二.林道にて 「曹操、曹操。」 無粋な大声が凛(りん)と静寂であった温徳殿の調和をかき乱す。 天子周辺の警護にあたっていた曹操は浮かびかけていた詩想が泡と消えた事に溜息を洩らす。又、付き従っていた 夏侯惇は、またかといった感じでうんざりした表情を見せる。 振り向かずとも二人には声の主が分かっていた。 曹操の上司、上軍校尉の蹇碩である。 「何事ですか、蹇碩殿。」 「何事ですかではない。お主に頼みたい事がある。」 『ほら、きなすった。』 夏侯惇は、蹇碩に見つからぬように肩を竦めてみせた。 曹操が典軍校尉となって一月足らずの間に蹇碩が曹操の前に現れたのは、実に十回以上。およそ、三日に一回の割 合で難癖をつけに来る事になる。 それら全てに対策を講じる曹操も凄いが、それだけ人を陥れる事を考えつく蹇碩はもっと凄い。 「曹操よ。実は陛下から密書を御預かりしてな。こちらを冀州の王芬(おうふん)殿に届けて欲しいのだ。」 「そんな小間使い。典軍校尉が行う執務か。」 夏侯惇が溜まらず声を張り上げた。これは自分の上官の更に上役に対しての事であり、その場で首を切られても仕 方のない行為であった。 しかし、蹇碩はにやりと笑い、「私の命じる仕事が典軍校尉の職務である。」と応えるのであった。 その雰囲気には普段とは違う余裕が感じられ、何か得体の知れない秘中の策がある事が容易に想像できる。 「途中、人喰い虎が住むと言われている林を抜けなければならないが・・・」 ゆっくりとした口調で、曹操の反応を楽しみながら発言している。やはり、何かあるのだろう。分かり易い性格で ある。 「・・・しかし、そんなそなたに心強い助っ人を用意した。」 蹇碩がそう言うと、容貌魁偉の見事な偉丈夫が現れた。身の丈はそれ程大きくはないが上半身の体躯が素晴らしく、 怪力の持ち主である事は一目で分かる。 「この者、名を典韋(てんい)と言う。自分の村で李永(りえい)という者を殺してな。罪人となっていた所を救って やったのよ。」 ようは自分が用意した刺客ですよと高らかに宣言しているのである。しかし、そんな事で動じる曹操ではない。 「分かりました。それでは早速、向かいましょう。」 「おい孟徳。まさかこの得体の知れない男と二人きりで向かう気ではあるまいな。」 「そのつもりだ。都の警備にあたる兵を割く事は出来ない。」 「はっはっはっ。流石は曹操、よく分かっている。・・・だが、もし二人では不安というのであれば、十人ぐらい 従者を付けても構わんぞ。何と言ってもどこで事故に遭うか分からないからな。」 この典韋という人物の力を推し量るに、十人程度の首ならばわけなく取れるという事か。 本気を出せば、どれだけの首を取れるのか。百人、いや、ひょっとしたらもっと大きな数字の人数を相手に出来る のかもしれない。 笑顔の裏で、曹操は抜け目無く計算をする。 「分かりました。・・しかし、十名も割くわけにはいきませんので、この夏侯惇を従者として連れて行きたいと思 います。」 そう言われた夏侯惇は早くも典韋を睨み付け、曹操には一歩も近づけないという意思表示を示した。 一方、典韋は表情を変えずに軽く受け流す。 両者に走る緊張感の狭間で、曹操は冷静に蹇碩に別れを告げた。 「では、行って参ります。」 「気をつけてな。」 空々しい挨拶はお互い様だ。短い言葉の中にもそれぞれの思惑が交差する。 そして、翌日、旅の準備を整えて三人は洛陽を後にした。* * * * * * * * * * * *冀州に向かっての旅も十日過ぎ、いよいよ蹇碩の言う山林へと差し掛かった。道中、それらしき動きを典韋は見せ ていない。 それがかえって夏侯惇の警戒心を一層、深めた。 「孟徳。林の中ではあいつを先頭にしよう。」 「ふっ、それは構わないが・・・・。」 「何が可笑しい?」 「いや、あの男がどのようにして私の命を獲ろうと考えているのか楽しみでな。」 曹操と夏侯惇は無表情に馬を操る典韋を振り返った。この旅路の中、この典韋という男は表情の変化というのを全 く見せない。 いつも口を真一文字に結んでおり、笑った事があるのかと不思議に思うぐらいであった。 その男が自分の命を獲る瞬間、刹那の一瞬はどのような顔をしているのだろうか。 想像をすると曹操は何故か笑みがこぼれるのであった。 林の中では夏侯惇の進言通り、典韋を先頭にし次いで曹操、夏侯惇の順に進んで行った。 