一.赤兎 
  

  黄巾の乱の爪痕も完全に癒えた。 
  そう思わせる程の豪華絢爛(ごうかけんらん)な都となった洛陽。 
  しかし、豪華な外観とは裏腹に、そこで生活する人間の窮状は、ますます困難なものへと追いつめられる事になる。
  その全ての元凶は、十常侍の失脚の後、新しく都に入った涼州の梟雄(きょうゆう)・董卓仲頴(とうたくちゅうえい)
 であった。 
  董卓は上洛するやいなや、親族・近臣を宮廷の重職に就け、自分の権力を揺るぎないものにする。 
  続いて、洛中の富豪からは金品の強奪。自由に解き放たれた董卓の部下達は、様々な略奪、陵辱を繰り返した。 
  今の洛陽に法はなく、あるのは狂乱と破壊、董卓への畏怖だけであった。 
  そして、董卓の傲岸は留まるところを知らなかった。 
  文武百官を集めた席で、現在の皇帝・劉弁(りゅうべん)の廃位と劉協(りゅうきょう)の戴冠を宣言するのである。 
  「誰か異議のある者は、名乗り出ろ。」 
  絶対的な武力と権力を背景に董卓が一睨みすると、居並ぶ群雄達も押し黙るしかない。 
  このまま、廃帝と新帝が決まるのかと、そう思われたとき、一人、気を吐く老人がいたのである。 
  「己、董卓!劉弁様は即位して間もなく、何の落ち度もないというのに、何故、廃帝とならなければいけない。お
 前の魂胆が筒抜けじゃわ。」 
  「何だと。貴様は丁原(ていげん)か。」 
  執金吾(しつきんご)の丁原が顔を真っ赤に上気させながら、董卓に敢然と立ち向かう。 
  その様子を曹操は冷ややかに眺めていた。 
  それは曹操自身、現状では誰が皇帝であろうと関係ないと思っているからだ。 
  董卓の傀儡(かいらい)である事実は覆らないのだし、むしろ器量・才覚の面を重んじると、董卓よりの考えと言っ
 ても過言ではないのである。 
  それに丁原の人となりも快く思っていなかった。 
  丁原は何進に取り入り、謀略を持って執金吾の地位を得たのだ。その粗野な性格から想像するに、正義のための熱
 弁とは思えない。 
  しかし、勇気は認めるが董卓と戦うだけの戦力が果たして・・・と、疑問に感じる。 
  が、その疑問は、丁原の後ろにすっと立ち上がった男の存在感によって払拭された。 
  その男は身の丈九尺はあろうかという偉丈夫で、額にある傷が特徴的であった。 
  いや、それ以上に冷徹な眼差しが印象に残る。曹操といえども彼と正視するには、両足に力を込めなければ耐えら
 れないかもしれない。 
  現に董卓でさえ、一瞬の怯(ひる)みを見せるのであった。 
  その様子に満足すると丁原は、不敵な笑みを浮かべるのである。 
  「董卓よ。全ての人間がお主を恐れおののくと思うな。」 
  そう言い残すと丁原は、高笑いとともにその場を立ち去ろうとする。 
  一瞬でも怯んだ己と丁原の態度に、ひどく自尊心を傷つけられた董卓は、身近な者に耳打ちをする。 
  すると、三方から現れた刺客が黒い影となって、丁原の背後を襲うであった。 
  が、その刺客達は瞬く間の内に、床の上へと転がされる。 
  丁原の後ろで仁王立ちする偉丈夫の手刀が、一瞬の内に閃いたのであった。 
  更にその偉丈夫は一歩踏み込んで、刺客達の主である董卓を睨み付ける。 
  流石に今度は怯む事なく、董卓はその視線を受け流し、相手の武芸の冴えを褒めるような余裕させ見せるのであっ
 た。 
  その様子に逆に偉丈夫の方が驚きの表情を見せるが、直ぐに冷たい表情へと戻る。 
  緊張感が二人の間に走った。 
  その時、曹操は軽い笑いが込み上げてくるのを堪えるのに、神経を費やさなければならなくなった。 
  それは完全に蚊帳の外となった丁原が気まずそうな表情で、二人の間に割って入ろうか思案している様子が、格の
 違いというのを如実に表していると感じたからだ。 
  程なく、遂に痺れを切らした丁原が偉丈夫の方に声を掛ける。 
  「呂布(りょふ)よ。引き上げるぞ。」 
  丁原が去った後、この間にいた人物全てに呂布という名前が記憶される。 
  また、これから起きるであろう、董卓と丁原の争いが、壮絶なものとなる事を想像するのであった。 
  ただ、曹操のみは、呂布の圧倒的な武威の中に存在する空虚を感じ取る。 
  何か不穏な、最悪の展開が待ち受けている。そんな気がしてならなかった。 
  そして、・・・ 
  その曹操の危惧が現実へと変わる。 
  呂布の裏切りによって、呆気なく丁原軍は崩れ、董卓軍へと吸収されたのだ。 
  これで、董卓の権力がまた一つ強大なものとなるのであった。 
  呂布の変心に何が介在したのかは、曹操には与(あずか)り知らぬ事であるが、既に個人の力でどうにかなる限界を
 越えた事を認めざるを得なかった。 
  呂布の裏切り・・・ 
  日頃、冷静な曹操が珍しく嘆息を繰り返して止まない。そして、呂布に一体何があったのかと思い巡らせるのであ
 った。 
  
