十七.赤い空 
  

  虎牢関を取り巻く反董卓連合の志気は、今や天を衝くばかりであった。 
  董卓との緒戦を不利な展開から、見事に逆転勝利を飾った連合軍は、その日の夕飯時に一兵卒にまで酒が振る舞わ
 れる。酒の力も手伝ってか、はじめは董卓に対して抱いていた恐れのようなものが、完全に払拭された。 
  残念ながら、虎牢関を打ち破るまでにはいたらなかったが、あの呂布を撤退せしめたのは、非常な大きな戦果であ
 った。 
  その最凶にして最強の呂布を退けた、この日一番の功労者にあたる劉備三兄弟は、連合軍の幹部となる諸国の群雄
 達との同席を許され、その帷幕の中で杯を重ねていた。 
  帷幕の中は州牧や太守を努める者、数万の兵を配下にしている者など、漢帝国の高官ばかりであり、この見ず簿ら
 しい三人に白目で見る者ばかりである。 
  感謝と慰労のため、先程、総大将直々に劉備に酒をつぐという体裁を見せた遠紹でさえ、その顔には不満の文字が
 ありありと滲み出ているのであった。 
  この雰囲気に大の酒好きで、大酒飲みの張飛ですら、十分に楽しむことができずにいるのであった。 
  酒を飲んで、こんな不愉快な気分になったのは、この人にとって初めてのことかもしれない。 
  ただ、そんな様子も一向に意に介さないのが、この張飛の義兄である劉備玄徳であった。 
  もう一人の義兄である関羽も長兄の劉備に倣って、落ち着いて酒を飲んでいるように見えるが、先程から、あまり
 料理には手をつけていないようであり、やはり、普段とはどこか違うのであろうと推察できる。 
  そんな中、気が気でないのが劉備とは同窓の兄弟子にあたる北平太守の公孫さんであった。 
  堪らず公孫さんは、隣りに座る弟弟子に耳打ちをするのであった。 
  「おい、玄徳。この場は、お前にとってまだ早かったのかもしれん。頃合いを見計らって、退出した方がいいんじ
 ゃないか?」 
  「何で?」 
  劉備は、不思議そうな顔で公孫さんを見つめる。しかし、同じく公孫さんもその返答に大して、劉備の顔を唖然と
 して見つめ返すのである。 
  「な、何でって、・・・お前・・」 
  「酒も料理も、まだある。席を外す理由はなえだろ・・」 
  「その料理も十分に味わえる雰囲気じゃないだろうに。」 
  公孫さん、劉備に呆れ果てる。そんな二人の前に、一人の男が酒瓶を持って立つ。 
  見上げれば、そこには連合軍の参謀を努める曹操がいた。 
  曹操は、劉備の杯に酒を注ぎながら、公孫?を慰める。 
  「これほどの胆力がなければ、あの呂布を五百の兵で抑えに行こうとは思わない、と言うことでしょう。」 
  公孫さんは杯に口を添えながら、その言葉に頷くのであった。 
  「何を言ってやがる。曹操孟徳は、おいら以上だぜ。」 
  「ふふっ。・・それは、さておき・・」 
  「何かあるのかい。」 
  この質問をしながら、劉備としては、我ながら間抜けなことを聞いたと思った。 
  何もなければ、わざわざ曹操が酒を注ぎになど来ないだろう。 
  「勝った勝ったと浮かれているが・・・」 
  「虎牢関を破れなかった?」 
  「うむ。それもあるが、あっさり引き下がり過ぎだと思わないか?」 
  曹操の言うことも分かる。 
  呂布が撤退したのは作戦ではないだろうが、それに呼応するような、董卓軍の動きは何か作戦の匂いがする。 
  連合軍を破るのではなく、虎牢関を守り抜く、そういった思惑か・・・ 
  ・・・それとも・・ 
  「私は、董卓の時間稼ぎと読むのだが・・どう、思われる?」 
  時間稼ぎ・・・そう言われると、そんな気がしないでもないが・・ 
  では、何のために? 
