十四.災厄 漆黒の闇の中、馬車を引く二頭の馬の激しい息づかいが聞こえる。 中の人間達が息を殺して、互いに沈黙しあっているので、協皇子にはより強調されて聞こえた。 劉協(りゅうきょう)は、今、自分がどうしてここにいるのかが理解できなかった。 次の皇帝は劉弁(りゅうべん)に決まっている。ならば、自分は武官と宦官の権力争いには関係ないのではないか。 そんな心理が働いているのだ。 いや、むしろそんな権力争い自体が疎ましく憎い。 それを求める人間の欲のせいで、自分は愛する家族を次々に失う事になったのだ。母親である王美人、祖母であり 育ての親の董太后は、いずれも権力闘争の中で凶刃にあった。 劉協自身は、一度も皇帝の座を望んだ事はないというのに・・・ 当然ながら、この少年の心の中にには大きな陰となって残っている。 しかし、自分自身では何も出来ない。 今もこうして、宦官どもに馬車に乗せられて、自分の意志とは無関係に訳の分からない場所に連れて行かれようと しているのだ。 『無力なのだ。』 諦めともとれる考えが、劉協の中に浸透しつつあった。 「ちっ、急げ。追っ手だ。」 馬車の中の誰であろうか、遠くに見える篝火(かがりび)に、そう漏らした。 劉協は、反射的に視線を送る。 その時、その篝火に何故か心奪われた。ジッと見つめていると、いつの間にか涙が頬を伝っている事に気付く。 その遠くにある火に、自分にない力強い意志が感じられたのだ。それに較べる自分・・・ まだ、幼い少年の心では整理できない感情が、涙に変わって体現されたのである。 「如何なされた、協皇子。」 同乗していた段珪(だんけい)が、怖さのために皇子が泣かれたと勘違いし、声をかけてきた。 「いや、大事ない。」 劉協を頬の涙を拭うと、その篝火から視線を切るのであった。 それから、四半刻ほど時が経過した後、劉協が乗る馬車に異変が起こる。 みるみると失速していったのだ。 先頭を走る馬車からは、馬にして十頭分以上離されていく。 不審に思った曹節(そうせつ)は、馬車を駆る御者へと詰め寄るのであった。 「何をしている。速度を上げないか。」 しかし、その御者は高官の剣幕にも動じる様子などなく、手綱を弛めたまま、前方を見つめるのみであった。 「貴様、話を聞いているのか。」 「少し、黙っていてくれ。今、もっと大事な事を考えているんだ。」 そう曹節に言い返したのは、曹操の配下の楽進であった。 楽進は、曹操から両皇子の身柄確保を依頼されていたのだが、事の急転のためにその職務が全うできず、何とか劉 協の身を抑えるのみに留まってしまった。 そして、劉弁もと考えていたのだが、二兎を追う者は・・・の言葉にならぬように、考えに考えを重ね劉協の安全 を優先したのである。 しかし、そんな楽進の心情など関係のない曹節にとっては、単なる無礼な男である。 顔を真っ赤にして、楽進の胸ぐらを掴む。 「おのれ、下郎が!」 「黙れと忠告したはずだ。」 楽進は、そんな曹節を軽くあしらい、馬車の上から叩き落としてしまう。 それを見ていた段珪と侯覧(こうらん)は、一瞬、何が起きたのか理解が出来なく、曹節がいなくなった空間をぼん やりと眺めていたが、次第に御者が行った無礼に気付くと、二人一斉に楽進に詰め寄った。 「あんた達も落ちるか?」 楽進は、その一言と剣先を閃かせる事でこの二人黙らせる。 段珪と侯覧は、鼻先に白刃を突き付けられると、驚きというより反射的に尻餅を付くのであった。 「お前は、何者だ。」 ここにきて、この男がただの御者でない事に気付く。 「私の名は、楽進文謙(がくしんぶんけん)。典軍校尉・曹操猛徳様の命を受けて、劉協様をお守りする者だ。」 