二.初陣 
 
 
  たく郡楼桑村(ろうそうそん)の外れにある見窄(みすぼ)らしい屋敷に一人の男が駆け込んできた。時刻は、やっと
 朝日が顔をのぞかせた程度であったので、家の主人はまだ熟睡中であった。 
  駆け込んできた男は、寝室に通されると主人の眠る寝台の前に来て、大声を出す。 
  「昨日、校尉と喧嘩騒ぎを起こしたんですって?」 
  「あん?」 
  耳元で大声を出され、寝台の上で眠る男は長い手で眼を擦りながら声の主を確かめた。 
  「何だ、簡雍(かんよう)か。」 
  「何だ、簡雍かじゃありません。劉備(りゅうび)殿。」 
  ここは、劉備玄徳(げんとく)が義勇兵を旗揚げした際に資金援助してくれた張世平(ちょうせいへい)が、劉備三兄
 弟のために購入してくれた屋敷である。 
  屋敷自体は外見同様に古いのだが、建物は広く。ここに劉備は、義兄弟の関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)は勿論の
 ことその他数十人の仲間とともに生活を送っていた。 
  そして、朝っぱらからこの屋敷に飛び込んできた男もその仲間のうちの一人で、名を簡雍憲和といい、元、張世平
 の下で働いていた男である。  
  「聞いておられるんですか、劉備殿。」 
  簡雍は劉備の反応が鈍いので、もう一度、間近に迫った。が、劉備は寝返りを打ってそっぽを向いてしまう。 
  「劉備殿!」 
  「朝から騒々しいな、簡雍。」 
  簡雍が劉備の名前を呼ばわると同時ぐらいにもう一人、身の丈九尺の大男が劉備の寝室に入ってきた。その男、朱
 顔に切れ長の目があり、見事なまでの長ぜんを蓄えていた。 
  「関羽殿。」 
  「騒ぐな。兄者は夕べ遅くまで、益徳と博打を打っておったのだ。この時間ではまだ目が覚めまい。」 
  「そんな、呑気な。昨日、町中で校尉と喧嘩をしたそうじゃないですか。」 
  「ああ。あれは喧嘩と呼べるような代物ではない。」 
  「しかし、刀を合わせたと聞きます。」 
  直情的に簡雍に言い寄られ、関羽は溜息を洩らして受け答えをした。 
  「だから、喧嘩ではない。まあ、簡単に言えば名前を売ったようなものだ。」 
  「名前を売る?」 
  「そうだ。あの校尉、鄒靖といったか。兄者の器に触れ、驚いていた。いや、驚いただけではなくおそらく兄者の
 器に惹(ひ)かれたことだろう。我々のようにな。」 
  関羽は、そう言いながら、寝相の悪い劉備の臼布団を直してやった。 
  「いずれ、州牧の耳にも兄者の名が届く。その時のために多少、派手な宣伝も必要であろう。」 
  「宣伝ですか。」 
  簡雍は、多少とも疑問点はあるが何とかそう納得することにした。 
  「宣伝はいいとして、土産も忘れちゃいけねぇよな。」 
  「起きられたのですか。」 
  関羽、簡雍の視線の先には、寝台の上で上体を起こし大きく伸びをする劉備がいた。 
  劉備は、軽く頭を左右に振って首を鳴らすと態勢を変えて、丁度、寝台に腰掛けるような姿勢をとった。 
  「なあ、大興山(たいこうざん)の麓(ふもと)に住まう黄巾賊って、数はどれくらいだ?」 
  「青州(せいしゅう)のですか?」 
  「ああ。」 
  「確か、一万を少し超える程度です。頭が程遠志(ていえんし)、副将がケ茂(とうも)といった名だったと思いま
 す。」
  簡雍が記憶をたどるようにしながら、正確な数字を告げると劉備は、一度欠伸を噛み殺してから、
  「間者の報告じゃ、奴らこのたく郡を襲う準備をしてるらしいぜ。」と言った。 
  「え?」 
  朝一番でそんな一大事を告げられ、簡雍はおろか関羽まで顔色を変える。 
  「で、攻められる前にこっちから出向いてやろうと思う。」 
  「そんな急に。兵の数が揃いませんよ。」 
  「なあに、この屋敷にいる連中だけでいい。」 