林道の中は薄暗く、相手の隙をつくには絶好の条件である。 夏侯惇の全神経は典韋の大きな背中に向けられた。 そして、道も中盤に至った頃、林道には異変が起こる。脇の草が不自然に揺れだしたのだ。 何かと思っていると、突然、大きな塊がその草から飛び出した。 それは俊敏にして獰猛な動きを見せる大きな虎であった。 出立前に蹇碩が言っていたが、あれは曹操を殺した後の言い逃れだとばかり思っていたが、本当にいるとは思って もいなかった。 虎は低い呻き声で相手を威圧する。負けじと夏侯惇は槍の穂先を虎に正対させ、曹操の前の壁となる。 若武者・夏侯惇も人間相手には、そう簡単に後れをとる気はないが、虎を相手にするのは初めてである。 じっとりと汗が滲み、自分がこれまでない緊張感に包まれている事を自覚する。 虎に対しては、自分から仕掛けてはいけない。もし、一の太刀が躱されたとき、二の太刀を打つ暇などなく、その 牙の餌食となる。 相手が獲物を捕らえようと狙った瞬間に一突きを浴びせる。いわゆる『後の先』を取る事を夏侯惇は考えた。 しかし、一定の距離を保ちながらもなかなか虎は仕掛けてこない。一撃勝負という事を虎も本能で察したのかもし れない。 互いに神経をすり減らしながら、じっと出方を待つ。こうなれば最初に焦れた方が負けであろう。 夏侯惇は強靱な精神力で何とか緊張感を繋ぎ止める。 そして、虎の目が強い光を発したときに飛びかかってくる事を察し、見事に虎の喉元を愛槍で貫くのであった。 が、虎を仕留めた瞬間に夏侯惇の口から出た言葉は、歓喜の声とは程遠いものであった。 「しまった。」 警戒心が虎に集中し、典韋の存在を全く忘れていたのだ。 夏侯惇が気付いたときには、今、まさに典韋の手戟が曹操に振り下ろされている場面であった。 夏侯惇は思わず目を背ける。 何をしても間に合わない。そう思ったときに絶望感が彼にそう仕向けさせたのだ。 血飛沫が舞うのが死闘間もなく、神経が最大限に研ぎ澄まされている感覚で分った。また、足下に転がってきたの が首だと言う事も察した。 絶望感の後に夏侯惇を襲ったのは、激しい怒りである。主君を守れなかった自分自身に対して、そして、その主君 の命を奪った対象者に対して。 振り向き様、夏侯惇は槍を閃かせる。 がきんという金属音が致命打を奪えなかった証として、夏侯惇の腕に伝わる。 が、それが幸いであった事をすぐさまに悟るのであった。 夏侯惇の驚異の一撃を受け止めたのは、何と曹操孟徳であったからだ。 「お前が私の命を獲ってどうする。」 曹操は苦笑いを一つ残して、受け止めていた剣を下ろすのであった。夏侯惇も驚いて槍を引っ込める。 足下に転がるのが、もう一匹の虎の首だと気付いたときは、この人の生涯にして初めての事だろうか、馬上にて腰 を抜かしそうになった。 虎は普通、単独で行動する。もう一匹隠れていたなど想像の範疇(はんちゅう)を越えていたのだ。 その事は曹操も同様であって、そちらへの警戒は完全に薄れていたのだ。 それを典韋、ただ一人が冷静に万全なる対応をした事になる。 しかし、それはある疑問を生む事にもなった。 「君は私の命を狙う刺客ではないのか?」 そう、自分の手を汚さずに任務を全うする機会をみすみす逃したばかりか、あまつさえ狙う相手の命を助けたので ある。 「少ない時間ですがあなたと過ごし、漢の将来を憂う御仁だという事と一廉の武人である事が分かりました。その 人物を畜生の餌食とするには忍びなかった。あなたの命は、いずれ正当なる場で私自身の手でいただきます。」 典韋はそう告げると一人で駒を進めて行くのであった。 『面白い男だ。』 曹操は典韋に興味を抱く。猛虎の首を一撃で奪う膂力、己の信念を貫き通す性分。 このような人物の忠を得られれば・・・・ 「おい、置いて行くぞ。」 「ちょっと、待ってくれ。」 馬上で呆けていた夏侯惇は、情けない声を出す。実は本当に腰を抜かしていたのだ。 「はっはっはっ。その姿をあいつらにも見せてやりたかったな。」 曹操が言うあいつらとは、都、洛陽で曹操の帰りを待つ夏侯淵、曹仁、曹洪の三人の事である。 一方、夏侯惇はそうなったら、今まで彼らをたばねてきた自分の威厳に関わると何とか馬御しながら、曹操の後を 追うのであった。 こうして、刺客と刺客に命を狙われる者、刺客から主君を守る者という奇妙な取り合わせの旅は続くのであった。