  劉備と曹操が深い思考に入った時、衛兵の一人が慌てて酒宴が開かれていた帷幕の中に入ってくるのであった。 
  「何事か!」 
  遠紹の問いにその衛兵は、西の空を指さしながら、「ら、洛陽が燃えています。」と、叫ぶのであった。 
  「何!」 
  諸将が一斉に叫ぶ。と、同時に帷幕の外へ一斉に飛び出るのであった。 
  そして、目の当たりにした光景に、一同、息を呑む。 
  暗い闇の中、西の空だけが血塗られたように真っ赤に染まっているのだ。 
  それは尋常な明かりではなかった。 
  「ら、洛陽か?」 
  「虎牢関を越えた先・・洛陽しかないだろう。」 
  遠紹の問いに、曹操は平静を装って応えた。 
  「おのれ、董卓め。」 
  遠紹は西の空を忌々しく見上げ、拳を強く握りしめるのであった。 
  「けっ、洛陽を捨てやがったのか。」 
  「そういうことだろう。・・しかし、気になるのは・・・」 
  「ああ、天子様が、どうなったかだ・・が。」 
  董卓の暴虐が、洛陽だけに留まっていればいいのだが・・ 
  「その心配は、ないだろう。」 
  劉備兄弟の前に曹操が軽装ながら、戦準備を整えた姿で現れた。 
  「話の続きかい?」 
  「ああ、ただし、話というよりは頼みに変わったのだが・・」 
  「なるほどね。で、それは天子様のためか?」 
  質問に曹操は頷く。劉備は、自分の大きな耳たぶに手を持っていくと、軽く引っ張って弾くのであった。 
  「それで、どっちが希望だい?」 
  劉備は関羽と張飛の肩に手をかける。 
  「長兄?」 
  関羽と張飛が、同時に劉備を見た。 
  その真意が分からないからだ。 
  唯一、理解し合っていた曹操のみが劉備に頭を下げる。 
  「では、関羽殿をお借りしたい。」 
  「これは、どういう?」 
  指名された関羽が展開についていけない。 
  当然といえば当然だが、時間も多くないのだ。 
  劉備は、関羽のを背中を押して、理由は道中に曹操に聞けと言うのであった。 
  「道中ですか?」 
  ますます、分からなくなる関羽だが、主命とあらば仕方がない。 
  真意不明のまま、曹操についていくのであった。 
  残された劉備は、同じく当惑気味の張飛に理由を話すのであった。 
  「曹操はこれから、董卓を追うのさ。だが、どこに呂布が潜んでいるか分からねぇ。それで、雲長と益徳のどちら
 かを借りたいと思ったのさ。そして、付け加えるなら、二人とも連合軍を離れた場合、万が一、こっちが呂布に狙わ
 れたら、壊滅的打撃を受けかねねぇって話しさ。」 
  何となく理解できた。 
  しかし、曹軍もそこまで人材不足だったとは思えない。 
  「あの夏侯惇って奴もいりゃ、夏侯淵もいるだろう。それに口数の少ない大男は、相当使えると見るが、それでも
 関兄の力が必要だってか?」 
  「大男?ああ、確か典韋とか言ったな。あいつは使えるだろうが、夏侯惇は駄目だろうな。・・・まあ、呂布、相
 手に限ってのことだが・」 
  「何でだよ。」 
  「予想外のこととはいえ、作戦に反して一人で向かったのが間違いだったんだよ。」 
  劉備の遠回しな言いように、ますます意味が分からない張飛は、自分の長兄の顔をまじまじと見つめ返す。 
  「何だよ。気持ち悪りぃな。・・・いいか、夏侯惇の心は今、ポッキリと折れちまっているってことだ。・・・呂
 布に対してな。」 
  「ん?それは、びびってるってことか?」 
  「簡単に言うと、そんな感じだ。」 
  「ケッ。」 
  張飛は地面に唾を吐きつける。どことなく拗ねた印象を受けるのは、強い相手、手合わせしてみたいと思っていた
 夏侯惇への失望の表れなのかもしれない。 
  しかし・・と、劉備は思う。 
  『お前にも呂布の本当の恐ろしさが、身に染みるときが来るかもしれないんだぜ。そん時、おいらがそばにいりゃ
 いいが・・・』 
  「おい、長兄。関兄の力が必要なのは、分かったけどよ。何で、曹操だけで追うんだよ。」 
  遠くを見つめていた劉備は、張飛の言葉で現実の世界に戻るのであった。 
  そして、あごで人の塊を示す。 
  そこには、遠紹を中心に騒がしく意見を言い合う、群雄達がいた。 
  「遠紹にあれを収集する力も器量もねぇよ。」 
  「確かにな。」 
  意見をまとめなければならない立場の遠紹が、一番、取り乱している様子に張飛も頷くのであった。 
  「ま、曹操がいりゃ何とかなるんだろうが・・・話をまとめている間に、董卓は手の届かない所まで行っちゃまう。」
  「へっ、だから、連合って奴はよ。・・・そうだ、俺達だけでも曹操について行こうぜ。」 
  張飛は、そう言うと丈八蛇矛を取りに行こうと走り出す。その出鼻を劉備が足をかけて止めるのであった。 
  張飛は、ものの見事に前に倒れ込む。 
  「痛てっ。何しやがんだよ。」 
  劉備は睨みつけてくる張飛の顔に、思いっきり溜息を吹きかけるのであった。 
  「お前は、何を聞いてたんだよ。おいら達までいなくなったら、呂布がこっちを攻めてきたときに、誰が防ぐんだ
 よ。」 
  「・・あっ。」 
  その言葉に、張飛は地面に座りながら手を叩くのであった。 
  「ったく。本隊がやられりゃ、反董の芽は潰れちまうだろうが。」 
  座り込んでいる張飛を立たせると、劉備は西の空を見上げるのであった。 
  「今は、曹操に任せるしかねえ。・・・取り敢えず、雲長を信じて待とうぜ。」 
  「まあ、待つのは柄じゃねぇけどな。」 
  「おいらもだ。」 
  張飛が劉備に倣って、西の空を見上げる。 
  視線の先にある雲に、何か得たいの知れない不気味さを感じる劉備であったが、そのことは胸の中にしまい込むの
 であった。 
  そして、努めて明るい声を出すと、「益徳、まだ、酒も残ってるだろ。うるさい奴らが表に出ている内に、飲み干
 しちまおうぜ。」と促す。 
  「おお、良いこと言うじゃねぇか。」 
  真っ先に張飛が歩き出した。その背中を見つめていた劉備が、再び、西の空を見上げる。 
  「雲長、必ず生きて帰ってこいよ。そして、曹操もな。」 
  劉備が、そう呟くと、赤く焼けた空の端に佇んでいた星が一瞬、輝いて見えた。 
  その星に笑顔を残して、劉備は張飛の後を追うのであった。  
 

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