  「相手は一万の賊徒です。無茶ですよ。」 
  「無茶かどうかはやってみなきゃ分かんねぇだろ。」 
  劉備は、簡雍との会話を区切るように立ち上がると、顔を洗うために井戸のある中庭へと向かった。 
  「しかし・・・」 
  まだ食い下がろうとする簡雍の肩に関羽は手を掛けて止めた。 
  「兄者が言い出したら、誰にも止められん。それに私と益徳がいる限り、兄者には指一本触れさせんから、安心し
 ろ。」 
  「・・・・分かりました。それでは、私は張飛殿を起こしてまいります。」 
  不承不承ながらも簡雍はそう返事をし、劉備の寝室を後にする。 
  関羽は、それを見送りながら、自分に力を与えてくれた南華老仙のことを思い出す。 
  「いよいよ。黄巾賊との対決か。見ていて下され、南華老仙殿。」 
  関羽は劉備に寝室の窓を開けながら、そう呟いた。 
 
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        「頭、変な一団が、この根城に向かってきてます。」   「変な一団?」   大興山を拠点にする黄巾賊の頭、程遠志は広間で酒を飲みながら聞いた、見張りの報告に怪訝な表情を示した。   「官兵じゃねぇのか。」   「へい、違います。一応、武装はしているようなんですが、数が少なすぎるんで・・・。あれで、うちと一戦交え  うってんなら、きっと馬鹿が大将なんですよ。」   「どれくらいの数なんだ?」   「ざっと数えたところ・・・」   「は?目で数えられる数なのか。」   「へい。五十にも満たない数です。」   その言葉に程遠志は完全に興味を失い、付近の村でさらってきた娘に盃を近づけ、酌をさせた。   程遠志はその盃を一気に飲み干すと近く人間を数人呼びつけ、その謎の集団にあたってくるよう命じた。   そして、再び盃を差し出す。これを繰り返し、何度か杯を重ねていく。そして、酒瓶が三巡する頃になると、もう  先程の見張りの報告など完全に忘れてしまった。   多少、ほろ酔いになり気分を良くしていた程遠志は、これまた気分を良くしている部下の酒踊りに拍手を送りなが  ら大笑いをしていた。   しかし、その気分を一変に害する報告がなされる。   先程、程遠志の命令で表に向かった連中がことごとく、謎の集団に蹴散らされたとのことであった。   程遠志は手にしていた盃を床に叩き付け、人の酒盛りの邪魔をする無粋な集団に怒りを顕わにした。   「てめぇら。小うるさい蠅を皆殺しに行くぞ。」   程遠志の号令にその部下一同が応と答え、一斉に立ち上がるのであった。
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       「長兄、何だ、先の歯ごたえのねぇ連中は。」   「心配すんなよ益徳。次は多分本隊がやってくる。歯ごたえは十分なはずだぜ。」   劉備は自分の右手前方でもの足りないとばかりに、自慢の丈八蛇矛を奮う義弟に声をかけた。   「しかし、相手は一万ですよ。いきなり本隊に襲われたら、この数では一溜まりもないのでは・・・」   「はは、ここに来てまで心配してんじゃねぇよ。おっと、お喋りはここまでだ。いよいよお出ましのようだぜ。」   劉備の言葉通り、黄巾賊の本隊がその根城から姿を現した。一万の兵を従えて、二騎の騎影が先頭を歩いている。  おそらく、あれが簡雍の言っていた程遠志とケ茂であろう。   「おい。どこの馬鹿かしらねぇが、喧嘩売るなら売るなりの準備をしてから来い。」   その中から、向かって右側の馬上の男が大声で話しかけてきた。それに従い、劉備も前に立ち、応答する。   「準備?へん、おいらはただゴミ拾いの散歩に来ただけだぜ。何でそんなもんいるんだよ。」   「何!腐った漢帝国の手先がほざくんじゃねぇ。」   「あん?お前こそ馬鹿言ってんじゃねぇよ。おいらが立ち上がったのは漢のためじゃねぇ。