八.毒酒 中平六年。 曹操の予見通り、北方への巡幸は取り止めとなった。しかし、その理由は想像していたものを遙かに超える。 漢帝国皇帝・劉宏(りゅうこう)が病によって倒れたのであった。 この事件に宮中には衝撃が走り、と同時に打算を図る人間の奔走が始まった。 霊帝・劉宏には二人の皇子がおり、一人は何皇后(かこうごう)の子の弁皇子(べんおうじ)。そして、もう一人は王 美人(おうびじん)の子の協皇子(きょうおうじ)であった。 現在、嫡子として考えられる後継者はこの両名のみであったが、その宮廷内における勢力には格段の差があった。 というのも協皇子の母親は既にこの世の人ではなく、皇后・大将軍として権勢を振るう何一族には対抗するべく力 はなかった。 が、そこに目を付ける輩もいる。 現在、憂き目を見ている連中が浮かぶ瀬の機会とばかりに暗躍するのだ。 そんな人間の中に宦官の蹇碩(けんせき)がいた。 今でも十常侍として、巨大な権力を手中にしていたのだが、人間の貪欲さに際限はない。 今以上の権力を手に入れるためにどちらに付くかを考えると、大将軍の後ろ盾のある弁皇子より、頼る勢力のない 協皇子の方が甘い汁を吸う部分が多いとの結論が彼の中に生まれたのである。 事成ったあかつきには、十常侍の筆頭の座。いや、相手は年端もいかぬ子供である。自分の傀儡とする事も・・・。 捕らぬ狸とはいえ、心躍る蹇碩であった。 「何が可笑しいのです。」 「あ、・・・いえ。」 一人、妄想に耽っていた蹇碩は目の前の人物からの叱責で、現実の世界に戻る。 その人物とは霊帝の母。協皇子の祖母に当たる董太后(とうたいごう)であった。 母親の王美人を早くから亡くした協皇子は董太后の元で育てられていたのだった。つまり、彼に付くという事は、 董太后にも気に入られなければならないのである。 蹇碩は霊帝倒れるの報を聞き、素早く董太后の元へ挨拶に向かったのだ。 「董太后様。既にお聞きになられていると思いますが・・・・」 「ええ。陛下の御容態の事でしょう。最も使者からの知らせの前に、今朝、早くに見えた人物から聞いたのですが。」 董太后は不機嫌な様子でそう答えた。しかし、蹇碩には董太后の機嫌よりも真っ先に現れた人物の方が気になるの であった。 十常侍の先輩格である張譲(ちょうじょう)、趙忠(ちょうちゅう)を出し抜く目的が、その二人が協皇子に付くのな らば、結果は今と変わらなくなる。 その人物の正体いかんによっては、態度を急変させなければならない。 蹇碩の心情を機敏に察した董太后は、その眉間のしわを更に深くするのであった。 「お話しはそれだけですが?ならば・・・」 そう言うと董太后が退席しようとするので、蹇碩は慌てて押し止める。 「いえ、董太后様・・・。その・・。」 「分かっています。その今朝現れたという人物の事が気になるのでしょう。」 「はぁ。」と、一端、気の抜けた返事をした蹇碩であったが、開き直ったのか、身を乗り出すと力強く聞き返すの であった。 「そうです。その董太后様の心気を不快にさせた人物とは、一体、誰なんです。」 「不快になどなっていません。いえ、逆に関心をしております。」 「・・と、言いますと?」 「その男は言ったのです。これから両皇子を取り巻いて、醜い政治抗争が行われると。そして、貴方のように私に 取り入ろうとする人物が数多く現れると。」 「そのようなつもりは・・・。」 蹇碩は焦りながら、憤慨という台詞を吐くが、董太后は深い嘆息を洩らす。 「貴方と彼では、目の輝きが違いすぎます。研ぎ澄まされた刃物のようであり、暖かいお日様のようでもある。あ の典軍校尉殿とは。」 典軍校尉。即ち、曹操孟徳の事である。 蹇碩はこの男の事を想像するだけで、憤怒に打ち震えるのであった。 というのも曹操を陥れる策略、全てが空振りとなり、逆に今度は自分のまいた種によって首を絞められる結果とな ったからだ。 冀州の王芬(おうふん)へ宛てた密書は、今、曹操の手中にある。もし、あれが世に出たら、蹇碩の首は即座に胴体 から切り離され、洛陽の市中で烏の餌に変わってしまう事だろう。 天子を弑(しい)するというとんでもない計画は、実行される事なく、災いとして自分の身に降り懸かったのだ。 蹇碩は間者を使って、幾度となく密書の奪回を試みるが全て失敗に終わる。 そして、奪い返す事が不可能と悟ったとき、その宝刀がいつ抜かれるのかという見えない恐怖は、曹操への激しい 憎悪に変換されるのであった。 「私の前でその名を出されるとは・・・。董太后様、一言申し上げますれば、協皇子の事を思うのであれば、より 多くの味方を作る事が肝要かと思います。・・・むざむざ敵をお作りになるような真似は控えた方がよろしいかと・ ・・。」 「分かりました。覚えておきましょう。」 董太后は蹇碩が退席するのを待つかのように、ジッとして動かない。 蹇碩も董太后の口から、助力を乞う台詞を待つが、しびれを切らすと鼻息粗く退出するのであった。 