九.覚悟 
  

  霊帝倒れるの報で揺れ動く漢帝国の中、多くの人が頭を悩ませていた。 
  大将軍という大役につく何進も、そんな人物の一人であった。 
  最も彼の場合は、極個人的、漢の行く末などではなく、甥に当たる劉弁(りゅうべん)が皇帝となったあかつきの執
 権についてであったが・・・。 
  劉弁の後見人として、権力を宦官の十常侍と争う事になる。 
  立場上、役職上でも大将軍の何進の方が明らかな上役であるが、宦官は常に皇帝の傍らにいられるという利点があ
 る。 
  幼少の皇帝には、その言の善し悪しなど分かる術などないだろう。彼らの発言力は、これまで以上に重要となり、
 驚異となる。 
  極論を言えば、何進の今の大将軍の地位ですら安泰とは言ないのだ。 
  それだけに疎ましい目の上のたんこぶ。 
  何進としては、何としても除きたいのだが、宦官どもは後宮の奥深くにおり、そこまで兵を送るのには躊躇(ためら)
 われてしまう。 
  元来の優柔不断さが仇(あだ)となっているのだ。 
  「閣下、お呼びですか?」 
  そんな悩める何進の元に中軍校尉の袁紹が現れた。 
  彼は、現在、西園八校尉の一人として、警備のために都に滞在していた。 
  先の黄巾の乱以降、懇意となった間柄で、何進は何かと袁紹に相談を持ちかけるのであった。 
  「おお、袁紹。良い所に来た。」 
  「何でしょうか?」 
  「ふむ、それがな・・・。」 
  何進は宦官対策を袁紹に問う。しかし、袁紹の答えはあまりにも短絡的であった。 
  ただ、「兵を起こしましょう。」と、言うのである。これでは、何進も相談のしがいがないと表情を曇らせるので
 あった。 
  そんな様子に気付かない袁紹は、熱弁を振るうのだが、途中で何進が、「もう、よい。」と、そっぽを向いてしま
 うのに、ようやく自分の意見が意に添わない事を自覚するのであった。 
  この意見の食い違いは、名門の御曹司と庶民・肉屋の息子の違いで、自らの力を過信する者と小心で猜疑心の強い
 者の違いが色濃く出た結果である。 
  が、意見が合わない理由が、互いに分からない。何故なら、袁紹、何進の二人とも自分本位でしか物事を考えられ
 ない人間であったからだ。 
  二人、顔を並べて、徒(いたずら)に時を重ねていると、ふと、袁紹が思いだしたかのように、ある人物の名を上げ
 た。 
  「閣下、かくなる上は、曹操に相談しましょう。」 
  何進は、正直、曹操という男を好きではない。宦官の孫という出時もそうだが、あの鋭い視線が気にくわないのだ。
  まるで、自分の全てが見透かされている。そんな錯覚に陥るためであった。 
  袁紹もそんな何進の心情は、十分、承知しているものの利用できるものは、全て利用する。 
  又、利用される人間も自分の頼み事は喜んできいてくれるという思いこみから、曹操という頼るべき友人を切り離
 して考える事は出来ないのだ。 
  そして、そんな袁紹は自分の意見を堂々と押し通すのである。 
  「閣下、孟徳はなかなかの切れ者。こうして、時間を無駄に過ごすよりも、話を聞くだけ聞いてみては?」 
  時間がないという事は何進にも分かっている。それと、袁紹からはこれ以上、建設的な意見が出ないと見限った何
 進は、渋々、曹操の意見を聞く事にしたのであった。 
  
  
  
