六.憂国 曹操、夏侯惇、典韋。三人の旅は冀州刺史・王芬(おうふん)の居城に到着した事でひとまず終了した。 ところで三人の目的地であった、ここ冀州では、今、奇妙な緊迫関係が天秤の均衡を保っている。 それは刺史の王芬と牧の韓馥(かんふく)の関係であった。 牧とは刺史に軍事的権力を与えた新しい役職であり、通常であれば刺史がそのまま牧を務める。しかし、ここ冀州 では手違いがあり、朝廷から新たな牧として韓馥が赴任して来たのであった。 当然、王芬はその事に対して、憤りもあったが勅命とあらば致し方がない。刺史の任を解かれ、新たな赴任先へと 赴くのだろうと考えていたが、一向にその沙汰がなかった。 それは韓馥が冀州牧になった経緯と王芬が冀州刺史となった経緯に起因する。 韓馥が冀州牧と成り得たのは、宦官・十常侍の力である。 韓馥は自分の財産・私財を賄賂とし、せっせと十常侍に送った。その甲斐あり、冀州牧という地位を得たのであっ た。 一方、王芬は大将軍・何進と親しく、その一声で冀州刺史に抜擢されたのだ。 十常侍はこれまで自分達に都合のいい人事をしてきており、今回の件についてもろくに下調べもせずに行った結果、 王芬の任を解く事を何進に反対されたのである。 権勢を思うがままとする十常侍とはいえ、天子の外戚であり大将軍である何進への政治的配慮を怠るわけにもいか ず、こうして、冀州には二人の指導者が立つ事になったのであった。 とはいえ、刺史と牧では権限に大きな差がある。 州都は韓馥が根城として、王芬は州都の外れに位置する小さな城へと追いやられた。 通常であれば、ここで両者の間に血生臭い争いが生じるはずだが、王芬の温厚な性格が幸いし、州民を巻き込む惨 事は免れたのであった。 曹操、夏侯惇、典韋の三名はおよそ州刺史の謁見の間とは思えない質素な部屋で待機させられた。 そして、程なく現れた王芬からはありありと怪訝(けげん)な表情が伺い知れる。 それもそうだろう。自分の事を快く思っていない十常侍・蹇碩からの使者とあれば、警戒の念を抱く事は致し方な い。 刺史王芬は、自らの席に腰を下ろすと、まず、遠く洛陽から訪れた使者に対し返礼の辞を述べた。 「曹操殿と申されたか。使者のお勤め、ご苦労でした。・・・しかし、蹇碩殿からとは、一体?」 「さあ、私にも内容は分かりかねます。それと依頼を受けたのは、確かに蹇碩殿からですが、その書は天子様の密 書と聞いています。」 そう言いながらも曹操自身、手紙の内容については疑っていた。 恐らく、いや十中八・九は、蹇碩の私書と睨んでいる。 道中、典韋が曹操を殺した場合、代わって典韋がその役目を務めた筈だが、そうなると名もない武辺者が使者とい う事になる。 いくら密書とはいえ、そこに天子の名を連ねるのは無理が生じる。 しかし、いかなる書面であろうと役目は役目。 曹操は懐にある密書を差し出した。それを従者が受け取ると恭(うやうや)しく王芬に手渡すのであった。 曹操達の目の前で王芬は黙読する。一瞬、読む手が止まり、僅かに表情が曇ったように見受けられたが、全てを読 み終えると従者達に曹操達の歓待の準備を指示した。 準備が終わるまでの間と、曹操達は別室に案内される。 「孟徳、あの手紙は一体、何だったんだ?」 「さあな。幾つかの推測は立てられるが・・・一番に考えられるのは、宦官側への懐柔だが・・・」 曹操にはそれだけではないように思われた。 読み終えた後の王芬の目に、何か迷い以上の動揺を感じたからだ。 あの書面の内容を蹇碩から派遣された典韋は知っているのであろうか? 曹操がそう思って顧みるが、物静かな武人は黙して端座しているのみであった。 『まあいい。この後の宴でそれとなく王芬に探りを入れてみよう。・・・いや、その前にあちらから動いてくるか もしれないがな。』 そして、曹操達のいる別室に宴の案内のための従者が訪れたのであった。 宴は一使者の歓待としては、この質素な城に似つかわしくない程、豪華なものであった。 この派手な饗宴に城に勤める者の中には、首を傾げる人間もいたが、使者である曹操の名を明かされた時には、全 員が納得する。 それ程までに曹操孟徳は若き俊英として、名を馳せているのであった。 疑う事もなければ、久々の馳走を楽しもうと、会場内は甘美な酒の匂いと芳ばしい料理の香りで充満し、盛宴とな る。 