二十一.正しき道 黄巾賊の本拠、鉅鹿(きょろく)では滅亡の危機に騒然としていた。 張宝、張梁の両翼を失い、黄巾賊の支柱、張角も本殿に籠もり姿を見せない。 付き従う、黄巾の徒達の不安は日に日に強くなる。そんな折り、いよいよを持って官軍が鉅鹿侵攻の作戦を開始す る。 守る渠帥・劉辟(りゅうへき)は、部下の?都(きょうと)とともに無謀と思える戦いを挑んだ。 攻める総大将は車騎将軍・皇甫嵩でその旗下には曹操孟徳もいた。が、ともに戦っていた劉備と孫堅の姿はない。 劉備は孫堅の口添えがあり再び朱儁の軍に参加し、宛城(えんじょう)に残る黄巾賊にあたっていた。 劉備、孫堅の両軍なくとも黄巾の乱にて一躍、勇名を馳せた曹操孟徳である。僅かな抵抗など寄せ付けず、劉辟の 軍を手玉に取るように翻弄(ほんろう)するのであった。 「曹操よ。敵将・張角の姿が見えぬが、これは如何なる事だ。」 「張角は恐らく、山中にある黄巾本殿にいるのでは。」 「本殿か。」 皇甫嵩は顔を曇らせながら、陣中で思案する。この戦場はもう先が見えている。皇甫嵩は元より、曹操も先陣には 立たず後方の陣幕にて今後の検討をしていたのだ。 皇甫嵩の表情を冴えなくしている原因は、その黄巾賊の本殿位置にある。 そこに至るまでの道のり険しく、大軍を送り出す事が出来ないのだ。 勿論、そんな山中に黄巾賊も大群を擁しているわけではないので、攻略に手間取るという事ではない。自分自らが、 そこに出向かなければならない事に煩(わずら)わしさを感じているのだ。 かといって、大将首である。みすみす他の者に手柄を渡す気にはなれないのである。 「将軍、私が手勢を率いて落として参りますが。」 「何、お前がか。」 皇甫嵩が渋っている理由は曹操には分かっている。言葉足らずだった事を認め、曹操は更に付け加えた。 「張角の首は将軍がお取りになったという事にしても構いません。」 「うむ。・・・まあ、任せる。」 皇甫嵩は胸の内では手を叩いて喜んでいたが、それを正直に面に出す事をせずに言葉尻を濁しながら、曹操に一任 した。 曹操としてはそんな名などどうでも良く、早くこの黄巾の乱を鎮めたかった。 これ以上、農民達の屍を越えていくのに辟易(へきえき)としていたのだ。 その一方で黄巾賊の主に下級兵に見える結束力というものを越えた自己犠牲の精神、強さに惹かれていた。 その源、本質というのを見極めるために曹操は黄巾賊の本殿に向かおうと思ったのである。 曹操は旗揚げからの手勢五百騎と夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪の四将を伴って、本殿への道のりについた。 その道程は噂に違わぬ険しさで皇甫嵩率いる官軍を連れてこなくて正解だった。 恐らく相当の脱落者を出した事だろう。曹操が一から鍛えた子飼いの兵だからこそ、一名の脱落者も出す事はなか ったのだ。 とはいえ、本殿前に到着し振り返ってみると、あと数里でも離れていたら脱落者云々といううよりも戦自体が成り 立たないほど疲弊したのではないかという考えが過ぎる。 曹操はもう敵の物見には見つかっている事と迎撃に現れるまでの時間を素早く計算し、本殿との距離をとる。 曹操の算段では敵兵の数は千を少し越えるぐらいだと考えていた。その程度の兵数差ならば四将の武で跳ね返す事 は可能だろう。 もっとも虎痴(こち)のような隠し玉がいない事を前提とするのだが・・・ しかし、それも杞憂(きゆう)に終わる。 もう黄巾賊には兵を率いる良将は残っていないようだ。単調な攻撃は曹操の知略の格好の餌食となり、道中の疲れ など微塵も感じさせずに撃ち破った。 そして曹操軍が本殿の中に突入する。軍律が行き届いており略奪行為はなく、その分凄惨さというのはない。が、 張角に仕えていた侍女達の叫び声には閉口した。 見知らぬ兵士達の乱入に逃げ惑う。また、兵士達にとっては行く手を邪魔される形となって思うように進めない。 これが意図的なら、大した作戦だと曹操は苦笑いをする。 そんな中、どうにか本殿の奥深く、張角が潜んでいるであろう大部屋に辿り着いた。 厳かで神秘的な雰囲気に包まれた部屋を前にして、誰かがつばを飲み込んだ。 「緊張しているのか?子考。」 「いえ、まさか。」 「ふっ。我々はひょっとしたら、神を相手にしているのかもしれんぞ。」 「か、神。」 黄巾賊の狂信的な行動を見てきているだけに、曹仁は真顔で頷いた。心なしか顔が青ざめている。 「おい、孟徳。あまり脅かしてやるな。夢に出てきたらどうするんだ。」 夏侯惇の一言でからかわれていたのだと気付くと今度は顔を赤らめる。曹仁はそのまま先頭を切って扉を開いた。 冷たい空気が足下から曹操達を包み込む。部屋の中は一部を除いては真っ暗な闇であった。 その一部とは部屋の中央の事であり、そこには一条の光が照らされていた。