  
  
  「今宵、直ちに丁原を討つぞ。」 
  董卓が声高々に近臣に宣言する。すると、その言葉を重臣中の重臣、懐刀とも言える李儒(りじゅ)が押し留めた。 
  「殿、それはなりませぬ。丁原は恐れる者ではありませんが、あの呂布は当代随一の勇者。例え、勝利を得たとし
 ても、こちらの被害は相当なものとなります。」 
  李儒の一言、董卓も呂布の武芸を目の当たりにしているだけに、不承不承頷くしかなかった。 
  「では、どうする?」 
  かといって、丁原の自分に対する態度を認めたままでは、沽券に関わるともに今後の政策に影響を及ぼしかねない。
  最も信頼する知者が、何の策もなしに気性の激しい自分に反対する愚を犯さない事をよく知る董卓は、そう尋ねる
 のであった。 
  「はい。私に一計がございます。」 
  李儒は、その台詞を待っていたかのように胸を反らせるのであった。 
  「あの者はその昔、へい州で山賊の頭をやっていた男に違いありません。その膂力(りょりょく)は大木をも薙ぎ倒
 すという噂で、官兵も手を出す事ができなかったそうでございます。」 
  確か呂布とは、今日初めて対面したはずであるが、この李儒の情報網とは、どこまで繋がっているのか。 
  そのおかげで、董卓は難なくこの都を手中に収める事が出来たのだが、董卓をしても空恐ろしく感じる。 
  しかし、まだ肝心の言が引き出されたわけではない。 
  董卓は黙って、李儒に視線を送るのであった。 
  「そして、ご存じの通り、丁原はその昔へい州の牧を務めておりました。州牧と山賊の頭、この二人が主従、しか
 も近従とする程親密になるのは不自然に思えます。」 
  「ほう、それで。」 
  「何か裏がある。そこをつきますれば・・・。」 
  「どうする。こちら側に引き込むのか?」
  「はい。」 
  李儒の返事に董卓は、様々な考えを巡らせる。 
  確かにあの武力は魅力だ。 
  呂布を配下とする事が出来れば、まさに鬼に金棒であり、自分に逆らおうとする者は、誰もいなくなるであろう。
  が、果たして、そううまくいくのか? 
  「殿が心配される事は分かります。私も簡単な仕事とは思いませんが・・・そこで、殿にお願いがあります。山の
 ような金品と愛馬・赤兎(せきと)をお貸し下さりませ。」 
  「赤兎をか?」 
  流石の董卓も二つ返事には躊躇をする。 
  董卓が治めていた涼州は馬産地で有名だが、その中でも選りすぐりの良馬が、董卓が跨る赤兎馬であった。 
  董卓も武人である。その馬の価値が分かるだけに、容易には返答が出来ないのだ。 
  「呂布を得ますれば、殿が戦場を駆け回る必要がなくなります。天下の事をお考えになって、どうか、ご決断を。」
  迷う董卓にたたみかけるように李儒は詰め寄った。 
  「天下か。」 
  「そうでございます。」 
  その言葉が董卓の迷いを断ち切る。長い時間瞬きをすると、董卓は、「良きに計らえ。」と、告げるのであった。 
  そして、早速、その夜の内に李儒は李粛(りしゅく)という弁の立つ男を使者として、呂布の元へ送るのであった。 
   