そんな中、城の主である王芬が中座した。その際、曹操に何かを含んだ視線を送るのである。 曹操は、その合図を見逃さず、又、ある程度、自分が予想していた展開となった状況を楽しむのであった。 曹操が席を立つと、慌てて夏侯惇も立ち上がろうとするが、それを曹操が制止する。 「惇、必要以上に愛嬌を振りまく事はないが、酒の席で杯を断り続けるのは無粋だぞ。」 夏侯惇は曹操の警護のために、先程から城の者からの酌を拒み続けていたのであった。 「何、俺はお前の・・・」 「少しは典韋を見習ったらどうだ。」 夏侯惇とは対照的に典韋は自分の目の前に大きな酒瓶を置いて、手酌を繰り返している。 「私にとってこの程度の酒など水と一緒ですから。」 「な、この野郎、久しぶりに喋ったと思えば・・・。俺もこの程度の酒では酔いはせん。」 そう言い返す夏侯惇の姿に破顔した曹操は、これからの二人の間で行われるやり取りを想像しながら、王芬の待つ 場所へと向かうのであった。 その王芬を捜して暫くの後、初めに登城した際に待たされた謁見の間に人の気配を感じた。 曹操が覗いてみると、やはり、そこには王芬が一人で佇(たたず)んでいる。 「王芬殿。」 曹操の声に遅れて反応を示した王芬は、ゆっくりと振り返った。 「曹操殿。やはり、来られましたか。」 王芬は、その台詞の後、黙って何も語ろうとしない。曹操もじっくりと相手が語り出すの待った。 相手の慎重さに事の重大性を感じているからだ。 「これをご覧なさい。」 そう言って、王芬が曹操に渡したのは、ここまで届けた蹇碩の密書であった。 「いいのですか?」 自分で言っておいて、下らない事を聞いてしまったと曹操は思う。いいから、差し出しているのである。 興奮なのか緊張なのか。自分が得体の知れない雰囲気に包まれている事を自覚した。 曹操が王芬から密書を受け取り、読みいる。そして、驚きを通り越して、出た言葉は非常に簡素なものであった。 「こんな事が?」 「その反応を見るに、あなたも知らなかったという事ですね。」 「はい。」 曹操は正直に頷く。 この曹操をも驚かせた密書の内容とは、現在の天子、霊帝の暗殺についてであった。 そして、その詳細とはこうである。 今春に霊帝が北方にある旧邸宅へ巡幸する予定があるそうだ。その際に黒山賊からの警護と称して、州軍を大挙派 遣する。州軍に護られる筈の天子は、偽の黒山賊が現れた時に乱戦の中で殺されるという寸法であった。 罪は全て黒山賊に被って貰うのである。 しかし、自分が傀儡(かいらい)としている天子を殺めようとは・・・ ひょっとしたら、十常侍の中でも何かが起こっているのかも知れない。 「こんな、大それた事・・・私に出来るわけがない。・・・いや、それ以前にどうして私なのだ。州軍を動かした いのであれば、州牧を訪れるべきであろう。」 「州牧の韓馥は黄巾の乱の対応から、使えぬと判断したのではないですか。州軍を動かせというのは、暗にあなた に牧の職を与えるという意味ですよ。」 曹操の中で急速に興奮が萎(しぼ)んでいくのが分かった。 王芬への物言いもどこか突き放したものになっている。 「それで、どうなさるんですか?王芬殿。」 「な、私にそんな事が出来るわけがない。」 「しかし、断れば・・・」 そう言って、曹操が振り返るといつの間にか一人の巨漢が、同じ謁見の間に立っているのであった。 その巨漢とは典韋である。 「惇はどうした?」 「私と飲み比べをしましたが、なかなか倒れないので薬を使わせていただきました。・・・命に別状はありません。 今の所は・・・」 典韋が曹操と話しながらも手戟を両手に持って、王芬ににじり寄って行く。 その殺気に気圧されながら、王芬が後ずさりをした。 「曹操殿、彼はあなたの従者ではないのか?」 「いえ、蹇碩が私に付けた暗殺者です。どうやら、私を殺す以外にも仕事を任されていたようですね。」 ひいいと叫ぶと王芬は逃げだそうとしたが、典韋の機敏な動きに行く手を遮られる。 王芬は恐怖で尻餅をつくと、今度はその場から動けなくなった。 「典韋。その男を殺す前に一言、言わせて貰えば、・・・この計画は失敗するよ。」 果たして典韋が曹操の言葉に耳を傾けているのかは疑問だったが、王芬との距離を縮める行為は中断した。 