三.大賢良師 
  

  冀州鉅鹿郡(きしゅうきょろくぐん)の山奥に太平道総本殿があった。そこは一年前、関羽が訪れた場所であり、こ
 こ一年で急造された黄巾党の本拠地である。 
  信徒数十万を超える宗教集団を支えるこの聖地には、今も一万人が野ざらしの会堂に集まり、教祖張角の出現を待
 ち望んでいた。 
  その中には呪文のような言葉を繰り返す者、ただ無言を貫き通す者、隣の人間と熱い口論を交わす者様々であった
 が、その者達の視線が突然一点に集中される。 
  曇っていた空がにわかに晴れ渡り、その光の下に両手を広げた大賢良師張角が立っているのだ。 
  その場にいた全ての人間が張角の出現とともにひれ伏し、名を叫ぶ。それに答えるように張角は視線を左右に配り、
 手を上げる。 
  「漢朝の時代は終わりました。これより、我ら黄巾党の世に変わります。今、ここに集いし同胞達よ。我とともに、
 我は皆とともに、幸あらん事を願う。」 
  張角の声は穏やかで澄みきっている。が、全ての信者にその声は響き渡った。 
  そして、信者達はその張角の言葉に応えるように、黄巾党の旗に記された言葉を繰り返す。 
  「蒼天、すでに死す。 
   黄夫、まさに立つべし。 
   歳、甲子にありて。 
   天下大吉なり。    」 
  蒼天とは漢帝国を表し、黄夫は黄巾党を示す。つまり、漢帝国に変わり黄巾党の世の中が来て、天下は泰平となる
 という意味であった。 
  この御旗の基に黄巾党は各地を転戦し、その勢力を伸ばしていったのであった。 
 信者が声が嗄れるほどに連呼している中、張角は胴衣を翻し、立っていた台から下りた。そのまま本殿へと足を進め
 る。 
  すると、また、にわかに空が曇りだし、一粒の雨が落ちる。そして、張角の姿が完全に本殿へと消えると、その雨
 は、突然豪雨へと変わった。 
  雨で一瞬静まりかえるが、この自然現象は全て、張角大賢良師の神通力との思いが強い信者達は、その雨の中、も
 う一度後光を浴びようと、再び、呪文のように言葉を繰り返すのであった。 
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
     「兄者、内偵を進めていた馬元義(ばげんぎ)が漢に処断されました。」   「うむ。」   張角が本殿への廊下を歩いていると地公将軍を名乗る弟の張宝(ちょうほう)がやって来る。その後ろには、人公将  軍を名乗る同じく弟の張梁(ちょうりょう)の姿もあった。   そのまま張角は二人を従えて、本殿へと足を踏み入れた。   そこには、各地の黄巾党を束ねる主だった人間達がいた。   黄巾党では漢朝と闘う武装集団を方(ほう)と呼び、教団を三十六の方に分けた。それらの上に渠帥(きょすい)と呼  ばれる将を置いている。   本殿にいるのはその中でも大方(だいほう)と呼ばれる一万人以上の信徒を束ねる渠帥達であった。その中で渠帥の  筆頭とも言われている波才(はさい)が張角の前で跪いた。   「馬元義が討たれたとなりますと内部撹乱は難しくなります。」   「漢の迎撃態勢が整わぬ内に、武力行使を進めるべきです。」   張宝も波才に倣うように張角に詰め寄る。他の渠帥達は、息を飲んで張角の言動を注目した。   張角は二人を置いて、渠帥達の間をすり抜け、本殿の中央の壇上に上る。   「張宝や波才の申す通り、これより黄巾党は漢との最終決戦に向け、軍用を強化します。」   この張角の言葉には、少なからずざわめきが起こる。しかし、それは動揺ということではなく、いよいよかという  期待を込めたざわめきであった。   「では、兄者、どのように?」   「うむ。今、漢軍との戦地は何処(いずこ)に?」   その問いには張梁が答えた。   「南陽(なんよう)、穎川が一番の激戦区となっております。」   「よし。ならば、張梁、波才。」   名前を呼ばれ、二人は前に出る。