十八.虎痴 林の茂みの中を縫うように行軍する一軍があった。それは曹操孟徳率いる一隊である。 普段は騎馬を駆る将校は全て赤備えで統一されているのだが、今回は隠密行動という事もあって、一軍は黒装束で 固められている。 曹操軍はよく鍛錬されており、迅速であるが川のせせらぎ程の騒音もたてずに進軍していた。 しかし、曹操の心中はこの行軍程に穏やかではない。 今官軍は黄巾賊の総攻撃を受けているからだ。しかも撤退しながら敵の攻撃を防ぐという兵法の中で一番難しいと される戦法をとっている。 この戦の大局となるのが曹操率いる官軍ともう一隊、孫堅率いる遊軍が手薄になった敵の本陣を衝く事であった。 が、言うは易いがその折(お)りが重要であり、早すぎれば敵の布陣に隙は生じず、遅すぎれば官軍が壊滅となる。 一瞬の見極めが曹操に課せられた使命で、必ず及第しなければならない。 手綱を握る手に汗がしっとりと浮かんでいるのに曹操は苦笑いを繕った。 「曹操が世に成すべき事、与えられた宿命はこの程度ではない。」 曹操は言葉の鞭を自分に向け、汗の滲む手綱を強く握りしめた。面(おもて)を上げたその表情に迷いは微塵も感じ られない。 「やっと、らしい表情に変わられましたね。」 「ん?」 隣りに馬を並べる曹仁が曹操の晴れやかな面持ちに話し掛けた。 「その余裕の笑みが先程までは消えてましたから。」 「そうか?・・・しかし、我らにはそれ程余裕はないようだ。」 曹操軍の行く手を遮るように数十本の矢が地に突き刺さる。丁度、前曲に位置する歩兵の前に矢の柵が出来たよう にも見える。 「我が手を遮るのは、張曼成か!」 曹操の声に反応するように黄巾賊の隊列の中から、一人の将が現れた。黄巾賊・渠帥、張曼成である。 「如何にも。その旗印は曹操孟徳でしょう。都で名高い俊英も時勢を読み切れないのですね。」 「ふっ、時勢を読んでいるのはなく、都合よく解釈しているだけであろう。」 同じく隊列の先頭に姿を現した曹操が負けじと弁舌を振るう。切れ長の目が冷たい光を帯びる。 「勝手な解釈ではありません。貴方は五行説も知らないのですか?」 「五行説は知っている。しかし、その運行は人為的に行うものではない。」 「人為的とは愚な。我らは民の声に応じて起ち上がったのみ。」 張曼成の言葉に曹操は冷笑で応えた。張曼成の眉間が険しくなる。 「何を笑うのです。」 「いや、その耳の都合の良さを笑ったのだ。・・・聞こえないのか、黄巾の凶刃に倒れる民衆の悲痛な叫びを。」 「太平道に与(くみ)せぬ、無知なる民草に誅を下したまで。我らに賛同するものまで殺めたりしません。」 張曼成が言い放つと同時に曹操はしたりと喜んだ。この舌戦に終止符を自らの勝利で打てる確信を持ったからだ。 「そう、民草とは無知なるものだ。従って、善悪の区別などつかず自分の利によって動くのみ。その民を動かしけ れないのを時勢と言うのは程遠い。」 「この中華にどれ程の数の民衆がいると思うのですか。その全てを・・・。」 張曼成は自分の言葉を途中で切り、はっとする。 「全ての民を染める気概なく、この大陸を制する事などできはしない。単なる一小人の野望はこの曹操孟徳が断ち 切る。」 「大賢良師を小人とほざくのですか!」 知将の誉れ高い張曼成が最後は声を荒げて叫ぶのみであった。この知将対決、ひとまずは曹操に軍配が上がった。 「では、見事断ち切ってみなさい。」 張曼成が全軍に総攻撃の指示をする。同じく曹操軍も動きだし全面衝突となった。 曹操が素早く進軍しなければならないところを、わざわざ張曼成との舌戦に持ち込んだのは、張曼成を論破する事 によって敵軍の動揺を誘う目的があったのだ。 果たして、曹操の目論見通り、知将としての輝きを曇らせた張曼成の旗下達は動きが鈍かった。 「このまま突破するぞ。」 勢いに乗った曹操軍は中央の切り崩しにかかる。練達された軍は曹操の手足のように動き、黄巾賊は算を乱した。 張曼成は自軍の現状に焦りの表情を浮かべ、切り札とも言うべき手を打つべきか思案に暮れる。が、意を決すると 周りの人間を呼ばわった。 「虎痴(こち)、虎痴。」 程なく虎痴と呼ばれた男が張曼成の前に現れる。その男は身の丈八尺で、腰回りは五十寸程もあり、大の大人でも 腕を回しきる事は容易ではない。 体格とは似つかわしくない柔和な表情は真っ直ぐ張曼成に向けられていた。 「おお、虎痴。敵は曹操のみ、あの首(しるし)をお願いします。」 張曼成の指さす方角の先に、曹操孟徳の姿を見た。遠くからであるが、知性と獰猛性(どうもうせい)を併せ持った 鋭い眼光が随分と印象に残った。 「あのぅ、中央の将ですかぁ?」 