「星に出ているんだよ。北方に陰謀の気があると。恐らく、巡幸は中止だな。」 「では、尚の事。口を封じなければならない。」 「なるほど。それは確かにそうだ。それで、この曹操の口はどうする。」 王芬に向けられていた凄まじい殺気が、今度は曹操に向けられる。 「この男の次にあなたも・・・」 「うん。そうだ。それが理に適っている。しかし、惇の命をすぐにとらなかったのは、どういう事かな。惇の武、 そのものは君に引けを取るもではない。酒で寝ている今が好機の筈だが・・・そこが理に適わない。」 典韋の歯軋りが離れている曹操にもはっきりと聞き取れた。形相は深く険しいものに変わっていくが、殺気は僅か ながらに弱まっている。 「言ってあげようか。それが、どうしてか。・・・君は迷っているのさ、私の命を取る事に。・・・そして、熱望 している。自分の力がこんな暗い所ではなく、明るい太陽の下で発揮される場を・・・」 「そ、そんな事はない。」 声を荒げて、典韋が吠える。その時、隙が生じたのか、王芬が腰を抜かしながらも謁見の間から逃げ出した。 典韋が追おうとするが今度は曹操の殺気が典韋の足を封じ込める。 典韋が改めて曹操の姿を確認し、驚いた。 武器を持たない丸腰の状態で、自分を威嚇するほどの殺気を放つとは・・・ 「あの男は、もう終わりだ。この計画には頼みの何進も一枚噛んでいる筈だ。拠(よりどころ)の失った男には何も 出来ない。」 「・・・どこまで。」 あの殺気といい、この千里眼といい。 驚愕と苛立ちが交錯する。曹操という男の掌で踊っている自分の像が浮かんだ。 何をしても適わない。しかし、それでいて・・・ 「分かった。王芬の事は諦めます。が、この振り上げた手戟はどうすれば?」 「ならば、その戟を私に下ろせ。武でしかものを計れない人間なのであろう。」 これは挑発なのか。それとも丸腰のおいても絶対の自信があるのか。 典韋にとって相対する人物は、全く未知なる人間であった。 『武でしか計れない。』 確かにそうだ。私は今までそうしてきた。しかし、この武(ものさし)に耐えられた人物など今までいない。 李永の時もそうだ。いや、それだけはない。私は逆に罪に着せられた。 そんなつまらない世の中に自暴自棄し、流れ流れ、いつの間にか蹇碩の世話になる事になった。 が、この男は・・・ 「分かりました。では、お命、頂戴!」 曹操との間を一気に詰めた典韋は、渾身の一撃を曹操の脳天へ向けて打ち込む。 その時、生じた激しい風で床の埃が舞い上がった。 が、衝撃音や絶叫、その他の音は風を切り裂く音以外、全く聞こえなかった。 「何故、よけない。」 曹操と典韋の双眸と双眸がぶつかる中、何と手戟は曹操の脳天の紙一重の所で止まっているのだ。 「いや、逆に何故振り下ろさない。」 曹操がそう問い返した時に典韋は手戟を床に投げ捨ててしまった。 「はははは。武でも計れぬものが世の中にあるとは。」 「なあ、典韋。もう、多くを語る必要はないだろう。私の部下になれ。」 そう言うと曹操は典韋の前に手を差し伸べた。 「勿論。武で計れないものは、この典韋の命を賭して計るしかありません。あなたが嫌だといっても付いていきま すよ。」 典韋が曹操の手を取り額に当てた。ここに変わらぬ忠誠を誓ったのだ。 その時、宴を催していた会場からの笑い声がこの謁見の間まで届いた。 もう、主の王芬がいないというのに呑気なものだと思いながら、二人は微笑みを交わすのであった。 「よし。では飲み直すか。」 「そう致しましょう。」 こうして、曹操は代え難き豪傑・典韋を得るのであった。 「曹操様、一つ質問が。」 「何だ?」 「王芬との会話の中、途中から、あなたの気質が変わったように感じたのですが。」 「ああ、あれか。」 戻った二人は、互いに杯を重ね合っている。そんな中、曹操は手にしていた杯を机の上に置いた。 「王芬の噂を聞いていて、自分の誇りを捨ててまで勅に従ったと聞いていたから、それなりの人物だと思っていた。 ・・・が、あの密書を見た後、天子の事は一言も言わず、自分について終始していた。それに失望したのよ。」 「憂国の士ではなかったと?」 「そういう事だ。」 「憂国の士。果たして、今の中華にどれ程残っているのだろうか。」 曹操は、そう言うと再び、杯を手にするのであった。