五.人狼の野望 
  

  中華・西北の地、涼州。『漢』の御旗を掲げた三軍がこの地に現れたのは、秋も終わりかけ、冬将軍の到来を指折
 り数える頃であった。 
  南、江南の出自である孫堅及びその旗下の兵にとって、この寒さは反乱を起こした韓遂、辺章以上に手強い敵であ
 った。 
  一方、孫堅と共に討伐の軍に加わっている董卓軍は涼州の気候にも平然としている。 
  それもそのはずで、董卓は涼州・隴西(ろうせい)群の生まれで、その部下も同じく涼州出身の者ばかりであったか
 らだ。 
  そもそも董卓がこの反乱討伐に招かれたのは、そういった背景があったからである。 
 初め総大将の皇甫嵩も董卓については、単なる道案内程度にしか考えて折らず、頼みは黄巾討伐で名を馳せた天才軍
 略家の孫堅文台と思っていた。 
  しかし、涼州に近づくにつれ機敏になる董卓の軍。そして、思いの他、多数の兵を抱えている事で何かと董卓に相
 談する機会が増えていくのである。 
  口の悪い孫堅兵からは、『顔の皮が分厚いから寒さを感じないんだ。』などという陰口が上がる。孫堅にもその声
 は人伝に届くが、董卓の人と成りから本当にそうかもしれないと真剣に考えるのであった。 
  片方が悪く思えば、それは相手に伝わり移るものである。 
  董卓の方でも孫堅の事を面白く思っていない。役職から言えば、数段、格下の若僧と同等に扱われているからであ
 る。 
  しかも董卓には虫酸が走る妙な正義感を振りかざすからであった。 
  しかし、戦となれば流石に孫堅は自制できる。董卓を立てながら戦局を見事動かし、二月もする頃には、反乱のほ
 とんどを収めるのである。 
  そして、辺章の首級を董卓軍、随一の猛将・華雄(かゆう)が上げる事によって、乱は終結した。 
  中央はこの功に報いるために皇甫嵩には、そのまま涼州の州牧を董卓には?州牧、孫堅には長沙(ちょうさ)の太守
 に任じた。 
  遠征としては短い期間で済んだ事から、孫堅軍は意気揚々と陣払いを始める。 
  この討伐軍はここで解散であるから、孫堅は総大将である皇甫嵩の元に挨拶に向かった。 
  その途中、董卓の陣の前を通ったが、そこで不思議な光景を目の当たりにする。 
  皇甫嵩の兵はこのまま涼州に滞在するが董卓の兵は?州に向かわなければならない。孫堅軍と同様に陣払いをして
 いなければならないはずだが、そんな気配が全くない。 
  それどころかまだ戦が続いているような殺気が立ちこめているのだ。 
  不審に思い立ち止まっている孫堅に話しかけてくる人物がいた。董卓軍の軍師を務める李需(りじゅ)であった。
  董卓の女婿(じょせい)であり、董卓が最も頼りとする参謀である。 
  その面立ちは根暗な印象を与え、腹の底が全く読めない。孫堅としてはあまり好きになれない人物であった。最も
 董卓に与する人間は一様に好きになれない孫堅ではあったが・・・ 
  「これはこれは孫堅殿。我が陣に何か。」 
  「いや、董卓殿は?州牧に就かれと聞いたが、出立はいつなさる予定か?」 
  孫堅の言葉に李需はにやりと笑う。 
  嫌な笑いだ。それと同時に孫堅の中で警鐘が激しく鳴った。 
  「我が殿は、名将軍・皇甫嵩殿の元で学ぶ事がまだ多く、州牧の地位を蹴られて後学のためにこの地に残る事にい
 たしました。」 
  孫堅は走り出していた。あの董卓が殊勝にもそんな事を言い出すわけがない。何か必ず裏があるはずだ。 
  それを確かめるために、皇甫嵩に会わなければならない。李需の話では、董卓も今皇甫嵩に面会している。 
  しかし・・・ 
  「おお、この仲頴(ちゅうえい)が、儂を見習いたいと言って、儂の前で朝廷の使者に泣いて懇願したのよ。なかな
 か見込みのある奴よ。」 
  「将軍の将帥ぶり、采配、まだまだこの董卓の及ぶ所ではございません。将軍の身近に置いていただき、僅かでも
 将軍に近づきたいと思います。」 
  「はっはっは。そうか。」 
  孫堅は駄目だと思った。董卓の真意は図りかねるが、皇甫嵩は完全に董卓を信用しきっている。何を言っても無駄
 であろう。 
  「そうですか。できれば私も残りたいのですが、我が軍はこの寒さになれておりません。また、いつまでもこの地
 に大軍が残っている訳にもいかないと思いますので、惜別の情を断って、失礼いたします。」 
  それだけ言うと孫堅は自陣へと急いだ。嫌な予感がどんどん増幅していく。 
  孫堅軍はその日の内に涼州の地を離れるのであった。 
  「董卓は何を考えているのでしょうか?」 
  「さあな。」 
  荊州の長沙に向かう凱旋の途中で、程普が孫堅にそう尋ねる。しかし、分からない事を理屈をこねて説明する孫堅
 ではないので、あっさりと首を振るのであった。 
  涼州に残って得する事は何か? 
