける事が出来なかった。 
  
  
  
  董卓が睥睨(へいげい)する先には眉一つ動かさず、冷淡な顔で視線を跳ね返す曹操が立っていた。 
  「貴様が曹操か。」 
  それには答えず笑みを返す。 
  「不敵よな。」 
  時の権力者、董卓が呟く。彼に向けられる視線には、常に恐怖・畏敬の色が混じっていなければならない。 
  ところが、目の前に立つ男の瞳には、それらのものが微塵も感じられないのだ。 
  「何を望む?・・・儂の元へ来い。貴様が望む全てを与えてやる。」 
  董卓は、今声を掛けている新鋭官吏の中でも、曹操孟徳は別格と考えており、曹操の知と呂布の武を自陣営の二大
 看板にしようと目論んでいるのであった。 
  当然、籠絡(ろうらく)には、寛大な姿勢を示す。 
  所が、曹操は簡単に首を縦に振る事はなかった。 
  「さあ、董卓閣下では、私の望みは適えられないかと。」 
  「今の儂に適わぬ願いがあると思うのか。」 
  尊大な男は勝ち誇った顔を向ける。が、一瞬にしてその顔は、不自然な程に強張るのであった。 
  曹操は挑むように、一歩近付くと、「・・・貴方の首でも。」と言った。 
  暫く、言葉が出ない董卓であったが、絞り出すように声を出す努力をする。 
  そして、沸々と怒りが込み上げてくるのを感じるのであった。 
  「それは儂と敵対するという意味か?」 
  「いえ、漢朝に味方するという意味です。」 
  さらりと言い返す曹操には、悪びれた様子などなく、当たり前のように言い放つのだった。 
  あの董卓を前にして、その胆力は驚嘆に値する。 
  「ふっ、儂の首、取れるというのなら、貴様にくれてやる。」 
  その言葉とともに衛兵が十数名、一塊りとなって登場する。その先頭には、武の化身ともいえる呂布が立っていた。
  「その言葉、覚えましたよ。」 
  「覚える意味がないであろう。」 
  生かして帰さぬという含みを十分に込めて、董卓のしたり顔が肥大する。 
  しかし、曹操の表情は冷静そのもので変わる様子がない。いや、僅かに表情が曇ったのだが、それは董卓の得意顔
 があまりにも醜悪だった事にであった。 
  曹操が軽く指を鳴らすと、黒い影が瞬く間の内に曹操の背後に並んだ。 
  その数は董卓が用意した衛兵の倍であり、その男達からは一介の雑兵にはない威風が漂っていた。 
  それもそのはずで、この者達は曹軍の中でも百騎以上の兵士長ばかりで構成されており、その中には夏侯惇を初め
 とした側近の武将も混じっているのだ。 
  これには流石の董卓も驚いた。それは単純に目の前の兵達にという事ではなく、この丞相府の中に隠密にこれだけ
 の兵を用意できる曹操の実力にだ。 
  又、如何に呂布とはいえ、夏侯惇や夏侯淵、典韋といった強者を同時に相手にするのは苦しいだろう。 
  董卓と呂布には、黙って、曹操が出て行くのを見送るしかなかった。 
  「董卓閣下、では、貴方の首は戦場でいただく事にします。」 
  「取れるならな。」 
  最後に董卓が意地の反論をみせる。 
  曹操はその言葉を素直に受け入れた。 
  『確かに、あの呂布までも敵に回しては、独力で抗するには限りがあるな。』 
  それから、曹操は打倒董卓に関しての軍略を無数に練るのであった。 
  
  
  
  「おら、こっから先は漢の領土だ。一歩たりとも入れないよ。」 
  馬上から雌雄一対(しゆういっつい)の剣を振るい、大きな声を上げるのは、北平で公孫さんの世話になっている劉
 備玄徳であった。 
  その両脇には変わらず義弟の関羽と張飛が自慢の得物を振るっている。 
  そして、その彼らの相手とは、長い間、公孫さんと北方の領地を巡って対立している鮮卑(せんぴ)族であった。 
  久しぶりの戦闘に張飛は嬉々として、関羽は世話になっている義理を果たそうと、あらん限りの膂力を発揮する。
  この二人の鬼神の前では、鮮卑族も為す術がなく、あっという間に退却していった。 
  「よっしゃー、おいら達の勝ちだ。深追いはするんじゃねぇぞ。」 
  その指示でピタリと追撃の手は止まる。軍の統制が取れている証拠であった。 
  ただ、一騎だけその声を振り切り、五馬身程離れた所に止まった武者がいた。 
  それは丈八蛇矛(じょうはちだぼう)を脇に抱える虎髭の男、張飛益徳であった。 
  その張飛の表情には、明らかな不満の色が表れている。 
  「何だよ、益徳。勝ったってのにしけた面してんじゃねぇよ。」 
  「別に・・・ただあまりにも歯応えがねぇから・・・ついな。」 
  「困った奴だな。勝ち戦で不平を言うのは、お前くらいだぞ。」 
  関羽に窘められても張飛の不満が解消される訳ではない。 
  劉備と関羽が並んで馬を走らせているその後ろで、張飛はつまらなそうな顔でそっぽを向くのであった。 
  久しく強敵と出会っていない。 
  張飛は単純に血を好む戦好きという訳ではない。むしろ関係ない人まで巻き込む戦は、なくなった方がいいとさえ
 思っている。 
  それでも戦場に身を掻き立てられるのは、強い敵と血の滾(たぎ)るような戦いがしたい。 
  その欲求が誰よりも強いからなのである。 
  思い起こせば、黒山賊の趙雲子龍以来、強い敵とは戦っていない気がする。 
  『あんなギリギリの戦いがしてぇな。そして、その前の・・・』 
  張飛は遠い昔の記憶を辿るようにして、強者達との戦闘を思い浮かべる。特にある村で起こった一番の強敵の事は、
 今でも鮮明に記憶に焼き付いているのであった。 
  「もう一度、戦いてぇな。」 
  思わずそう呟いた張飛であったが、その願いが適ったかのように懐かしい名前を耳にする事となった。 
  それは劉備達が公孫さんの城に戻ってからの出来事である。 
  