  温徳殿の一室で、声を荒げる人間が相手を罵倒する言葉を繰返す。 
  その罵声を受けた人間は、相手の言葉など意に介さずといった姿勢を示しているが、内心の動揺は抑える事は出来
 なかった。 
  「では、董太后の元へ向かったのを、私、一人に押しつけるつもりか?」 
  「実際、面談したのは、貴方でしょう。私ではない。」 
  言い合いをしているのは十常侍の蹇碩と郭勝(かくしょう)であった。 
  「それは二人で相談した結果の行動。私が代表して行っただけであって、貴方とは一蓮托生である事に変わりない。」
  「おかしな言い分をしないで下さい。張譲殿や他の誰かに聞かれたら、どうするんですか。」 
  董太后が亡くなった事により、協皇子が皇帝となる目が完全になくなった。 
  この二人は共謀を図り、協皇子の元で権力を握ろうとしていたのだが、これが勇み足となり、仲違いを起こしたの
 だ。 
  最も董太后と会ったのは蹇碩だけなので郭勝が係わったという証拠はどこにもない。 
  焦ったのは蹇碩で、このままでは十常侍の中で孤立してしまう。 
  いや、それ以前に張譲に殺されてしまうかも知れない。 
  何とかそれだけは免れたい蹇碩は、郭勝と今後について打ち合わせをしようとしたのだが、郭勝の方は頭から、自
 分は関係ないの一点張りなのである。 
  そして、郭勝は、もう、関わり合いたくないとばかりに、そそくさと部屋を出て行くのであった。 
  一人、取り残された蹇碩は呆然としてしまう。 
  今まで築き上げてきたものが、全て音をたてて崩れさっていく幻覚に捕らわれる。 
  いつ部屋から出たのか分からないが、失意のまま回廊を歩いていると、自分以上に青い顔をした同じ十常侍の封しょ
 と出会った。 
  世の中に自分以上に不幸な人間はいないと思っているときである。 
  普段以上に優しい口調で声を掛けたのであった。 
  が、封しょは蹇碩と目を合わせると慌てて駆け出す。懐に何か大事なものを隠すようにして。 
  蹇碩はそんな様子に何事かと訝しむが、今は人の事など構っていられない。 
  そのまま、歩き出すのであった。しかし、数歩、歩く内に悪魔の冴えで、ある考えが脳裏を過ぎる。 
  それは黄巾の乱の時、後宮の中である噂が流れたのだ。その噂は十常侍の中に内応者がいるというもので、それを
 聞いたときは、「そんな馬鹿な。」と、鼻で笑っていたのだが・・・。 
  この話は使える。 
  十常侍で浮かばれないのであれば、何進に取り入るしかない。その手柄としては十分だろう。 
  『封しょには悪いがな。』 
  そうと決まれば、こうしてはいられない。 
  早速、封しょの後を追う蹇碩であった。 
  そして、その封しょはというと人目を憚(はばか)るように一室に逃げ隠れたのである。それをみとめた蹇碩は、気
 付かれないようにそっと部屋に潜り込む。 
  息を殺しながら、中の様子を伺うにつれ蹇碩の頬が緩み始めるのであった。 
  『まさかと思ったが・・・。これで、私の良心も痛まずに済む。』 
  元より、良心というものがあったのかどうか、本人にも分からないが、自分の安泰を手に入れた蹇碩は、いつもの
 尊大な姿が戻るのであった。 
  
  
  