おっとりとした口調で虎痴が張曼成に尋ねる。そこには戦場の緊迫感などまるで感じられないが、これが虎痴の持 って生まれた性分なので致し方ないのである。 流石の張曼成も苦笑いを浮かべて、「そうです。」と、答えた。 「できますか。」 今度は逆に張曼成が尋ねたとき、虎痴は得物である柄の先に大きな鉄球が付いた蚩尤砕(しゆうさい)を持って歩き 出した。 「うん。やってみるぅ。」 大きく返事をした後、無造作に曹操軍の中に突入する。 曹操軍はこの男があまりにも無警戒に現れたので、一瞬たじろぐが、よく見れば一廉の将でもあり、凡庸とした仕 草は格好の的に思え一斉に襲いかかった。 が、とたんに地獄絵図に変わるのである。 この男が蚩尤砕を右に払うと十数人の兵卒が三間も吹っ飛び、左に奮うと五人の男の顔がひしゃげる。 それを数回繰り返す頃には、近付く者など誰もいなくなった。 しかも男の表情が依然と変わらず柔和なままなのが、一層、兵卒の恐怖心を煽る。 将たる曹仁、曹洪もこの容易ならざる膂力(りょりょく)の前に迂闊に近付くことは出来なかった。 「くそ、惇兄ぃがいてくれたら。」 曹一族の中でも武芸に秀でる夏侯惇は、今、劉備軍とともにいる。いつも困難な場面に遭遇した場合、その夏侯惇 が窮地を脱してくれていた。 曹仁、曹洪の中には夏侯惇に対する依存度は知らず知らずの内に高くなっていたのだ。 「面白そうだ。私が出る。」 曹操陣営に陰鬱(いんうつ)な空気が立ちこめたとき、曹操が弾けたようにそう叫んだ。そして、近従が止める間も なく、馬を駆る。 劉備に当てられたのか、曹操らしくない行動であったが、曹軍の士気を高めるには十分だった。主君を見殺しには 出来ぬとばかりに兵卒達は残った勇気を奮い立たせるのである。 しかし、最初の一歩の違いで虎痴の前に真っ先に立ったのは兵卒が守るべき主であった。 それは曹操の計算違いかと思われたが、曹操は臆する事なく虎痴に話し掛ける。 「見事な得物だな。」 敵の言葉であったが虎痴は褒められて素直に喜ぶ。その様子にこの人物には悪という点がないのだなと曹操は感心 した。 「張曼成様から戴いたんだぁ。蚩尤砕って言うんだぁ。」 間延びした虎痴の返答に曹操は素直に微笑む。 「では、その蚩尤砕でこの曹操孟徳を討ち取ってみよ。」 「うん。行くよぅ。」 虎痴は渾身の一撃を曹操にみまう。曹操はその死に神の釜を腰に帯びていた剣で見事に受け流した。虎痴の表情に 驚きが浮かぶ。 続けて、もう一撃放つが今度は止められてしまった。 「何でぇ。何で止められるのぅ。」 その後、何度、攻撃を繰り返しても結果は同じだった。曹操は冷笑を浮かべ、虎痴に諭すように話し掛けた。 「不思議か?」 「うん。不思議だぁ。」 「それは私の得物とお前の得物の重みの違いだ。」 虎痴は言葉を理解できぬように、呆けたように曹操を見上げた。 「何、言ってるだぁ。おらの武器は百斤だぞぅ。」 「ふっ、単純な重さを言っているのではない。・・・その蚩尤砕にお前は何を賭けている。」 「えっ。」 「私はこの剣に天を賭けている。」 「天?」 そうだと答えた曹操に虎痴は後光が差しているように見えた。頭では理解できない何かが虎痴の胸中に留まり、や り切れない苛立つが募る。 「何を言ってるか、分かんねぇ。」 「そうか、分からないか。では、私を討つ事は出来ないな。」 「嫌だぁ。おめぇを討たないと後で叱られるんだぁ。」 虎痴は喚(わめ)き散らすと蚩尤砕を見境なく振り回す。普段であれば戦場で疲れなど見せぬ虎痴も、初めて味わう 見えない壁の前に困憊(こんぱい)の色をなし、空振りを数十回繰り返すと武器を捨ててその場に倒れてしまった。 曹軍の血に染められた蚩尤砕は大地に転がり、その持ち主も天を仰ぐように寝転がっている。まるで駄々っ子のよ うであった。 「よせ。子考(しこう)。」 曹仁がこの怪物にとどめを刺そうと刃を立てたが、曹操がそれを止める。 「どうしてですか?」 止められた曹仁が思わず曹操に尋ねる。曹操は額に浮かぶ汗をそっと拭うと手にした剣を収めながら曹仁に向き直 る。 「この男に悪はない。いわば民草の代表のような男だ。曹操孟徳とその一軍は無益に民草に手をかけぬ。」 曹操はそれだけ言うと軍を立て直し、張曼成がいる本軍へと向かうよう指示した。曹仁も主君の言葉に二言はなく、 素直に従軍する。 そして、戦場には虎痴一人が残されるのであった。 「おらには、分かんねぇ。」 虎痴の絶叫を背に曹軍は張曼成に殺到した。切り札を失った張曼成軍は抵抗する術もなく曹操の突破を許すのであ った。 「いずれ、お前にも分かる時が来る。」 曹操はこの虎痴との再会を予感し、そう呟くのであった。