  
  
  幕舎の中、僅かな灯りの中で対面する呂布という男に、李粛は正直、寒気を感じるのであった。 
  およそ、表情というものが感じられない。 
  しかし、役目を全うするためには、この表情を氷解させねばならないのだ。 
  「我が主は、呂布殿の武芸に痛く感服し、金品を贈呈したいとお考えになっております。」 
  「・・・・それで。」 
  運んできた金品の一部を机の上に差し出しても、呂布の表情は変わる事はなかった。 
  いや、変わるどころか、不快に思っている事が言葉に現れている。 
  この時、李粛は自分が死地にある事を悟るのであった。 
  下手な事を言えば、目の前の偉丈夫に頭蓋を叩き割られるだろうし、もし、懐柔に失敗するような事があれば、董
 卓に処断される事は間違いない。 
  李粛が言葉を選ぶのに逡巡(しゅんじゅん)していると、呂布は机を叩いて立ち上がるのであった。 
  「話がそれだけであれば、お引き取り願おうか。」 
  呂布に睨まれ、李粛の顔が青ざめる。 
  元山賊と聞いていたので、金品に簡単につられると思っていたのだが、完全に当てが外れたのだ。 
  李粛に打つ手がなくなった時、偶然、表の方から馬の嘶(いなな)きが聞こえるのであった。 
  「今のは?」 
  この時、初めて呂布が表情らしきものを見せる。 
  李粛は文官であり、馬の価値というものが分かっていない。 
  だから、交渉の席でもその事には触れなかった。ついぞ、その存在すら忘れていたのだが、相手の反応を見るにこ
 こは押し所と感じる。 
  「はい。あれは董卓様よりの献上の品、名馬・赤兎にございます。」 
  「名馬?・・・馬・・か。」 
  呂布は馬という言葉に過敏に反応し、頭を抱えながら、何か遠い昔の出来事を思い出すように考え込むのであった。
  「どうぞ、将軍。その名馬を拝見なさって下さい。」 
  李粛は、そう言って連れ出すと呂布を赤兎の前に立たせるのであった。 
  「おおお、これが赤兎。」 
  赤兎馬の前の呂布は、今までの虚ろともとれる表情が嘘のように、活気に満ちた目を注ぐ。 
  「どうぞ、跨ってみてください。」 
  呂布は李粛に促せれるまま、赤兎馬の鞍上に乗る。 
  そして、みるみる力が漲っていく自分に陶酔するのであった。 
  その時、赤い筋が呂布の顔を綺麗に二つに分かつ。それは呂布の額にある傷から出た真っ赤な血であった。 
  「りょ、呂布殿。額が。」 
  驚く李粛をよそに呂布は平然とし、その血を拭うでもなく遠方に視線を送るのである。 
  「李粛とやら、俺は昔、?州の谷底に倒れている所を丁原に拾われた。しかし、その前の記憶が何故かないのだ。」
  遠方を見つめる視線を細くすると、呂布は自分の経歴を李粛に話し始めるのであった。 
  「しかし、何故か心の中ではいつも最強の武という言葉と良馬という言葉が渦巻いていた。・・・記憶は戻らない
 が、その理由が今やっと分かったぞ。俺はこの良馬を得た事で天下無双となる。これは我が天命だ。」 
  「おおお、では。」 
  「この赤兎を得るためであれば、丁原の恩義も捨てる。」 
  呂布はそう言うと、一目散に丁原が眠る幕舎へと赤兎を駆るのであった。 
  血に染めた表情は悪鬼の如く、瞬く間に丁原の首を討ち取る。 
  元より、丁原への信頼というより、呂布の無頼の強さに惹かれて集まってきた、荒くれ者の多い丁原軍は呂布の裏
 切りに呼応し、大将首が取られると知ると全ての人間が呂布に従うようになる。 
  そして、呂布はその兵をまとめ、董卓の元へと身を寄せたのであった。 
  
  と、いう訳でごさいます。 
  曹操は間者から、呂布裏切りの詳細を聞くと、改めて嘆息する。 
  もう少し、時が稼げると考えていただけに、呆気ない幕切れには当てが外れたのである。 
  「ふ、仕方あるまい。苦境であれば苦境である程、私を成長させる。」 
  何か胸中に秘策があるのか、曹操は苦難に微笑み目をそっと閉じるのであった。 
 


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