「何と!」 この二人がここまで驚いたのは、楽進の名でもなく、劉協を守りにきたという事でもなく、只一つ、典軍校尉・曹 操の名前が飛び出した事であった。 曹操が北部尉だった頃の苛烈極まりない精勤ぶりは、時の権力者、十常侍をも震え上がらせた。 実際に十常侍の一人である蹇碩(けんせき)、その叔父の蹇朔(けんさく)を北門の禁を破ったとして処断している。 「そ、曹操だと。」 「如何にも。後ろに見える篝火は、曹操様のものだ。」 先程まで、遠くに見えていたが篝火が、すぐ間近まで、いつの間にか迫っている。 段珪と侯覧は、もはやこれまでかと観念し、速度は弛まったとはいえ、疾走中であるの荷台の上か飛び降りるので あった。 劉協と二人きりになると、楽進は許可を得て、馬車を完全に停止させた。 「劉協様、お怪我などありませんか?」 「いや、変わりない。・・・が、あの炎は、曹操のものなのか?」 「そうですが。」 劉協は、楽進の言葉には上の空といった感じで、徐々に近づく光の群れに見入っていた。 「鬼のように恐ろしいと聞いていたが?」 これは、曹操の事を聞いているのであろう。咄嗟に楽進は、思い違いであると窘める。 「いえ、皇子。確かに厳しいところもございますが、それは無意味・無用にという事ではなく・・・。」 「・・そうか。」 自ら尋ねておきながら、やはり劉協は上の空であった。 というより、曹操の到着が待ち遠しいといった印象を受ける。 そして、いよいよ対面の瞬間を迎えるのであった。 曹操が颯爽と馬上から降りると、続いて、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、典韋という屈強な武将達も馬から下りる。 曹操が片膝を付いて礼をとると、率いる兵達も波を打つように順番に礼をとっていく。 それだけで、いかにこの曹操率いる兵が調練されているかが伺い知れる。 「そなたが曹操孟徳か。」 まず、最初に声をかけたのは、劉協の方であった。 「はっ。典軍校尉・曹操、只今、協皇子の難を知り、ここに駆けつけました。」 曹操の自分を見つめる双眸には、一点の曇りも感じられない。 あの篝火に感じた力強さ、意志はここからきているのだろう。 劉協は、自分にないものを持ち合わせている、この曹操という男に惹かれていくのであった。 「うむ、大儀であった。」 「ありがたきお言葉。では、弁皇子が気掛かりでありますゆえ、我らはこれにて失礼します。」 曹操は、そう言うと典韋に劉協を任せ、その場を立ち去るのであった。 劉協は、まだ曹操と語らいたかったが、役目を怠らせるわけにはいかない。 「弁を頼む。」と、背に向かって、言葉を投げかけた。 それに応えるように手を挙げる。本来であれば、不遜を問われる場面であったが、劉協に目には、とても頼もしく 映るのであった。 「後ろの馬車がいなくなりましたよ。」 不安げな声を出したのは、何皇后(かこうごう)であった。 確かにその事は、蹇碩も気にはなっていた。しかし、明確な答えが分からぬ以上、黙っているしかなかった。 それは張譲も同様であったため、何皇后の疑問は答えが見つからぬまま、立ち消えとなる。 母親の不安が伝染したのか、子の劉弁は今にも泣き出しそうな表情を見せる。 「協は?協はどこに行ったの?」 親、後見人の反目はよそに、数少ない肉親同士とあって、劉弁と劉協の間には人並みの兄弟愛が存在していたのだ った。 「劉弁様、劉協様と落ち合う場所は決めてあります。いずれ、またお会いできますよ。」 流石に狭い馬車内で泣かれては手に余ると考えた蹇碩が、劉弁を宥(なだ)めるように微笑みかける。 