  それは孫堅にも分かっている。しかし、それをするためには・・・ 
  「おい、あれは何だ。」 
  孫堅が思考の途中で声を上げた。孫堅軍が進行する先に漢の御旗を掲げた一団が現れたからだ。しかも檻車を引い
 ている。 
  早速、韓当がその一団の元に向かった。程なく戻ってきた韓当の報告では、都からの勅使であるそうだ。 
  では、あの檻車は何のためにあるのかと尋ねると、それは言えないと言う。 
  孫堅はその返事に深い思考を張り巡らせると一つの答えに到着した。 
  この答えが間違いでなければ、孫堅軍にも危機が訪れる事になる。孫堅はあまり使いたくないが、有効な手段をと
 った。 
  砂金の入った小袋をその一団の責任者に掴ませたのだ。 
  この効果はてきめんで、その責任者から孫堅の望む答えを聞きだした。 
  孫堅旗下の四天王はその答えに大きく驚いたが、孫堅は深く頷くのであった。 
  「やはり、それは皇甫嵩将軍を捉えるものか。しかも、軍費の横領とは・・・」 
  確かに皇甫嵩将軍は功名心は高い。金欲もあるだろう。だが、今回の遠征は長期戦を睨んだものではない。 
  私腹を肥やす程の財力を得る事は出来ないだろう。 
  「本当に皇甫嵩将軍が?」 
  「いや、やっていないな。」 
  程普の質問に孫堅は即答した。 
  「では、どうしてこのような事に?」 
  「第一、皇甫嵩将軍は何進大将軍に次ぐ実力者ですよ。こんな事が・・・」 
  祖茂と韓当が矢継ぎ早に孫堅に質問を浴びせる。孫堅は一笑に付して、遠くを見つめるのであった。 
  「我々、武官は天子様に尽くしても、大事にされるのは戦に必要なときだけ、竹簡一つで・・・」 
  「殿?」 
  孫堅の言葉の響きに哀しみを酌み取った黄蓋が心配になって声を掛けた。が、すぐにいつもの孫堅に戻る。 
  「今、朝廷においての実力者は何進将軍ではなく、十常侍。その十常侍を董卓が動かしたのよ。」 
  四天王は戦慄を覚える。十常侍の実力というのは知っていた。いや、知っているつもりだったのだろう。 
  武官の実力者、しかも黄巾、涼州の乱の功労者を簡単に更迭できるものなのか。 
  「徳謀、全軍に速度を速めるように伝えろ。」 
  四天王がそれぞれに驚愕している中、孫堅は軍の指令を発した。 
  その途端、四天王は機能を発揮し、各自の持ち場に戻る。 
  孫堅の命令の意図は分からないが、必ず何かがあるはずである。これまでがそうであったように。 
  それを信じる気持ちはいつまでも変わらない。 
  そして、その一刻後に孫堅が進行を早めた理由が分かった。 
  孫堅軍の後方に大量の砂埃が立ちこめている。明らかに大軍が孫堅軍を追いかけてきたのだ。 
  これが勅使から話を聞いたときに孫堅が感じた危機であった。 
  「あれは?」 
  「董卓が使わしたのさ。どさくさに紛れて俺達も消そうって訳だ。」 
  「消そうって、そんな簡単に。」 
  「大丈夫。どさくさに紛れてって言っただろ。あまり、派手に追跡は出来ない。あの州境を越えるとあいつらも諦
 めるさ。」 
  孫堅が示す州境とは、直ぐそこまで来ている。 
  「よし、もういいだろう。弛めるぞ。」 
