四.鉄槌 
  

  傲岸(ごうがん)が服を着て歩く。いや、この場合は酒を飲む。劉備の身代わりとなった簡雍の隣りに座る督郵
 (とくゆう)は、まさにそういった男であった。 
  都から遠路やって来た督郵をもてなすために開かれた一席であるが、肝心の男は、宴もそこそこに席を立っていっ
 た。 
  すかさず関羽が劉備に酒を注ぐのを装って、耳打ちをする。 
  「明らかに不満を顔に出してましたね。」 
  「ああ、座る席の下に金が置いてあるとでも思っていたんじゃないか。」 
  「そんな感じでした。」 
  別に劉備にも関羽にも督郵のご機嫌を取ろうなどという気は更々ないので、互いに笑いを含んだ会話となる。
  生真面目な簡雍だけは、その状況を心配していたが、賄賂という点に関しては同意見なので何も出来ない。 
  そして、時間は主賓を欠いたまま進んでいく事になる。 
  質素な村で料理の質からいけば、都のものから数段落ちるが、酒の量だけは豊富で宴も酣(たけなわ)となった頃に
 は、半数近くが酔いつぶれる事になった。 
  しかも劉備の直臣ばかりのようだ。 
  都の連中は酒豪揃いかと劉備が周りを確認する。が、どうやら都からの連中は、一人として会場には残っていなか
 った。 
  「どこ行きやがった。連中は?」 
  「督郵が席を立ってから、間もなく全員がいなくなりましたよ。」 
  頬を染まらせて、簡雍がやって来た。途中から、張飛に酒を付き合わされていたのだが、やっと開放されたようで
 ある。しかし、相当な量を飲まされたのだろう。足下がおぼつかない。 
  それでも、冷静に受け答えをしようというところは、如何にも簡雍らしい。 
  「余程、つまらなかったのか。・・・それとも・・。」 
  劉備の言葉が途中で途切れたのは、突然、宴席に一人の男が駆け込んできたからだ。この男は、村の長老に雇われ
 ている使用人の一人であった。 
  「・・・それとも、別に面白い事があったかだな。」 
  その使用人は劉備の姿を認めると、真っ先に駆けつけてきた。 
  「・・劉備・様、・・お助け下さい。」 
  「いかがした?」 
  すかさず劉備の元に関羽、張飛が集まり、その関羽が使用人に問いただした。 
  「どうした、早く言いやがれ。」 
  懸命に走ってきたのだろう。息を整えながらなので、なかなか本題に進めない。業を煮やした張飛が、そう、怒鳴
 る。 
  劉備がすうっと自分の手にしていた杯を差し出す。中味は酒であるが、喉を潤すには事足りるだろう。 
  「有り難うございます。」 
  ようやく一息吐いた使用人は、いきなり劉備の前で平伏し、「助けて下さい。」と連呼するのみである。 
  「だから、それだけじゃあ、分かんねぇだろ。詳しく言ってみな。」 
  「はい。実は都から督郵様が我が家をご訪問下さったのですが・・・。」 
  「ああ、そう言えば、桔花の奴がそんな事言っていたな。」 
  「その桔花様の一大事なんです。桔花様が給仕なさっていた折り、その督郵様に見初められまして・・・無理矢理、
 奥座敷の方に連れられていったのです。」 
  劉備は顎に手を当てながら考え込んだ。その劉備を挟む形で侍立していた関羽と張飛は顔を見合わせる。 
  「初めは、お酒の酌をさせられているだけなので、ご主人様も何も言えなかったのですが。遂に人払いをお命じに
 なりまして。」 
  「長兄。これは急ぎませぬと。」 
  関羽の問いには瞑想で直ぐには答えず、刮目すると優しい表情を使用人に向けた。 
  「ああ。ご苦労だったな。後は任せな。」 
  劉備は冷静に立ち上がった。外見からは普段と変わらぬように見えるが、冷静に努める仕草が一番の怒りを表して
 いる時だと付き合いの長い義兄弟達は知っている。 
  「兵は出せません。我らだけで向かいましょう。」 
  「あの好色爺。俺様がその細首、へし折ってやる。」 
  二人は早速、馬の準備へと向かった。一方、劉備は簡雍に残るように命じる。 
  「簡雍。お前は官舎の様子を見ててくれ。そこまで発展させないつもりだが、万が一の時は、都からの警備兵の動
 きを抑えるんだ。」 
  簡雍は二つ返事で答え、主だったものをつれて宴会場を後にする。そこに張飛がやって来て、準備が出来た事を告
 げる。 
  「雲長、益徳。急ぐぞ。」 
  劉備、関羽、張飛は闇夜の中、長老の屋敷へと疾走する。 
   