国のためだぜ。」   「国のためだぁ。屁理屈こいたって、同じ事じゃねぇか。」   「はっはっはっ。」   劉備が程遠志の言葉に大笑いする。明らかに侮蔑の色が含まれた笑いであった。   「何がおかしい。」   「ぷっ、はははは。やっぱり、馬鹿だろ、お前。」   「何ぃ。」   「いいか、よく聞けよ。この劉備玄徳様のありがたい言葉を。」   劉備はそう言うと馬を一歩前に進めさせた。続くように関羽、張飛も進み出る。   「お前ら、黄巾党も世直しだって騒いじゃいるがよ。一番大事なことを忘れてるんじゃねぇのか。国の基ってのは  民だぜ。それは漢だろうが秦だろうが変わりねぇ。つまりだ、支配する人間が誰であろうと国ってのは一応、成り立  つんだよ。それを支える万民がいりゃあな。」   劉備は大きく黄巾賊一同を見渡してから、更に話を続けた。   「逆に言やぁな、漢も秦もただの器でその中に民がぎっしり詰まってなきゃ意味ねぇんだよ。分かるか。本当の世  直しってのは、その器を変えることなんだよ。お前らのやってる事は、一体なんだ。罪もない民草ばかり襲いやがっ  て。」   劉備の台詞は、拳を突き上げる動作とともに更に熱を帯びる。異論もあるだろうが、勢いに押される形で、黄巾賊  の面々は黙って劉備の言葉に耳を傾けた。   「黄巾党、お前らのやってることは漢帝国を潰してんじゃねえ、国を潰そうとしてんだよ。だから、おいらは国の  ため、民のために立ち上がったんだよ。」   「言いたい放題言いやがって、俺達はな大賢良師張角様の導きにより事を為している。それを否定するのは、張角  様への冒涜だ。」   この程遠志の一言で、狂信的集団、黄巾賊の張角への忠誠、信頼の大きさが伺い知れた。劉備は、これ以上の対話  は不要と考える。   「分かった。張角って奴ともども死ななきゃ直らねぇな。」   「む、張角様を・・・。てめぇ、生かして帰さねぇぞ。」   「もとよりそのつもりだろ。」   両者の舌戦が一通り終わるといよいよ戦闘となる。まず、黄巾賊の方が数にものをいわせるように間合いを詰めて  きた。   「おい、てめぇら、相手の数は少ねぇんだ。蟻のように踏み潰すぞ。」   やはり、相手の数が少ないということが士気に影響してかその足取りは軽い。アッという間に劉備達の目の前、十  数間というところまで差し迫った。   「劉備殿、我々も軍を進めましょう。」   目前に迫る大軍に声を多少荒げて簡雍が進言した。   「簡雍、先、相手は一万の大軍って言ってたよな。じゃあ、うちの勝ちだ。」   「どうしてです。」   「相手はたった一万、うちは二万。単純に考えたらこっちの勝ちだろう。」   「二万ですって?」   「ああ、雲長、益徳、頼む。」   劉備は関羽と張飛を名指し、大軍に二人だけであたらせた。二人は一万の兵を相手に怯むことなく、張飛などはか  えって喜び勇んで向かっていった。   「おいらの義弟達は、一人が万兵に値する。二人合わせて二万って事さ。」   「長兄、あんまり見くびるなよ。俺達は一人で二万は相手に出来るぜ。」   張飛は敵が直ぐ目の前にいるにも限らず、余裕で振り向いて劉備に言い返した。そう、吠えるだけあって確かに張  飛、関羽の強さは尋常ではなかった。   一万の数であるから、二人の豪傑を取り囲むように黄巾賊は陣形をとるのだが近付くことがまるで出来ない。   少しでも青龍偃月刀や丈八蛇矛の射程圏内にはいるとアッという間に首がなくなってしまうのだ。   いつの間にか黄巾賊達は、自分達の数の優位を忘れ、逃げ腰になり、この二つの戦場の災厄に近付こうとはしなく  なった。しかし、関羽や張飛もただ立っているだけではない。   敵の方から来ないとなると自分達の方から向かっていく。ごく自然な行動に出たのだが、それが黄巾賊の陣形を崩  すのに大いに役立つ。 そこに劉備旗下四十騎が突っ込んだ。   