元は農民、又は無頼の徒達の集団とはいえ、軍礼をとって次の言葉を待つ。   「両名は方をひきいて、穎川に向かうべし。」   「はっ。」   「次に張宝、・・・張曼成(ちょうまんせい)。」   張宝の次に呼ばれた名前に一同、難色を示した。波才は渠帥に筆頭であり、誰もが認める偉丈夫であったが、張曼  成とは新参者で、又、体躯も他の三人と比べて数段見劣りするいわゆる書生あがりの人物であった。   渠帥の中には同じ同格扱いを受けていることすら不満に思う人間が少なからずいるというのに・・・   が、張角は構わず続けた。それもその筈で、この黄巾党では大賢良師、又は天公将軍張角の言葉は絶対であるから  だ。   「両名は、方を率いて南陽に向かうべし。他の渠帥達は私とともにこの鉅鹿を中心に広宗(こうそう)に陣を構える  こととします。」   張角がそう言い放つと各渠帥達は、来るべき決戦に向け、それぞれの任された陣地に向かう準備のため、本殿を後  にしようとする。   その中で、一人、張曼成が皆を引き留めるように張角に進言した。   「大賢良師閣下。お言葉ですが、軍を集めて局地戦にするのは、漢に利するものと思われます。」   「何!」   張曼成の出過ぎに波才が色めき立つ。張角の言葉は神託である。それを否定することは何人たりとも出来ないのだ。   「貴様、大賢良師閣下の御心に背こうというのか。」   「いえ、私は・・・」   「よい、波才。張曼成よ、続けなさい。」   張角が張曼成を抜擢するのは、類い希なる才知にある。その片鱗を張角は見極めようとしたのだ。   「はい。主力同士をぶつけるだけでは、戦術に一日の長がある漢軍が有利です。ですから、ここは遊軍をもって背  後を襲うべきです。」   「うむ。して、その遊軍とは?」   「はい。常山(じょうざん)の黒山賊(こくさんぞく)に要請すべきかと存じます。」   黒山賊とは常山一帯を勢力拠点とした盗賊団であった。しかし、盗賊団といっても無用な殺戮は良しとせず、悪徳  官吏達の私財を狙う義賊であった。   その頭は剽悍敏捷な猛将で飛燕のあだ名とともに張飛燕(ちょうひえん)と呼ばれていた。   「ほう、張燕を動かすというのですか。」   「はい。」   張曼成の言葉には確かに理がある。が、机上の空論とも思えた。黒山賊とはそう容易く動く輩ではないのだ。   「大賢良師閣下。今の張曼成の意見は書生の言です。迂闊に信用は出来ません。」   「いや、波才。確かに実現すれば、我らが有利となるのも事実。」   「しかし・・・」   張角は値踏みするように張曼成の表情を読みとる。その瞳には確固たる自信が伺えた。   「自信があるのですね。」   「はい。」   張曼成は胸を反らすように提言した。それを憎々しげに波才が見つめる。   「兄者。張曼成がここまで言うのです。一つ、お試しになってはいかがかと。」   このままでは波才と張曼成の間の空気から、全体の調和を乱すと考えた張宝が助け船を出すように進言した。   「うむ。私もそのように考えておりました。黒山賊の件は張曼成に任せます。それと波才。」   呼ばれた波才は胸中には不満があっても、張角の前ではそれを出すまいと努めて平静を装うように返事をした。   「私は貴方の武を最も頼りとしています。しかし、武一辺倒では大事は果たせません。ここは張曼成の知に乗るこ  ととしましょう。」   「はっ。御心のままに。」   波才の面目を保ちつつ、その場を和らげる。一触即発の雰囲気は免れ空気が和んだところで各渠帥達は本殿を後に  して行った。   そして、張曼成はその夜に内に馬を走らせ、常山の黒山賊の元へと向かうのであった。   ここに漢軍と黄巾賊との血で血を洗う決戦が始まることとなる。今までの争乱がほんの序章であったかのように、  これより時代は一気に加速し、乱世となるのであった。




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