  州境の直前で孫堅は新たに指令を出した。 
  「殿、追いつかれますよ。」 
  「いや、追いつかれてもここでは、もう仕掛けてこない。それなら、追ってきた奴の面でも拝んでみよう。」 
  孫堅の悪い癖、悪戯心がうずきだしたのか。こんな所は、海賊狩りをしていた頃と変わらない。 
  孫堅軍が僅かに州境を越えた頃、董卓の追っ手は追いついた。そして、その指揮する者を見てみると何と、董卓軍
 随一の武将・華雄であった。 
  「おお、田舎の一太守の首を取るのに、こんな勇将を使わしたのか。」 
  「孫堅。その余裕面もここまでだぞ。」 
  「へぇー、こんな所で仕掛けるのかい。」 
  華雄は得意の薙刀を握って、もの凄い形相で孫堅を睨み付ける。今にも軍を動かしそうな雰囲気を漂わせている。
  しかし、孫堅の余裕の顔が崩れる事はなかった。 
  華雄の後ろにもう一人、董卓が抱える知将の姿を認めているからだ。 
  「何をおっしゃいます、孫堅殿。我らは、勇者・孫堅殿の見送りに参っただけですぞ。」 
  「見送りにしては物々しいな。李需殿。」 
  「いや、我らは野蛮な江南の気風に合わせただけですよ。」 
  李需には分かっている。もう、董卓が画策した策が頓挫した事を。ならばと、腹立たしさを紛らわすために孫堅を
 辱める台詞を吐いた。 
  が、孫堅はそんな事では動じない。 
  「まあ、そういう事なら、ありがたく。お見送りかたじけないと言っておこうか。」 
 孫 堅旗下の四天王は、李需の言葉に我慢ならないといった感じだが、ここで孫堅の方から仕掛けては、意味がなく
 なってしまう。 
  孫堅は無言で抑えるように伝えた。 
  「それでは見送りのお礼といっては何だが、董卓殿に忠告しておこう。涼州の地、確かに中央の目の届かぬ所で、
 涼州の馬術に長けた強兵を鍛えるのは董卓殿の野望を満たすのに最適の地と言えよう。地の利、人の和は手に入れた。
 しかし、この地では天の時を手に入れる事は難しい。いや、この孫堅が絶対に与えない。」 
  「・・・伝えて置きましょう。それでは。」 
  二人の対話はそれで終わり、両軍の対峙も同時に終わった。 
  去り際に華雄の炎のように燃えたぎった双眸が印象的だった。それと対照的に暗い李需の表情が一層に深刻になっ
 ていた。 
  孫堅の言う通り、都に急変があったとき、この地はあまりにも遠すぎる。 
  李需の読みでは今すぐ、その時が来るとは思っていなかったが、ある意味賭けに近い部分もあったのだ。 
  一方、別れた後の孫堅にも李需に見せた小憎たらしい表情は消えていた。 
  天の時を与えないとは言ったものの、他の誰かが与えてしまったとき・・・ 
  董卓に力をつけさせるのは危険なのだ。 
  「まあ、その時はその時か。俺が止めりゃいいんだろ。」 
  孫堅には分かっている。人の考え、人知を超えた所で世の中は動いてる。こんな所で思い悩んでも仕方がないのだ。
  孫堅の気持ちは完全に切り替わり、新しい赴任地の長沙に心は向いていた。       
 


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