乱れに乱れた陣形は、程遠志、ケ茂を守っていた防備を薄くし、いつしか二人は同じく二人の武神達の前に姿を晒  すことになる。   「おい、貴公。先程、兄者を馬鹿呼ばわりしていたな。許さん。」   関羽が程遠志の姿を認めて躍りかかる。それを見ていた張飛が舌打ちした。   「ちぇ、大将は関兄に取られちまった。俺の相手は雑魚かよ。」   「雑魚だと。」   雑魚呼ばわりされたケ茂が怒りのまま、張飛に向かっていった。しかし、この時、少しでも冷静でいられたのなら  自分がいかに無謀であったかを知るのだが、遅かった。   二騎がすれ違った先を見ると一騎は張飛と物言わなくなったケ茂の首を乗せ、もう一騎は空馬となりそのまま走り  続けた。   「へん、こんな首取っても自慢にならねぇが、土産らしいからな。」   張飛は鼻を鳴らすと面倒くさそうに鐙(あぶみ)にその首をくくりつけた。その一部始終を見ていた程遠志が大声を  出す。   「ケ茂!」   「おっと、今は自分の心配をするのだな。」   「おのれ、お前達は何者だ。」   「我らは、中山靖王劉勝(ちゅうざんせいおうりゅうしょう)が後胤(こういん)、劉備玄徳とその家臣。義弟、関羽  雲長、参る。」   関羽はそう告げると青龍偃月刀を程遠志へと奮った。偃月刀にある青龍の装飾が光り、血飛沫とともに程遠志の首  が飛ぶ。   「どうやら終わったようだな。」   その首を目の当たりにしていた劉備が誰となしに呟く。   「おい、てめえら。大将の首はもらったぞ。それでもまだやろうってのか。」   劉備得意の大音声を響かす。もっとも黄巾の徒達も目の前で、程遠志、ケ茂の首が飛ぶのを見ていたわけで戦意と  いうものは完全に喪失していた。そこに劉備の声が拍車をかけ、手にしていた武器を地に投げるとその場に平伏する  者や這々(ほうほう)の体(てい)で逃げ出す者が続出した。   「よし。これで土産もできたことだし、州牧さんのとこにでも行こうか。」   劉備は満面の笑みで戦功輝かしい二人を出迎える。   「さすが、おいらの見込んだ二人だね。」   「おい、簡雍。これぐらいで驚いていたら、この先大変だぞ。」   出迎えられた張飛は、劉備の横で口を開けて驚いている簡雍に向かってそう言った。簡雍自身も関羽や張飛の強さ  については噂で聞いていたが、まさかこれほどとは思ってもみなかったのである。   「兄者、それでは早速、幽州へと戻りましょう。」   「そうだね。」   劉備はそう言いながら腰に帯びていた剣を鞘から抜いて、大地に投げつける。   その剣は地に伏している一人の男の前に突き刺さった。   「おい、やるなら正面からかかってこい。」   その男は地に伏しながら、手に短剣を忍ばせて近付いていたのだ。それを劉備が見咎めて剣を投げつけたのである。   剣を投げつけられた男は上目遣いで劉備を睨み付ける。     が、劉備は平然と相手の怒気を受け流した。   「なぜ、殺さん。」   「もう、勝負がついている。無駄な血は流す必要ねぇだろ。」   劉備の言葉に突然男は笑い出した。血なまぐさい戦場において、一種、不気味な感じをさせる笑いである。   「甘い、甘い。そんな事でこの乱世を生きていけると思うのか。」   「思うよ。じゃね。」   緊張感のない劉備の態度に男の笑いは乾いたものに変わり、表情をひくつかせている。   立ち去る劉備達の後ろ姿を睨み付ける男の目は、先程、劉備を睨んだそれとは違い怒気だけでなく、何か遠くを見  つめる据わったよう目であった。   「おのれ、見ておれ。この孫仲(そんちゅう)を生かしておいたのを必ず後悔させてやる。」   孫仲と名乗るこの男は、身近に主のいなくなった馬を見付けるとそれに跨り、ここより遙か遠く都に近い穎川  (えいせん)郡へと馬を走らせた。




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