十九.凶刃 「殿、曹操殿が到着したようです。」 馬上にどっしりと構える孫堅の元に韓当が駆け込んできた。隣りに並んでいた黄蓋、程普、祖茂の表情が輝く。 しかし、孫堅だけが渋い表情で祖茂の報告に耳を傾けた。 「早すぎるな。」 孫堅の呟きに程普が反応した。「お言葉を返すようですが、曹操殿の到着は、早いと言うよりはむしろ遅い方です ぞ。」 「いや、そうじゃない。黄巾に仕掛けるには早すぎるって言ってるのさ。」 「じゃあ、待てばいいじゃないですか。」 祖茂の発言に孫堅は笑った。失笑を買ったと思い、祖茂は憤然とする。 それに他の四天王も祖茂同様に考えていたので、当惑の表情を示した。 「悪い。俺の言葉が足らなかったようだ。」 孫堅は四天王の正面に向き直すと、まず、祖茂に謝った。 豪快が売りの海の男である。憤慨したと言っても自分が見込んだ主に頭を下げられるとそんな気持ちなど何処かに 吹っ飛んでしまい。今度は孫堅の言葉の意味に興味が湧く。 「曹操殿の到着が遅れたって事は何かあったって事だよな。」 ゆっくりと四人の表情を見回して孫堅が話し始めた。その言葉に四天王は頷く。 「曹操孟徳ほどの男が何もなく、進軍が遅れたって事はあり得ない。恐らく、敵と遭遇したと見て間違いない。」 誰からともなく、『ほう。』という感嘆の声が洩れた。孫堅は更に続ける。 「そこで優先すべき事は、その遭遇した敵を全滅させる事じゃない。作戦遂行のために素早く突破する事だ。・・・ しかし、そこで問題が生じる。」 「敵に奇襲をかける事を知られる。」 最後の言葉は孫堅に変わって黄蓋が話した。 孫堅は頷く。 「まあ、黄巾の注進よりも曹操殿の到着の方が早いだろうが、もたもたしている暇はないって事だ。」 「しかし、仕掛けるにはまだ早いという訳ですか。」 兵法に明るい程普、黄蓋をしてもそこまでの読みは出来なかった。主君、孫堅の慧眼(けいがん)には素直に恐れ入 る。 しかし、その孫堅にも読み違いはあったのだ。それは官軍の後退が早いというより、黄巾賊の猛追が激しすぎる事。 そして、思っていたよりも敵の陣形が乱れていない事だ。 つまり、本来の頃合いから言えば、今は黄巾賊本陣に奇襲を賭けていても良い頃合いであったのだが、それが出来 る折りではなくなっている。 「我らに選択の余地がないのであれば、撃って出ましょう。」 韓当の意見を入れ、それしかあるまいと孫堅は軍を進める。 黄巾賊本陣手前で二軍は合流し、孫堅の元に曹操がやって来た。 「すまない。孫堅殿。」 「いい、貸しておくさ。」 「すまない。」 曹操は孫堅に二度、謝した。単純に自分の不手際とは言いかねるが、作戦遂行を危ぶませている事には違いないの だ。 「劉備殿には倍、苦労をかけるが、何とかするだろう。」 「ああ、我らの一隊も劉備殿に付けた。惇と御義弟二名がいれば乱戦となっても、簡単には崩れはしまい。その間 に我らの大事を成す事にしよう。」 曹操が劉備に夏侯惇を付けていたと孫堅は知り、少しは希望が膨らんだ。そして、二重、三重に策を打っている曹 操を流石に都随一の俊英と認めた。 孫堅、曹操はそれぞれの軍を鼓舞し、人公将軍・張梁が陣取る本陣を衝くべく進軍を開始した。 一方、黄巾賊はある程度予測していたのか、曹操、孫堅の両軍を迎え撃つべく態勢を整えていた。 陣頭に立つ張梁はしてやったりの表情をしている。張曼成が官軍の奇襲を読んだときは、正直半信半疑であったが、 その言を信じていて良かったと言うところだろう。 「はっはっはっ、なるほど。これは黄巾の陣形が乱れないわけだ。」 