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
    督郵の脂ぎった顔が奥で怯えている桔花を捕らえて放さない。   「お主らは、早く下がれ。」   手の甲を二回振って、家の者を下がらせようとするが、容易に納得できる話ではない。長老は、平伏しながらも譲  れないと頑と動こうとしなかった。   「督郵様、桔花は当家の愛嬢。婚礼を望まれるのであれば、日を改めまして・・・」   「誰が婚礼と言った。」   人を人とも思わない振る舞いで、督郵は嘲(あざけ)るようにそう言った。完全なる侮辱であり、長老は怒りに打ち  震える。   接待を受けた家の息女を遊女と同じく考えているのである。   しかし、督郵の背後にある漢の御旗が長老の重しとなり、この無礼者に鉄槌を打つ事が出来ないのだ。   無駄に時間を費やし督郵の気が変わるのを待つしかないのであろうか。   長老は何とかこの場を凌(しの)ぐ策を考えるが、良案など出ては来ない。   「ならば、力尽くで下がらせるぞ。」   「お持ち下さい。桔花には既に想い人がおりまする。どうか・・・」   「想い人?」   督郵の言葉は問いではない。否定を命じる言葉であった。が、桔花は震えながらも頷くのである。   督郵は一つ舌打ちした後、声を荒げて息巻いた。   「誰じゃ、そいつは。ここに連れて参れ。儂が斬ってやる。」   この男には何を言っても駄目なのだろう。長老は途方に暮れる。   もはやこれまで。こうなればこの老骨の命を差し出してと考えていた矢先に、この奥座敷の扉が勢いよく開けられ  た。   「お前なんかに人を斬れるかよ。」   「劉備様。」   長老と桔花から同じ言葉が洩れる。桔花は督郵の手から劉備の足下に逃れてきた。   「安心しな。もう大丈夫だ。」   「劉備様。」   劉備は桔花の手を握り見つめる。そして、返す刀で督郵を睨み付けた。督郵はその勢いに飲まれたかんがあるが、  何か不自然な事に気付く。   「お主が劉備だと。では、儂を謀っておったのか。」   簡雍を身代わりに立てていた事を言っているのだろう。劉備はそんな事、すっかり忘れていたのだが・・・   「だからどうだって言うんだ。」   「重罪だぞ。都の監査を謀ったのだからな。」   いつの間にか劉備の後ろに数十人の人影が出来た。督郵が連れてきた警備の者だろう。督郵は勝ち誇った顔をする。   しかし、劉備も不適な笑みを崩さない。   「重罪ってんなら、今更、罪が一つ二つ増えても関係ねぇな。」   劉備はそう言うと白刃を閃かせる。雌雄一対の剣は簡雍に渡してあるので、これは簡雍の剣であった。   「馬鹿が。都の裁可を仰ぐまでもない。お主の首をここで取ってやる。」   督郵の合図とともに警備の者が一斉に襲いかかる。が、その刃は劉備には遙か届かない。   物陰に隠れていた義弟の関羽と張飛が事もなく警備、数十名を斬り伏せたのである。   「お前には出来ねぇって言っただろう。」   振り返らずとも結果を知っている劉備である。刃を突きつけたまま、一歩ずつ督郵へと近づいて行った。   勝者が敗者へと転落した瞬間、下卑た笑いは卑屈な笑いへと変わる。   「待て。いや、待ってくれ。都に上申して、お主を太守にしてやる。」   脂ぎった顔は青ざめ、懇願する様は漢の威信を笠に着ていた時の面影がなくなっている。   劉備は嘆息するとその刃を鞘に収めた。   「おお、かたじけない、劉備殿。」   擦り寄る督郵の頬を剣の柄で殴打すると劉備は、長老と桔花を振り返った。   「すまねぇ。おいら、こんな奴ら共に中央を任せられない。今夜でお別れだ。」   「劉備様。申し訳ありません。」   桔花は何も言わなかったが、長老が涙ぐみながら劉備に礼をする。勿論、都からの使者に手を出したのだ。   劉備とは今宵が最後の別れとなる事は言うもでもないのだが。立ち去る理由が別にあると言ってくれる気遣いが嬉  しかった。   「おい。命を助けるのは、この役職に推挙してくれた曹操殿の顔を立てだ。その変わり、この屋敷の敷居を二度と  跨ぐんじゃねぇぞ。」   もんどり打って倒れている督郵に劉備は凄みを見せた。そして、その督郵を囲むようにして関羽と張飛が立ち。同  じく睨め付ける。   督郵は鼻と口元から血を噴き出しながら、何度も頷いてみせる。   「よし、じゃあ、行きな。」   その言葉と同時に四つん這いになりながら、督郵はその場を逃げ出した。   関羽と張飛はその姿に笑いを噛み殺す。   「じゃあ。おいら達も行くよ。短い間だったが世話になったな。」   「劉備様、これでお別れなのですね。」   「ああ。好きな奴と一緒になって、幸せになるんだぜ。」   「最後まで、そうなんですね。」   桔花は諦めを通り越して、笑顔で劉備と話す。どのみち、こんな村に留まっている男ではないのは分かっていた事  なのだ。   「長老、桔花。この地でおいらの活躍に耳を傾けていてくれ。お前達の事は忘れない。」   二人が見送る中、劉備は関羽と張飛を伴って屋敷を去る。劉備達の姿が消えると桔花は長老の腕の中で肩を震わせ  た。   「桔花よ。あの人は竜だ。竜は大海にいてこその竜。この村は狭すぎる。」   「分かっています。分かっています。」   泣きじゃくる孫娘にそれ以上かける言葉はなかった。胸の内ではこの老人も熱い涙を流していたのだから。   今は一時の休息として、神が彼に与えた地がこの村であった事を感謝するだけであった。

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