十.崩御 
  

  「蹇碩からの使者とはお前か?」 
  何進の前で恭しく平伏している男に袁紹が問いかけた。袁紹は、たった今、この部屋に着いたばかりであったが、
 事のあらましは既に聞き及んでいる。 
  十常侍の一人である蹇碩が何進の軍門に下るというのだ。 
  そして、その手土産というのが、今の十常侍を壊滅できる程の代物だという。 
  それがもし本当であれば、政敵を撃ち破り、何進の権力は揺るぎないものに変わるはず。 
  しかし、果たして単純に鵜呑みにしていいものか? 
  権謀詐術に長けている蹇碩の事だ。何か裏があるのではないか? 
  その事実を見極めるのは、我が役目と心得る袁紹の視線は自然と厳しいものになるのだった。 
  が、その男は平然と受け流し澄ました顔で頷く。 
  ただの使者ではないのかもしれない。袁紹が注意深く様子を伺っていると、何進がある書簡を差し出した。 
  「これを読んでみよ。」 
  袁紹はその書簡を跪(ひざまづ)いて受け取った。 
  使者の詮索は取り敢えず後回しにし、書簡をジッと見つめる。 
  この中に十常侍を一網打尽にする秘策が記(しる)されているのか・・・。 
  そう思うと実に重たい書簡であるが、外側だけ見ていても埒が明かない。 
  袁紹は紐をほどくとその中味を見入った。 
  そして、出た言葉は、「・・こ、これは・・・。」であった。 
  その中には、先の黄巾の乱の折り、宮中から内応を試みた人物の名が連ねられてあったのだ。 
  その中でも袁紹が目をむいて驚いたのは、最後に張譲の名が記されていた事であった。 
  「どう、思う。」 
  何進が複雑な表情で袁紹に尋ねた。何故、複雑かというと喜びたいのだが、その書簡の真偽によっては、ぬか喜び
 となってしまうからだ。 
  「どう、と申されましても・・・。」 
  袁紹とはいえ、これだけでは、事の真偽は図りかねる。答えようがないのだ。 
  「で、蹇碩殿は、どうしたいと?」 
  材料が足りないのであれば、集めるしかない。蹇碩の思惑通りに事を運ぶのは危険かもしれないとは思いつつ、袁
 紹は使者に尋ねた。 
  使者は袁紹の気迷いぶりに内心ほくそ笑む。 
  『初めは蹇碩だったのが、殿と敬称を付けるとは・・・台詞から対応まで、あの方のおっしゃていた通りではない
 か。』 
  使者に値踏みされているともしらず、袁紹は固唾を飲んで答えを待った。 
  そして、使者は、「蹇碩殿の言葉を、そのまま伝えます。」と、前置きしてから、話し始めるのであった。 
  「死人に口なし。残るのはその書簡のみとの事だそうです。」 
  これには、何進も袁紹も、ただ唸るのみであった。 
  流石は蹇碩と言わざるを得ない。 
  卑怯という言葉など意に介さないのであろう。武骨な何進や袁紹では、そういう割り切った思考回路には到達でき
 ない。 
  しかし、ここは蹇碩に乗った方が良し。 
  言葉には出さずとも二人の考えは一致するのであった。 
  袁紹は子細承知として、使者を帰そうとすると、何進が呼び止める。 
  「・・・のう、実のところ、張譲は?」 
  「まあ、いいではありませんか。」 
  何進を押し止めて、袁紹は使者を帰した。 
  事実を知っていた場合、後々まずい事になるかもしれない。知らなければ、全て蹇碩に罪を被せる事も出来る。
  ここは蹇碩の考え方をまねる事にした。それが乱世の生き方なのだろう。 
  袁紹の独断に渋い顔をしていた何進は、その旨、袁紹から耳打ちされると表情が一転するのであった。 
  「おお、まさにその通りじゃ。よくぞ気付いた。」 
  「いえ。」 
  袁紹は短い一言で謙遜すると、自分の中にどす黒い考えが浮かんでいる事を自覚した。 
  『そうだ。乱世の生き方というものを、もう一度考え直さなければならないかもしれない。いつまでも、人の下に
 いる事もあるまいしな・・・』 
  一方、何進は何進で、もう自分が政権を執ったときの姿を想像するのであった。 
  『そうなれば、この男も用済みか。後は我が一族で全てを牛耳る。・・・まあ、少しは役立つ男ではあったがな。』
  使者が帰った後、二人の思いがそれぞれ交錯する。 
  ずれだした意識、運命の歯車が狂いだしている事に二人は気付いていなかった。 
  そして、野望に魅せられる二人には、望まぬ急展開が待ち受けているのであった。 
   
  
  