策が露見したと知ると孫堅は豪快に笑い飛ばした。本来であれば、そんな場合ではないのだが、孫堅はその間に自 らの策を練り出すのである。 その時、ふと友軍の曹操軍を見やった。そこには薄笑いを浮かべた曹操がいる。 何かあるのか、それともはったりなのか? 「こいつは面白くなってきた。」 孫堅はひとまず、黄蓋と祖茂を本隊から分かち左右に展開させる。数では黄巾賊の方が上であったので取り囲まれ る心配があった。そうなると背後にも注意しなければならないので、用意に包囲されぬよう陣形を開いたのであった。 しかし、曹操軍にそれが出来るだけの兵数が残っていない。 曹操は方陣を布いたまま、その場に待機した。 「ふん、貧弱な陣よ。」 張梁は二軍の陣形を見て、鼻で笑った。圧倒的有利な場所にいる自負から来る笑いであった。 「蟻のように踏みつぶせ!」 張梁の号令の元、怒濤(どとう)のように黄巾賊の尖兵達が二軍に襲いかかる。 「来たぞ。韓当、弓箭隊(きゅうせんたい)で迎え撃ち、三矢放った後に後退。続いて、程普、騎兵を従え正面から 当たれ。」 孫堅の指揮に従い、的確な動きを見せる。矢で黄巾賊の行き足を止め、程普率いる最強部隊がぶつかる。 程普は愛用の鉄脊蛇矛(てっせきだぼう)を手によく闘い、局地的とはいえ五分の戦いを繰り広げた。そして。挟撃 する形で黄蓋と祖茂が襲う。 流石に天下の戦上手と言われる孫堅軍であった。 そして、曹操軍はというと方陣のまま、敵と戦っては後退し、また、黄巾賊の動きが止まると進軍するという一種 の疑兵の計で黄巾賊を混乱させていた。 「何か面白い事がありそうだな。」 孫堅は古錠刀(こていとう)を振りかざし、自分も参戦した。但し、深追いは禁じる。 五分の戦いから、孫堅の登場で五分以上となる。 この思いもよらぬ苦戦に張梁は歯軋りしながら、近従に当たり散らした。 「何をしている。どんどん撃って出ろ。・・いや、儂が出る。」 張梁は手こずる自軍に業を煮やし、自ら剣を持って立ち上がった。用意された白馬に跨ると張梁は手勢を率いて、 まず、曹操軍に向かう。 数の上で与し易いと考えたのであろう。 しかし、いきなり現れた強敵に対しても曹操軍は慌てない。軍の動きはより柔軟になり、押しては引く、引いては 押すという、張梁率いる黄巾賊の猛攻を吸収するかのような陣形をみせる。 「ぬう、曹操。尋常に勝負しろ。」 張梁はこの暖簾(のれん)に腕押しの状態に苛立ちを覚え、そう叫ぶが曹操は軽く鼻で笑った。 「これが少兵の戦い方さ。尋常には勝負している。」 「ふん、戦の泰斗(たいと)気取りか。儂に兵法を講釈するとは。」 「別に講釈するつもりはないが。一つ忠告はしよう。」 その時、張梁の耳に信じられない言葉が飛び込んできた。 「張梁様、本陣から火の手が上がってます。」 「何!」 慌てる張梁に曹操は冷笑を浴びせる。その頃になると草や穀物が焼ける香ばしい臭いが嫌というほど鼻を突いた。 歪んだ張梁の表情が曹操を睨み付けるが、鋭い冷眼が跳ね返す。 「どんな寡兵(かへい)を相手でも本陣、特に兵糧の守りは怠るな。」 「くっ・・・」 流石にこれ以上の言葉が出ない。更に追い打ちをかけるように孫堅軍が浮き足立つ黄巾賊をいいように攻め立てる。 「はっはっはっ。本当に面白い事が起きたな。」 「はい。しかし、一体、どういう事でしょうか。」 黄蓋の鉄鞭(てつべん)は止まる事なく、孫堅の言葉を待つ。孫堅も左右に古錠刀を振り、黄蓋に答えた。 「何、曹操殿は更に別働隊を用意していただけだ。