それが功を奏したかは定かではないが、劉弁はそれ以上何も言わなくなり、いなくなった馬車の方向をジッと見つ めるのであった。 そんな折り、突然、衝撃が車内を襲う。それは馬車が急停止した事が原因であった。 そのために荷台の前方に四人の人間が押しやられ、一番端にいた張譲は、目を白黒させている。 「何事じゃ。」 蹇碩は人の重りから、何とか抜け出すと怒気を含めながら、御者の元へと向かった。 「それが、目の前に・・・」 「な、・・あれは・・」 御者が指さす先を見れば、何と一軍が道を塞いでいるのであった。そして、この馬車は既に見付かっているようで、 先発部隊といえる数十騎の騎馬がこちら目掛けて、猛然と走り込んでくる。 『どうやら、ここまでのようだ。』 蹇碩がそう観念した横で、張譲が明るい声を上げた。 「あれは董卓の軍勢じゃ。」 軍勢の旗には確かに『董』の文字が記されているのだが、董卓は涼州の地にいるはずである。 しかし、それ以上にこの張譲の喜びようが、蹇碩には気になった。 そして、暫く考え込んでいたのだが、ある事を思い出し、ゾッとするのであった。 皇甫嵩将軍の更迭と董卓の州牧着任。これは張譲が董卓からの賄賂を受け取って、働きかけたものなのだ。 つまり、董卓は張譲に恩義を感じており、この二人には密接な繋がりがある事が容易に想像できる。 この董卓の武力を背景とされれば、張譲と蹇碩の関係は再逆転となり、蹇碩は再び風下に立たなければならなくな る。 いや、もっと最悪の事態を考えれば、地位を狙う邪魔者として、排除される可能性もあるのだ。 その事を十分理解している張譲は、董卓の本隊が着くと小躍りして、董卓の前に向かうのであった。 「おお、董卓将軍、大儀であった。こちらには劉弁皇子がいらっしゃる。都までお守りを頼みます。」 やはり、張譲はこのまま洛陽に戻るつもりのようだ。 蹇碩は歯噛みするが、この顛末(てんまつ)となっては致し方ない。 そう、諦め掛けた蹇碩であったが、次の瞬間に信じられない状況に立たされるのであった。 「誰だ、このうるさい爺は、・・・刎ねろ。」 大きな薙刀が横に閃くと張譲の首が地面に転がる。 そして、その薙刀を持つ男に足蹴にされるのであった。 こうなっては、権力を誇っていたのがまるで朝露の夢の如し、無惨というより他になかった。 張譲の呆気ない幕切れ、次は我が身かと蹇碩は身を固くする。 すると、「おい、貴様、生かしてやる。その馬車を操るんだ。」と、董卓の声がかかるのであった。 この騒ぎに御者が逃げ出したようで、その代わりを蹇碩にせよというのだ。 十常侍の一人としての自尊心が邪魔をするが、今は生き延びる方が大事である。 「分かりました。」と、返事を返すのであった。 「はっはっは。十常侍も形無しだのう。」 董卓は蹇碩を嘲(あざけ)るように高笑いをすると、劉弁が乗っている荷台へと自分も乗り込む。 「この無礼者。」 何皇后がこの侵入者に非難を浴びせるが、そんな事を意に介さぬ董卓は、人睨みで黙らせるとドカッと劉弁の隣に 腰を下ろすのであった。 咄嗟に逃げようとする劉弁の襟首を掴むと、董卓は、「逃げるな。」と凄む。 それで劉弁は全身を震わせ、もう、身動きできなくなってしまった。 その様子が愉快なのか、董卓は大声で笑い飛ばす。 「おい、出せ。」 「はい。」 皇帝継承者に対してさえ、不遜な振る舞いをするこの男に、逆らう気力すら奪われた蹇碩は、素直に返事を返す。 こうして、自分の思惑とは大きく外れた状況で、洛陽に帰る事になった。 自分の栄華を図る計画が頓挫し、逆に漢帝国に最も危険な男を招き入れる事となる。 この日、この時から、二百年を誇る都、洛陽の歴史に陰りが落ち始めるのであった。