十二.身代わり 
  

  魯陽に駐屯していた孫堅軍に、ついに動くときが来た。 
  練兵は思いの外、順調に終了し、孫堅自慢の精鋭ができあがった。後は、結果を残すのみである。
  出陣前の宴を城外で開く孫堅は、上機嫌に頬を緩ませ美酒に酔うのであった。 
  そんな孫堅の表情が一気に引き締まる。 
  場内に残る物見から、敵影、発見の知らせが孫堅の耳に入ったのだ。 
  ほろ酔い気分の孫堅兵は、主君の指示のもと直ちに城内へと移動する。 
  突然の出来事にも動じず、一糸乱れぬ行動がとれるのは、まさに練兵の賜であった。 
  城外に出ていた兵が一兵も残らず、移動を終えた頃に敵影の正体が知れる。 
  それは真っ黒な甲冑、装束に身を包んだ董卓軍であった。 
  先頭を走るのは、この一軍を率いる猛将華雄である。 
  「おお、これは華雄将軍のお出ましでありますか。わざわざ、お出でにならなくとも、こちらから伺いましたもの
 を・・・」 
  孫堅は城壁に立つと遠路、騎馬を走らせてきた華雄を大仰に迎えるのであった。 
  その物言いに華雄は、はらわたを煮え繰り返す。 
  「孫堅よ。逃げ足だけは早いようだな。しかし、逃げの一手では、儂には勝てんぞ。」 
  「さて、それは、どうかな。」 
  孫堅が手を挙げると弓箭隊(きゅうせんたい)が城壁一面に現れる。 
  「出迎えは、派手にしてやれ。」 
  その声とともに一斉に華雄軍に矢の雨が降り注ぐのであった。 
  「・・ぬう。孫堅め。」 
  華雄は歯噛みをして、孫堅を睨みつける。 
  「お下がり下さい。華雄将軍。」 
  随従している李粛に促され、華雄はやむなく撤退する。 
  しかし、その視線は最後まで孫堅を捉えたままであった。 
  華雄軍の騎影が、魯陽一帯からいなくなると孫堅兵達は、一斉にその緊張を解いた。 
  孫堅も、また然りである。 
  「殿、華雄は何をしたかったのでしょうか?あれでは、やられるためだけに来たようですが?」 
  四天王の一人、程普が、そう孫堅に話しかける。 
  「何、あの野郎は、呂布にその座を奪われて正気をなくしているのよ。」 
  孫堅に変わって答えたのは、同じく四天王の一人、祖茂である。 
  「いや、違うな。」 
  祖茂の発言を否定した孫堅は、地平線に消えていった華雄軍を見つめて、言葉を続ける。 
  「華雄には、何かの決意が見られる。執念か怨念か・・・・これは、締めてかからねばなるまい。」 
  その言葉に他の四天王、黄蓋や韓当も戦慄を覚えるのであった。 
  しかし、その孫堅の心配は杞憂に終わる。 
  孫堅配下の誰もがそう思っていた。 
  孫堅軍が一度、魯陽を出た後の快進撃は凄まじく、梁(りょう)の東部では胡軫(こしん)を、人陽城に追い込む戦で
 は趙岑(ちょうしん)を、それぞれ討ち取るのであった。 
  孫堅軍は意気を上げて、人陽城を取り囲む。 
  人陽城の陥落も秒読みと誰もが思った。 
  が、不思議なことに、ここで孫堅軍の快進撃がパタリと止まるのであった。 
  その原因に孫堅は自軍の兵を見て、溜息を漏らす。 
  孫堅の目に映る自軍兵は覇気なく、その場に座り込んでいる者が大半を占めている。 
  軍律に厳しい孫堅軍において、普段であれば懲罰もの行為を孫堅が黙認するのには、大きな理由がある。 
  何故なら、これまで届いて遠術からの補給が急に止まってしまったからだ。 
  七日前から、軍の中で食事制限がされ、ついに昨日には食料が底をつき、何も口にしていないという有様なのだ。
  兵は迅速を尊ぶ。 
  素早い行軍のために必要最小限の食料しか備蓄していなかったのが、完全に裏目に出た結果となる。 
  しかし・・・ 
  心配していたことが現実のものとなったのだ。 
  遠術の人となりは、かねてから懸念されていたことである。 