二人のやり取りに、余程緊張していたのか、侍女の一人が気絶するのを後目に、董太后も肩を一度上下させ、溜息 を洩らすのであった。 「張譲、世継ぎは妾(わらわ)の子、弁に間違いないのう。」 「はい。そのようにこの張譲、様々な手を打っております。」 董太后と蹇碩が面会している頃、温徳殿の一室でも、何皇后と張譲によって同様の風景が繰り広げられていた。 但し、こちらはお互いの利害が一致しており、協力体制といった点で大きな違いがあった。 「では、気になるのは協皇子の出方か。」 「はい。しかし、これといった後ろ盾もございませんので・・・・弁皇子様の優位は変わらぬかと。」 後継者争いの唯一と言っていい、競争相手に完全に優位な立場とはいえ、警戒心を持つ何皇后であった。 その不安を取り除く方法は、一つしかないのだが、それは張譲の口からは言いかねる。 いや、張譲の腹はもう決まっているのだが、それを自ら言うのと相手に言わすのでは、全然意味合いが違ってくる のだ。 少なくても最後の責任は押しつける事ができる。 張譲は意図的にその言葉を引き出すように仕向けるのであった。 「まあ、董太后様がどのように考えていらっしゃるか図りかねますが・・・、我ら十常侍と何進大将軍がついてお りますので・・・。」 「そうじゃ、董太后じゃ。」 すると台本通りに何皇后から、董太后の名前が挙がり、意識させる事に成功した。 残すは決定的な言葉を得られるかどうかである。 「しかし、董太后様お一人では、どうする事もできないと思いますが。」 「どうする事もできないと、何故、言い切れる。妾は僅かな心配も取り除いておきたいのじゃ。」 「・・・ですが。畏れ多くも皇族であられる董太后様には・・・」 「何を!妾も皇族じゃ。」 「・・・。」 それでも張譲は言い渋ると、何かを思い出したかのような仕草をし、「そう言えば、王美人様は原因不明の病気で 亡くなられましたな。」と、ゆっくりとした口調で話し始めた。 「おお、そうじゃ。董太后には病気になってもらおう。」 張譲の言葉に何皇后は、手を打って賛同の意を示すのであった。 張譲の思惑に乗せられているとも知らずに・・・。 あくまでも噂だが、王美人が亡くなったとき、何皇后に毒を盛られたという話があった。 張譲はそれを引き合いにし、自分の手を汚さぬ算段に持ち込んだのである。 「そうですか。・・・では、お花見という事で一席、設けられてはいかがですか。」 「おお。手筈は任せる。」 「分かりました。失礼します。」 去り際に何皇后を見た張譲は、もう事成ったと思い有頂天になっている様子に内心ほくそ笑むのであった。 「お義母(かあ)様。お忙しい中、お出でいただいて、大変に嬉しいですわ。」 「白々しい事。」 精一杯の笑顔で話しかけた何皇后の顔は、董太后の一言で引きつる。 が、直ぐに気を取り直すと一枚の書面を渡すのであった。 「何です。」 「読んでいただければ分かります。」 その書面を読んでいた董太后の手が見る間に震え出す。 それは恐怖からでも、怒りからでもなく、驚愕からきた震えであった。 渡された書面にはこう書かれていた。 ただ一言、『劉協皇子』と。 「私にどうしろと言うのです。」 「目の前に盃がございます。・・・後はご自分で考えて下さい。」 何皇后は微笑んで、そう言った。 董太后は目の前の盃に目を落とす。 『これが、あの子の母親、王美人の命を奪った毒酒。』 「どうなさいました、お義母様。折角の美酒が冷めてしまいますよ。」 なかなか手を付けようとしない董太后に、笑顔で催促する何皇后には、人の表情がなかった。 口元は笑っていても目は冷たく、蛇のような視線を送っているのである。 なまじ面立ちが美麗であるが故に、その恐ろしさは倍増される。 「協には手を出さないと約束できますね。」 「ええ。弁の大切な義弟(おとうと)ですから。」 その言葉を聞くと董太后は意を決したのか、目の前の盃に手を添える。 そして、あの若い典軍校尉が涙ながらに訴えた、言葉を思い出すのであった。 『協皇子は、聡明な方です。皇帝の資質も弁皇子よりも遙かに上でございましょう。しかし、このままではその命 は風前の灯火です。董太后様が、もし、漢の未来を憂いでいらっしゃるならば、どうか皇子の命を救って下さい。・ ・・そして、この曹操がお約束します。皇帝となった協皇子は、どのような事をしてでもお守りいたします。』 協皇子が皇帝に・・・。現状では到底に考えられない事であるが、老い先短い自分の命であの子の未来が残される のならば安いもの。 そして、曹操孟徳という青年の言葉を信じてみようと思った董太后は、勢いよくその盃を飲み干すのであった。 それから三日後、董太后の墓前に向かって手を合わせる人物がいた。 典軍校尉・曹操孟徳である。 曹操はその霊前で改めて誓うのであった。 「董太后様、貴方の勇気で漢に希望が残りました。あの約定はこの曹操、一命に変えても守り抜きます。」と。