三.新任県尉 
  

  中山府安喜県(ちゅうざんふあんきけん)に若い県尉が赴任して一月の歳月が流れようとしていた。 
  この県尉は村人達から、変わり者という目で見られていたが、決して忌(い)み嫌われているわけではなく、むしろ
 好感を持たれており、世話好きの長老からは自分の孫娘との縁談をしこいくらいに勧められていた。 
  剛胆でならした県尉もこれにはほとほと困り果てたが、彼の義弟達は面白がって助けてはくれない。頼る者のない
 県尉は長老が現れる度に県尉府から姿を隠すという毎日を送っていたのである。 
  しかし、今日の県尉府の様子は、いつもと少し違っていた。 
  「劉備殿。」 
  不意に声をかけられて、劉備は驚くと同時に背筋を伸ばし嫌な予感を募らせる。 
  劉備が恐る恐る振り返ると、やはり、そこには村の長老が立っていた。『また、あの話か。』と、内心閉口してい
 るといつもと様子が違う事に気付いた。 
  そもそも、この老人が登場するときはもっと派手で、近づく大きな話し声で劉備は事前に察知し、姿を隠す事が出
 来ていたのだが、今日は接近に全く気付かなかった。 
  それだけでもおかいしいのに、それ以上に変なのは老人の顔が打ち沈んでいるのだ。 
  「どうしたい?」 
  その劉備の声が届かぬうちに長老は床に平伏した。側にいた関羽、張飛も何事が起きたかと戸惑う。 
  そのまま、動向を伺っていると重たい口調で長老が話し出した。 
  「すまない。劉備殿。桔花(きっか)との縁談はなかった事にしてくだされ。」 
  なかったも何も最初から、そんな話ではないだろうと思いながらも劉備が口にしたのは別の言葉であった。 
  「へぇー、そいつは残念だが。何があったい?」 
  「それが桔花の奴。今まで隠していたが別に想い人がいると。今度、その人を連れてくるから、会って欲しい言い
 出しまして。」 
  「ちっ。」 
  どこからともなく舌打ちが聞こえる。劉備が目線で追うと張飛にぶつかった。 
  こんな辺鄙(へんぴ)な片田舎、娯楽などというものはなく。楽しみと言えば酒を飲む事、仲間内で博打(ばくち)を
 打つ事など指折り数えて片手も満たない。 
  劉備とこの老人のやり取り、特に劉備の困った顔を見る事は張飛にとって痛快な楽しみであった。それがなくなる
 となり、思わずの舌打ちが出たのであった。 
  しかし、流石にまずいと思ったのか張飛はそっぽを向いて、ごまかした。 
  その仕草に笑ってしまった劉備は話を本題に戻して、「分かったよ。縁がなかったな。」と、長老に告げて帰した。
  うるさかった人間もいなくなり、ほっと一息吐いているところに入れ替わって簡雍が入室して来た。 
  「劉備様、郡から督郵(とくゆう)が視察に来るそうです。」 
  その言葉に劉備は明らかに嫌な顔を示した。中央の高官、又はその権力を笠に着る輩とは、どうも合わない。 
  中には曹操や孫堅のように気の合う男もいる事はいたが、あいつらは特別だろうと劉備は思っている。 
  「兄者、どちらに行かれるのですか。」 
  「散歩だよ。」 
  「これから、督郵が来られるんですよ。」 
  関羽の質問の後に簡雍が声を一段高くしながら、そう言った。一方、劉備は悪戯っ子のような笑顔を見せると、
 「簡雍、督郵が帰るまでお前が劉備玄徳だ。任せたぜ。」 
  「何をおっしゃるんですか。」 
  しかし、劉備は一目散に県尉府を後にする。それを見送った簡雍は深い溜息を洩らすのであった。 
  「長兄がああ言うんだ。仕方ない、出迎えの準備をしよう。」 
  関羽に促され、簡雍は力無く頷いた。 
  「そうだぜ。劉備様。」 
  張飛がわざと大業に簡雍に礼を取ると簡雍は再び溜息を洩らすのであった。 
  一方、面倒な事を簡雍に任せ、気が楽になった劉備は口笛などを吹きながら、近くの麦畑、そのあぜ道を歩いてい
 た。 
  「これは劉備様、お出かけですか?」 
  畑で作業を行っていた農夫が劉備に話し掛けてきた。田舎の県尉とはいえ、立派な役人である。その者に対して、
 一介の農夫がこうも気軽に話し掛ける光景などよその村では考えられないがこの安喜県では違う。 
  就任して間もないのだが、すっかり劉備の人柄が浸透している結果であった。 
  「ただの散歩だよ。」 
  「何か偉い役人様がお見えになると聞きましたが。」 
  「ああ、そうだ。おいらの名は暫く、簡雍だから。間違えないように。」 
  農夫は首を傾げながら、劉備の後ろ姿を見送った。 
  劉備はそのまま歩き続け、農作業を行う人々に挨拶をしていった。皆、作業の中断を余儀なくされるのだが、嫌な
 顔をせずに逆に喜んで会話に応じてくる。 