  「首尾はどうであった?楽進(がくしん)。」 
  何進への使者として、役目を終えて戻ってきた男に蹇碩は、そう、尋ねた。 
  楽進は蹇碩の書簡を見た様子、その後の二人の態度等をこと細かく報告する。 
  そして、その話を聞くに蹇碩は満足そうな表情を浮かべるのであった。 
  「では、後はどうやって兵を宮中へ導くかか・・・。」 
  蹇碩は、そう言うと腕を組んで考え込んだ。 
  張譲や他の十常侍に知られずに多量の兵を宮中に入れるのは、かなりの難題である。 
  『何か良い手はないのものか。』 
  暫く考え込んでいたが、妙案はなかなか浮かばない。人を直接陥れる策ならば、いくらでも浮かぶのだが、こうい
 った案を考えるのは苦手なのだ。 
  「張譲、他十常侍を討つだけでしたら、何も多兵はいりますまい。」 
  蹇碩ならば直ぐに思いつくとして、楽進は予め授けられていた策を黙っていたのだが、なかなか考え及ばない様子
 に口を開いたのであった。 
  「どういう事だ?」 
  「いえ、要は十常侍を一箇所に集めておけばいいのです。宮中を隈無く探し出し、相手を見付けながら討とうとす
 るから多量の兵が必要なわけで、初めから所在を掴んでおけば、多くの兵はいらないという事です。」 
  「なるほど、そうか。そうなれば宦官と武官、十数人で事足りるという事か。いや、一対一でも十分という事を考
 えると僅か九人で良しか。」 
  蹇碩は手を打って喜び、目の前に立つ男を見直した。 
  一年ほど前から、素早い動きでどんな所でも忍び込めると、間者として利用してきたが、こんな知恵も働くとは・
 ・・ 
  そして、見直すと同時に畏怖も生まれる。 
  何か自分は得体の知れない男を、前にしているのではないかという恐怖感に襲われたのであった。 
  「分かった。もう下がって良い。」 
  蹇碩は楽進を下げると、一人になって考える事にした。 
  『まあ、あの男の事は、おいおい考えるとして・・・しかし、先程の案は使える。』 
  では、どのようにして少兵とはいえ宮中に入れるかだが、これは意外に簡単な事であった。 
  何進に何かの勅を与えるとして宮中に呼べばいい。十人程度の共を連れてきても誰も疑わないだろう。 
  最もその共達は別室で待機という事になるだろうが、それは蹇碩がうまく取りなせばいい。 
  それに勅を発するとなれば、他の十常侍も集まらなくてはならない。一箇所に集めるという事と兵を入れるという
 事が同時に達成される。 
  そして、今の案を採用した場合、普通であれば陛下の御前での惨事となるのだが、今は病床に付している身、その
 問題も解決されるのだ。 
  『これで我が事成った。』 
  そう思いこんだ蹇碩は、早速、勅の準備に取り掛かる。 
  しかし、この時、蹇碩の計算外の事が一つ起きていたのだった。 
  準備万端、全て処理を行った後で、宮中の大騒ぎに気付いたのである。 
  陛下が意識を失われたという事に・・・ 
  勅を発するはずの天子が意識不明とは、はなはだ具合が悪い。 
  策をもう一度、練らなくてはならなくなったのだ。 
  とはいえ、今は陛下の御前に駆けつけるのが先決であろう。 
  その場では今後の政局のやり取りをしているかもしれない。自分が乗り遅れるわけにはいかないのだ。 
  蹇碩は急いで陛下の病床へと駆け出すのであった。 
  
  
  
  中平六年四月、二十余年の長きにわたって、至尊の玉座にあった漢帝国皇帝劉宏が崩御した。 
  短命が続く後漢皇帝の中で、光武帝劉秀に次ぐ在位期間ではあったが、いかんにせよ三十四歳という若さで亡くな
 ったのは、暗に後漢の衰退を示すものか。 
  幼くして頂点に君臨した彼の人生は、まさしく宦官の傀儡人生ではあったが、その操られる糸がここに断ち切られ、
 静かに幕を閉じたのである。 
  そして、その死を見送ったのがここに集まる十常侍と何皇后であった。 
  医師が劉宏の様子に首を振ると一様に複雑な思いを浮かべる。 
  やはり人の死を前にして、彼らをしても悲しみに包まれるのだろう。十常侍の殆どの頬に涙が伝う。 
  しかし、彼らは感傷的な気持ちを決して引きずらない。何と言っても今後の政権、自分の身の方が可愛いのだから。
  すすり声が聞こえる中、誰かがその事を口に出した。 
  「世継ぎについて、陛下は何か申されたか?」 
  「それは長子である弁に決まっておろう。」 
  即座に何皇后が応じた。 
  背景の権力から、劉弁に分があるのは間違いなかったが、年齢という理を持って高らかに宣言されたのは劉弁の戴
 冠を決定付けたと言っていい。 
  ここにいる誰もがそういった印象を受けた。 
  何皇后はその台詞の後、張譲と目を合わせる。それを見逃さずに見ていた蹇碩は、先程のやり取りを思い浮かべた。
  そして、その記憶の中で、「世継ぎは誰か。」と叫んだ人間が張譲だった事に気付いたのであった。 
  『これは仕組まれた芝居か。』 
  恐らく張譲は、自分の十常侍筆頭としての立場は、揺るぎないものだと確信していよう。 
  既に何皇后に取り入っているあたり、流石に抜かりはない。 
  しかし・・・、しかし、そうはさせじと蹇碩は誓う。 
  蹇碩は心の内で、張譲に対する敵愾心を燃やすのであった。  
 


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