そして、その光の中に一人の老人が立 っている。 『こいつが張角か。』 一同、そう思っている中で曹操が一歩、前に進み出た。 「ご老人。大賢良師・張角殿はどちらか。」 「ほっほっほっ。流石の慧眼。噂に違わぬ資質じゃな。」 この老人の言葉から分かるように張角とは別人のようだ。では、本人はどこに。 看破していた曹操にも疑念が募る。 「張角はここには居らんよ。」 「では、奥の寝台に倒れている男は張角ではないのですね。」 曹操に言われて四将は初めて気付いた。確かに老人の奥には大きめの寝台が置かれている。人の姿も暗闇になれて きた目でようやく捉える事が出来た。 「いや、肉体は確かに張角じゃよ。」 曹仁、曹洪が曹操からの目の合図で、その寝台に向かった。 「肉体はとは、どういう意味ですか?」 「と、殿、息をしていません。」 曹操の質問の途中で曹洪が驚いた声で、そう叫んだ。これで老人の言った意味の半分は分かった。 「ほっほっほっ。確かにそれは張角を収めていた器じゃやよ。しかし、理念、精神は別の所で生きておる。」 「しかし、黄巾賊の象徴はその器ではないのですか。その死を全土に知らしめる事は、黄巾賊の求心力を失うにも っとも効果的と考えますが。」 「戦はもう終わりじゃ。何をしようともな。しかし、喫緊(きっきん)は別にある。」 「それは?」 黄巾の乱を鎮める以上に重要な事とは如何なる事か。鋭敏な曹操をしても、そう聞かざるを得なかった。 「このままでは、第二、第三の黄巾を生む。」 「それが張角の理念、精神というわけですか。」 この老人は頷く変わりに目を細めて肯定した。確かにそれは由々しき事態だ。 「ご老人、いや、南華老仙。では、私にどうしろと。」 曹操は目の前の老人の名前をずばりと言い当てるが、そんな事は今は些事(さじ)の一つ。この後の南華老仙の言葉 が曹操の運命を握る。曹操はそんな気がした。 「戦の終幕は劉備、関羽、張飛の三兄弟に任せればよい。あの者達であれば、張角の野望を見事止めてくれよう。 が、全土に広がった黄巾の種を摘む事は難しい。」 「種を摘む。・・・張角はあなたの弟子。つまり、その意味はあなたの教えをこの世から抹消しろという事ですが。」 「ほっほっほっ。扱える者がなければ、ただの疫害。ない方がよいのではないか、曹騎都尉殿。」 曹操は即座の返答を避けた。そして、その間に南華老仙の言葉の裏を考える。 『扱える者がいなければ・・・』 つまり、扱える者がこの世に存在すれば問題がないという事か。しかし、その事をなぜ、この曹操孟徳に・・・。 「南華老仙。この私が扱える者だと?」 「ほっほっほっ。さてな。・・・張角の末路を考えれば、容易に返答は出来まい。」 南華老仙は、暫く曹操の聡明な表情を眺めていたが、ふと視線を切り、「どうやら、無駄話をしすぎたようじゃ。」 と言いながら、その気配を徐々に消していく。 そして、その気配、姿が完全になくなった時、今まで大部分が真っ暗な闇に包まれていた部屋が昼の光を取り戻し て明るくなった。 「ほっほっほっ。どんなに素晴らしい力も正しき道を誤れば、哀れな末期しか残っておらん。ゆめゆめ忘るる事な かれ。」 南華老仙は最後にその言葉を曹操に投げかけた。曹操には重たい言葉であった。 『正しき道。』 何が正しくて、何が間違っているのか。傾きかけた漢朝を復興させる事か、天下万民に成り代わり新しき善政をし く事か。または、・・・・ その輝く英知にも限りはある。人間たる者には分かりかねる問題であった。 ただ今は、己の信念を貫き通す。それが正しき道だろうと曹操は考える。思えば張角もそうであったのかもしれな い。 そして、その結果が・・・。 その時、曹操は不適に笑う。『乱世の姦雄』という言葉が頭を過ぎった。と、同時に別の人間の表情が浮かぶ。 「ふっ、面白い。」 曹操の独り言の後、しんと静まり返った部屋に騒がしく複数の兵士が乱入してきた。その先頭には皇甫嵩がいた。 曹操の言葉を信用できずにわざわざやって来たのだろう。この後に考えれば、あの道中をよく来たものだと感心す るところだが、今は何の興味も抱かなかった。 皇甫嵩は目の前に張角を発見するとその遺体に剣を突き刺し、「張角を討ち取ったぞ。」と叫んだ。 皇甫嵩の部下達は「おお。」と喝采をあげる。 四将は興醒めした表情で、その光景を見つめていた。そして、曹操は俗物を部屋に残し、一人部屋を後にするので あった。 曹操が思案中に浮かんだ人間。『関羽雲長。』 南華老仙の言葉の中、なぜか関羽という名前に引っ掛かりを覚えた。あの偉丈夫が正しき道の鍵となるのか。 とするならば必然的に最大の障壁は劉備という事になる。 自分とは対極に位置し、どこか心惹かれる部分があったが、その男と将来対決する。 今は想像難しいが、不思議と心躍る自分がいる。そして、この時をきっかけに曹操の中で劉備玄徳の存在が膨らん でいくのであった。