  「おい、そんなに腰を使っちゃ、夜までもたねぇぞ。」 
  劉備が声をかけたのは、新婚の若者にであった。若者は照れたように頭を掻いた。 
  「劉備様、下品ですよ。」 
  不意に土手の方から声が掛かり、そちらを覗くと一人の少女が腰を下ろしていた。それは長老の所の孫娘、桔花で
 ある。 
  長老が自慢するだけあって、その器量はこんな田舎にはそぐわない程の美しさがあった。 
  「おう、桔花か。」 
  劉備は歩くのを止め、桔花の横に座る。 
  「おい、好きな男がいるらしいな。一体、どんな奴だ。」 
  「劉備様には関係ありませんから。」 
  「そりゃ、そうだな。」 
  桔花の返事が素っ気ないので、劉備は続く言葉を考えていた。しかし、以外である。自分の好きな人の事を話すと
 きは、もっと嬉しそうにするものではないのか。 
  照れているのだろうかなどと劉備が思っていると桔花の怒ったような視線にぶつかった。 
  「劉備様は、こんな片田舎ではなく。いずれは洛陽に出て行かれるんですよね。」 
  「洛陽かどうかは分かんねぇけど、天下には出るつもりだ。黄巾の乱が終わったにせよ、乱れた世が治まったわけ
 じゃねぇからな。」 
  先程の視線で正視できなかった劉備には気付かなかったが俯(うつむ)いた桔花の瞳に暗い影がともる。しかし、一
 瞬の出来事で再び顔を上げたときには、努めて明るい声が返ってきた。 
  「でも、都にも優れた人達が沢山いますよ。」 
  「ああ、こいつなら、今の天子様に代わってもいいんじゃねぇかってのは、二人いる。」 
  「へぇー。劉備様がそんなに認める人物って、どんな人ですか。」 
  桔花の声質が明るく変わったので劉備は安心し、その口が滑(なめ)らかになる。 
  劉備は遠く離れた、二人の親友の姿を思い浮かべた。 
  「一人は宦官の孫。そんで、もう一人は海賊狩りの名人だ。」 
  「えー、そんな人達が本当に凄いんですか?」 
  桔花の不審な表情に劉備はむきになって反論する。 
  「凄いなんてもんじゃねぇよ。おいらより、頭も良いし力も強い。戦の駆け引きも上手いしな。」 
  「じゃあ、劉備様には、そのお二方に優る所は一つもないの。」 
  「うん?・・そうだな。」 
  劉備が空を見上げながら考える。その横顔を桔花は思い詰めるようにじっと見つめた。 
  桔花はその横顔に何かを言いかけようとするが躊躇(ちゅうちょ)してしまう。時がわずかに過ぎ、雲の形が変わっ
 たとき、意を決して口を開きかけた。 
  が、突然、劉備の言葉がそれを遮った。 
  「おいらにはないな。」 
  「・・そうですか。」 
  劉備の返答、いや、それ以前に自分自身にがっかりした桔花は、ただ、そう呟く。 
  「でもな。おいらには関羽、張飛がいる。簡雍だっている。おいらの周りの人間がおいらの未熟な所を補ってくれ
 るんだ。それで、あの二人と肩を並べる事ができる。」 
  「関羽様、張飛様はお強そうですものね。簡雍様も賢そうですし。」 
  「ああ、あいつらに見捨てられたら、おいらはお終いさ。だから、そうならないようにおいらは成長していく。」
  桔花はこの時、劉備の人を魅了する何かに触れたような気がした。そして、初め劉備が自分の事を無能のように言
 った言葉が、実は素晴らしい言葉だと気付く。 
  「そうですね。人は一人では生きていけない。必ず誰かの助けを必要とします。でも、それに溺れちゃいけないん
 ですよ。」 
  「自慢じゃないが、おいらはこれからも人の助けを必要とする。桔花もこんなおいらを助けてくれ。」 
  複雑な想いがあったが気持ちを落ち着かせ、元気を取り戻した桔花は劉備をおいて立ち上がると、「私が劉備様の
 役に立てるとしたら、伽(とぎ)の世話かしら。」 
  舌を出して、そう言うのであった。 
  劉備が珍しく顔を赤らめる。 
  「子供が馬鹿な事を言うんじゃねぇ。」 
  「もう、子供ではありませんよ。」 
  桔花はそそくさと土手を降りると劉備に向き直り、「今夜は郡から偉い役人様が我が家を訪れる事になってます。
 その支度がありますので、これで。」 
  「ああ。」 
  桔花を見送りながら、辺りを見回すと薄く夕焼けが滲みだしている事に気付いた。 
  随分と話し込んだもんだと思いながら、劉備も県尉府への帰路に就いた。 
  途中、そう言えば結局、桔花の想い人とは誰なのだろうと聞けなかった事を思い出すが、今更、引き返して聞く事
 でもない。 
  そんな劉備の頭上で一羽の烏(からす)が鳴いた。 
  「おい、変な鳴き声じゃねぇか。」 
  劉備は、一旦、立ち止まるかそのまま歩き出すのであった。   
  


戻る       次ページへ       TOPへ