恐らく、夏侯淵殿あたりだろう。」 夏侯惇と一緒に劉備の後詰めに付いているのかと思っていたが、今の曹操軍に別働隊を任せられる人物は他に考え られない。 孫堅の推測は恐らく間違いないと自信がある。 しかし、そんな事よりも曹操孟徳の恐ろしさというのを張梁以上に感じるのであった。 戦場の駆け引きで後れをとる気はしないが、こと戦略という面では、ひょっとしたら曹操は自分を上回るのではな いかという気がする。 「・・・くそ、・・・引け引け。」 張梁は苦渋の思いで、撤退を告げた。敵は目の前にいる曹操、孫堅だけではないのだ。 本陣陥落、兵糧炎上の知らせを受けると官軍の主力と戦っている前曲も崩れ落ちる。そうなると挟み撃ちを受ける 可能性が高い。 今の内に死地を脱する必要がある。官軍との激しい戦にて、次々に同胞を失い、実兄張宝も今はいない。 自分までこの地で命を落とすような事があれば、長兄の張角を補佐する人間が誰もいなくなってしまう。 張梁は倒れいく同胞の間をすり抜けるように馬を駆って行った。 唇を噛み締め、手綱は肉に食い込む程、強く握られていた。そして、張梁の着衣、甲冑は血に染まっている。 しかもその血は張梁自身のではない。全て味方が斬られたときに飛んだ血飛沫によって染まったのであった。 疾駆する馬によって戦場を切り抜けた張梁は、一息吐くと川のせせらぎを聞く。どうやら近くに小川があるらしい。 小川で顔を洗い口を漱ぐと人影に反応し、立ち上がった。 「おお、張曼成か。」 そこには渠帥・張曼成が立っていた。他の者の姿が見えないのは、同じく戦地から脱出してきたのであろうか。 張梁はゆっくりと張曼成に近付いていった。 「無事であったか。」 「はい。張梁様も。」 心許せる人物に出会ってホッとした張梁は、悔しさのあまり涙を流した。そして、熱いものが過ぎると弱気な一面 が現れる。 「のう、一度、鉅鹿(きょろく)に戻ろうかと思うが。」 「いえ、なりません。ここで張梁様がこの地を去られますと穎川一帯は完全に官軍の手に落ちてしまいます。ここ は、宛城(えんじょう)に引きましょう。」 「いや、兄者のお体も心配じゃ。やはり、一度、戻ろうと思う。」 引き留める張曼成を振り切るように張梁は答えた。張曼成の顔がはっきりと厳しい表情に変わる。 「どうしてもですか。」 「うむ。そうじゃ。」 自分の部下に気迫で負けるわけには行かない。意固地になったように張梁も繰り返す。 そんな張梁に逆らえないと判断したのか張曼成は、「分かりました。」とだけ小さく答えた。 「それでは官軍の追っ手が来ないとも限らない。この場を離れるぞ。」 張梁はそう言うと馬に跨るために鞍に手を掛けた。その時、背中に鋭い痛みが走る。そして、その痛みがどんどん 広がっていった。 耳には激しい息づかい聞こえる。 振り返ると血塗られた剣を持ち、肩で息する張曼成がいた。 「何の真似だ。・・張曼成・・。」 「今の張角様のお姿を見せるわけには行かない。あの方は我らの希望。その希望があるからこそ、全国で太平道は 戦っていけるのです。」 「・・どういう・・・、まさか・・兄者は・・・。」 張梁の最後の言葉の前に張曼成の斬撃が降りた。地に倒れた張梁は、もう何も語れない。 張曼成は張梁の死体を川に流すと主人の死を悲しむように嘶(いなな)く白馬に跨り、この地を離れるのであった。 「太平道、張角様の意志は私がお守りする。」 悲壮、いや狂気と言い換えた方がいいかもしれない。 もう引き返す事の出来ない小舟の上で、終局の渦へと向かう一人の男がそこにいるのであった。