  「どうしたんだい、伯珪殿。浮かない顔して。」 
  「おお、玄徳か、報告は受けている。良くやってくれた。」 
  公孫さんは、早速、劉備に鮮卑族との戦について労(ねぎら)いの声を掛ける。 
  劉備にとって朝飯前の事であるが、喜んでもらえるとやはり嬉しいものだ。 
  劉備が得意げに鼻の下を指で擦っていると、公孫さんの表情がまた曇っているのに気付いた。 
  疑問に思い、劉備は再び質問をする。 
  「やっぱり、何かあったんじゃ?」 
  「ああ、こんな所で悩んでいても仕方がないのだが、都でな・・・」 
  「都?何が起きたっていうんだい。」 
  「新しく帝がお立ちになった。」 
  劉備は公孫さんの発言に、何だそんな事かと胸を撫で下ろす。 
  「この間だろ、そんなの知っているよ。」 
  「いや、違う。」 
  しかし、公孫さんは直ぐさま、否定の言を放ち、劉備を戸惑わせた。 
  新帝には劉弁がなったばかりだ。それが違うのと言うのか・・・ 
  情報がなければ劉備が疑問に思うのは、もっともで、公孫さんは続いて新しい情報を告げるのであった。 
  「劉弁様は廃帝となり、代わって劉協様が新たな帝となったのだ。」 
  「何だって!」 
  これには劉備は元より、関羽や張飛も大声を上げた。帝位就任から僅か数ヶ月であろう。 
  一体、都で今、何が起こっているのか。 
  「誰かの陰謀かい?」 
  「陰謀?そんな生やさしいものではないのかもしれん。都は今、涼州の董卓に牛耳られているそうだ。」 
  董卓の名は、劉備に苦い記憶を思い出させる。 
  劉備の師である盧植がいわれのない罪によって、その役職を解かれたとき、その兵を引き継いだのが董卓であった。
  その董卓には師を侮辱された経緯(いきさつ)があり、彼の事は快く思えない。 
  「残念ながら、劉協様は董卓の傀儡(かいらい)となっているそうだ。」 
  「しかし、そんな専横が・・・、都には盧植先生だっているだぜ。」 
  公孫さんも劉備と同じく盧植の教えを受けた一人だ。師の性格は十分知っている。 
  こんな横暴を赦すわけがない。 
  しかし、公孫さんの元にはその盧植の情報も入っているのであった。 
  「ああ、先生は董卓に真っ向から立ち向かわれた。しかし、権力の全てを握る董卓は先生を投獄したそうだ。幸い、
 蔡ようの取りなしで極刑は免れたそうだが・・・」 
  『何て事だ。』 
  劉備は声を失う。そういった事があったのならば、もう、都に董卓に立ち向かう高官はいないだろう。 
  後は位の低い若い官吏だが、公孫?の話では、董卓の悪政に嫌気をさし次々と都を離れているそうだ。 
  こうなれば董卓の一人勝ちは加速度を増していく一方だ。 
  だが、一つ疑問なのは、どうして董卓がそれ程までの権力を手中に収める事が出来たのかという事であった。 
  その疑問にも公孫さんは答えてくれた。 
  「董卓は丁原の兵を吸収し、圧倒的な武力を手にしたそうだ。中でも丁原を裏切った呂布という男の武力は、古の
 項羽に比するらしい。」 
  呂布とは聞かない名前だなと劉備は考え込む。自分に仕える前まで青龍団を率いて天下に名を轟かせた関羽ならば、
 知っているかと尋ねてみたがやはりその首を横に振るのであった。 
  その時、隣の張飛の肩が細かく震えているの気付いた。 
  「どうした、益徳。」 
  「・・・長兄、今、呂布って言っただろう。」 
  「ああ、そうだけど、何か知ってるのか?」 
  「圧倒的な武力でその名前が呂布ってんなら、あいつしかいねぇ。・・・野郎、やっぱり、生きていやがったか。」
  張飛の気勢が高揚する。震える肩からは、それが恐怖なのか歓喜なのか劉備でも判断がつかなかった。 
  「長兄、都に行こうぜ。」 
  いきなり、そうこられても全く意味が理解できないので、張飛に事のあらましを簡単に説明してもらうと、劉備は、
 「分かった。」と、頷くのであった。 
  「伯珪殿、どうやら、董卓を・・・呂布を止められるのは、益徳しかいないかもしれねぇ。」 
  こうして、劉備は北平を後にし、一路、都を目指す旅路につく事になった。 
  洛陽は二年ぶりとなるのだが、流石の劉備も今回ばかりは期待より不安の方が上回ってしまう。 
  それでも彼を突き動かすのは、張飛とは違う欲求が掻き立てるのだろう。 
  それが何かは、まだ分からないが、今は理解できずともその本能に身を任せてみようと、そう思う劉備であった。 
 

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