  「兵を集める?とんでもない。」 
  袁紹からの説明を聞いて、飛び出した曹操の第一声が、こうであった。 
  何進の前で自分の意見を完全否定された袁紹は、苦笑いに顔を引きつらせながら、「どうしてだ?」と、問うので
 あった。 
  「本初、君の作戦は、誰を的にしてのものだ?」 
  「それは、宦官に決まっているだろう。」 
  「それが間違っている。」 
  またもや簡単に言い返されると、今度はこめかみがピクリを動かした後、表情を作らずに曹操に聞き返した。 
  「何が間違っているのだ?元凶は全て、宦官にあるのだろう。」 
  「いや、違う。全ては十常侍を討てば、事足りる。」 
  曹操は、そう袁紹に言った後、後ろに控える何進に視線を向ける。 
  その視線に何進は、一瞬たじろぐが、間髪入れずに曹操が話し始めた。 
  「宦官とは古来から朝廷に置かれている制度であり、存在を否定するのものではございません。ようは彼らに権力
 や恩寵を与えねば済む事です。十常侍を廃した後、この事を徹底されれば、今日の惨状を繰返す事はありません。」
  何進は、その意見に唸るのみで、直ぐに言葉を発する事が出来なかった。 
  確かに理には適っている。適ってはいるのだが・・・ 
  生理的にそりが合わないとでもいうのか、曹操の意見を素直に容れる事が出来ないのだ。 
  「ふん。それが宦官の孫の答えか。暗に養護しているとしか聞こえないな。」 
  「ならば、私がここにいても仕方がありませんな。」 
  曹操は、そう言って立ち去ろうとする。何進に曹操を推薦した手前、袁紹は止めなければならないのだが、自尊心
 を傷つけられた彼の体は思うように動かなかった。 
  が、意外に曹操の方で立ち止まってくれたので、ほっとするのであった。 
  「あ、私とした事が驚きと怒りで大事な事を忘れるところだった。」 
  行きかけた足を反転し、二、三歩進んだ曹操は、何進に一礼すると、「先程の招聘の件、今、暫くお待ちいただけ
 ませんか。」と、願い出るのであった。 
  「その時間がないから、お前の意見を聞きたかったんだよ。」 
  何進の代わりに袁紹が答えると、曹操は袁紹に向き直る。 
  「では、初心に返って、私の意見を聞いてくれ。今、十常侍に内部争いをするように工作している。」 
  「何?」 
  「それは本当か?」 
  何進も身を乗り出した。兵力を使うという袁紹の策よりも、何進の思惑に近い策であったからだ。 
  「本当です。・・・ただ、将軍にはお願いがあります。」 
  「な、何だ。」 
  思わずであったが、話に乗ってしまった手前、今更、曹操の意見を否定する事が出来なくなった何進は、言葉を選
 びながら聞き返した。 
  「結果、将軍側につく十常侍も出てくるでしょう。そこでお願いなのですが、その者の命は獲らないで下さい。い
 や、それが無理というのであれば、十常侍を一掃するまでお待ちいただきたい。」 
  「一掃・・・、お主がか?」 
  「はい。」 
  曹操は頷いた後、再び、この場を辞そうとする。去り際に袁紹と目が合った。 
  「お前?」 
  「後は秘中の秘さ。」 
  その言葉を残して、曹操はいなくなった。 残された何進は、袁紹に尋ねる。 
  「今の言葉、信用できるのか?」 
  「はい。虚言を並べて、自分の立場を危うくする男ではありません。」 
  心なし沈んだ口調で袁紹は、そう言った。 
  「分かった。下がって、よい。」 
  何進は袁紹に退室を求めると、座っていた腰掛けに更に身を沈め、目を閉じるのであった。 
  その様子を見届けると袁紹はゆっくりとした足取りで、何進の前を後にする。 
  その時、一度立ち止まり、振り返って何進に何かを告げようとしたが、何進は変わらず深い瞑想に入っていた。す
 ると袁紹は、諦めて部屋から出ていくのであった。 
  部屋を出た後、なかなか歩き出せずにいる袁紹に後ろから、声がかかる。 
  何者かと見回すと廊下の陰から、先に退出したはずの曹操が出てきたのであった。 
  「おお、孟徳。」 
  表面、笑顔を見せる袁紹に曹操は鋭い視線を投げつける。腕を組んだまま、身動きしないので袁紹の方から、曹操
 に近づいて行った。 
  「どうした、恐い顔をして。」 
  「先日、四騎の騎馬が使者として、洛陽から飛び立ったと報告が来ている。いずれも、袁紹、お前の割り符を持っ
 ていたという話だ。」 
  曹操のその言葉を聞いて、さっと袁紹の顔が青ざめた。 
  曹操は正直な男だとつくづく思った。もう、ごまかしは利かない。 
  「招聘をしたんだな。」 
  「ああ。」 
  開き直ったのか、袁紹は胸を反らす。御曹司らしく、堂々とした姿は様になるのだが、曹操には通用しない。 
  「で、一体、誰を呼んだ?」 
  と、いつもであれば、袁紹の威風に押されて、相手は発言できなくなるのだが、曹操の視線と質問は緩む事はなか
 った。 
  袁紹は仕方なく、渋々と答えるのであった。 
  「河内(かだい)の王匡(おうきょう)。えん州の橋瑁(きょうぼう)。へい州の丁原(ていげん)。・・・。」 
  ここまでは曹操も黙って聞いていたのだが、最後の一人の名を上げた時、曹操は掴みかからんとばかりに袁紹に詰
 め寄るのであった。 
  「もう、一度、言ってみろ。」 
  「何を驚いているんだ。涼州の董卓だよ。」 
  曹操はその言葉を聞いて、虚脱感に見舞われる。このままでは、自分の工作も水泡に帰す可能性が出てきた。 
  「董卓がどうしたって言うんだ。地方の一豪族じゃないか。黄巾の乱でも大した戦果は上げていない。」 
  袁紹の問いかけに答える気も失せた曹操は、ぽつりと独り言を洩らす。 
  「毒を持って毒を制すか。」 
  曹操は下を向いて自嘲的な笑いを始めた。そして、最後には顔を上げて、高笑いに変わる。   
  「では、残った毒はどうするんだ。」 
  曹操の言い様を全く理解できない袁紹は、ここに来て、自分がとんでもない事をしてしまったのかという疑問を持
 ち始めるが、その理由が全く分からないので、戸惑うばかりである。 
  「報告の後、直ぐ使者を追わなかった責任もあるか・・・。本初、いずれ、我ら二人でこの責任は取らなければな
 らないかもしれんな。」 
  厳しい表情に無理に頷かされた袁紹は、立ち去る曹操の後ろ姿を唖然として見送るのであった。 
  そして、曹操はこの時、初めて自分の命を投げ出して、大いなる災いを取り除く覚悟を決めるのであった。  
  


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