  孫堅自身も遠術の裏切りは計算の中に入れていたつもりだった。が、それは早くても洛陽を直前に迫った段階と踏
 んでいた。 
  何故なら、その方が労少なく孫堅の手柄を横取りすることができるからだ。 
  遠術もそれぐらいの計算はできるはずだ。 
  とすると・・・誰が別の者が入れ知恵をしたのか・・・ 
  「殿!遠術殿に使わした使者が戻って参りました。」 
  孫堅の思案中に黄蓋が呼びに来た。 
  既に孫堅の中で、使者の返答は読めているのだが、一応、聞くことにする。 
  使者は決して、顔を上げることなく、地にひれ伏したままで、こう述べた。 
  「殿、申し訳ございません。遠術殿が申すには、董卓の手の者に国庫が焼かれたそうにございます。よって、貴軍
 に割く兵糧はないとのことでございます。」 
  「何を馬鹿なことを申すか。」 
  使者の口上に韓当が色めき、刀の柄に手をかけるのであった。 
  しかし、使者に罪はない。程普と黄蓋、二人で何とか韓当を取り押さえるのであった。 
   「ふっ、ふははは。」 
  殺伐とした雰囲気の中、孫堅が大笑いをする。 
  断ることは予想できたが、まさかそんな言い訳をするとは・・・ 
  「殿?」 
  突然、笑い出した孫堅を心配そうに四天王がそろって見つめる。 
  「何だ?俺は別に気がふれたわけではないぞ。」 
  「いや、勿論。それは・・・」 
  「何、遠術の返事、これで分かりやすくなったというものだ。」 
  「何がでございますか?」 
  程普が、そう尋ねる。 
  「どうせ、断ってくることは分かっていた。しかし、その返答が二、三日待ってくれというのであれば、貰えぬと
 分かっていても心のどこかで期待してしまう。・・・だが、無いというのであれば、期待のしようもない。我らで何
 とかするしかないということだ。」 
  ・・・しかし、その何とかが、本当に何とかなる問題であれば、このように切羽詰まることはないのだ。・・・家
 臣達の顔色には、一様に不安の影が落ちる。 
  そこに追い打ちをかけるように敵襲の知らせが入った。 
  「ちっ。」 
  孫堅が珍しく舌打ちを鳴らす。 
  孫堅は本気で何とかしようと考えていた。しかし、それには考えをまとめるだけの時間がいる。 
  その時間も与えられぬのでは・・・ 
  「隊形を整えろ。今こそ、練兵の成果が問われる。」 
  孫堅の指示のもと、雁行(がんこう)の陣がしかれる。 
  鏃の先が董卓兵を捉え、孫堅の号令を待った。 
  「撃て。」 
  大量のが矢が董卓軍に向かって放たれるが、その半分以上が、途中で失速し地に突き刺さるのであった。 
  もっとも、この矢の意味は威嚇であり、董卓軍の足を止めることができれば十分効果があったといえるのだ。 
  「はははは。孫堅よ。気持ちだけでは力は発揮できないものだな。」 
  董卓軍を指揮する華雄が小馬鹿にした口調で、話しかけてきた。 
  「ここまでは、お前、・・・いや、李需の策略通りだな。」 
  「知っていたのか。」 
  遠術が急に兵糧を輸送してこなくなったのは、董卓軍の参謀、李需の策略によるものだったのだ。 
  それを見事に看破した孫堅であったが、今は、そんなことを自慢できる状態ではない。 
  「ああ、見事にやられたよ。」 
  「兵法に詳しい貴様も、人の心理までは読めなかったようだな。」 
  「何だと。」 
  この言葉には、孫堅よりも韓当や祖茂が怒りを顕わにした。 
  その二人を孫堅が抑える。 
  「いい。今は言わせておけ。それよりも退却の準備を始めろ。」 
  「な、逃げるのですか?」 
  「明日の勝利のためだ。今は我慢しろ。」 
  二人は、渋々、陣払いを部下達に指示するのであった。 
  しかし、それを見逃す華雄ではない。 
  騎馬に号令を下し、一気に孫堅軍へと襲いかかる。 
  「殿、殿(しんがり)は誰が?」 
  「俺がやる。早く退却しろ。」 
  孫堅の指示に従い、程普と韓当を先頭に孫堅軍は退却しだした。 
  だが、空腹の軍は足取りが重く、練兵時に見せた動きは、そこにはなかった。 
  そうしている内に董卓軍の騎馬隊が追いつき、乱戦となる。 
  「逃がさんぞ。孫堅。」 
  華雄の薙刀が左右に動き、その動きに合わせて孫堅軍の兵達が次々と倒れていった。 
  流石に華雄は、猛将の一人と言える。 
  これでは、いたずらに兵が倒されるばかりと考えた孫堅は、華雄に一騎打ちを挑もうかと思案にくれた。 
  その思考を巡らせる一瞬の隙をつかれ、孫堅がかぶる赤い頭巾を誰かに奪われるのであった。 
  「殿、ご無礼を。」 
  そう言ったのは祖茂であった。 
  何をする気かと呆気にとられていると、祖茂はその頭巾をかぶり、大声を上げるのであった。 
  「孫堅文台は、ここにあり。誰ぞ、挑む者はおらんか。」 
  その声とともに敵軍の視線が祖茂に集中した。いや、集中したのは視線だけではなく、剣や槍、弓、全ての殺意が
 祖茂に向けられる。 
  「あの馬鹿は、何を。」 
  孫堅が祖茂を捕まえようとすると、誰か別の者が今度は孫堅の馬の手綱を抑える。 
  「殿。あいつの心意気を無駄になさならないで下さい。」 
  それは黄蓋であった。 
  「・・しかし。」 
  「殿!普段、冷静な殿でしたら、お分かりになるはずです。」 
  黄蓋の熱い目が孫堅をジッと見つめる。 
  聞き入れてくれなければ、黄蓋自身、自分は死ぬ。 
  そう、その目は物語っているのであった。 
  「くそ。分かった。死ぬなよ、大栄」 
  祖茂にそう呼びかけると、孫堅は脇目もふらず馬を走らせるのであった。 
  それは少しでも戦況を見つめると気持ちが変わってしまいそうになるからであった。 
  孫堅の馬が走り出すのを認めると、祖茂はにっこりと笑って、孫堅が向かった方向とは逆に馬を走らせる。 
  その祖茂を追うようして、董卓軍がついてくる。 
  祖茂に付き従った兵は、次々に倒れていき、ついに単騎となったところで、華雄に追いつかれるのであった。 
  「孫堅め、往生際が悪いぞ。」 
  「誰が往生際が悪いって?」 
  華雄の言葉に祖茂が振り返る。祖茂の顔を見つめた華雄が絶句するのであった。 
  「貴様、孫堅ではないな。」 
  「ご明察。」 
  「ぬおおおお。馬鹿にしやがって。」 
  怒りとともに華雄の薙刀が振るわれた。 
  祖茂も孫堅旗下四天王に数えられるだけあって、その武力は衆を凌駕するものであったが、華雄の怒りの前には一
 合と合わせることもできずに首を獲られるのであった。 
  「くそ。孫堅め。囮なぞ卑怯なまねをしおって。」 
  祖茂の首を獲っても気が晴れない華雄は、首の無くなった胴にも薙刀を浴びせるのであった。 
  一方、孫堅には祖茂が亡くなった虫の知らせが入る。 
  「ま、まさか。」 
  そう言うと、孫堅は馬を走らせてから、初めて戦場を振り返るのであった。 
  「殿、いかがなさいました。」 
  黄蓋が心配になり声をかける。すると、その心配は的中する。 
  今まで、長い付き合いの黄蓋が一度として見たことない悲しい顔をした孫堅が、「すまん。」と、一言残して戦場
 へと戻るのであった。 
  「殿!お戻り下さい。殿!」 
  止める間もなく走り出した孫堅に、悲痛の叫びを黄蓋は上げるが、その声は孫堅には届かなかった。 
  いや、届いている。届いているからこそ、孫堅自身も辛いのだ。 
  孫堅は辛さ、悲しみを決意に変えて、董卓軍に挑むのであった。  
  

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