十七.笑顔 白い槍術者、趙雲子龍の穂先が張飛と対峙する空間に固定される。僅かに震えているのは、強い怒りのためか。 「その姿は、愚弄のためですか?」 劉備に倣って、着ていた甲冑、衣服を脱ぎ捨て裸でいる状態に馬鹿にされたと勘違いをしたのである。また、それ を増長するように同じ格好をした劉備が趙雲に向かって笑顔で手を振る。 「ふん。お前さんの槍の威力を考えたら、鎧なんか意味ねぇだろ。」 そんな事より、さっさと始めようぜと言わんばかりに、張飛は自慢の丈八蛇矛を扱く。 それでも後ろの劉備が気になる趙雲に張飛は挑発する言葉を言い放った。 「かかってこい。それとも、誰かの弓の援護がなきゃ闘えねぇのかい?」 しかし、それは言ってはならない言葉であった。趙雲の歴戦の中での唯一の汚点。しかも、それは趙雲自身ではな く共闘を図った黄巾賊によって、傷つけられた心の傷を張飛はついたのだ。 その代償を張飛は、僅か二つと瞬きする間もなく払う事になった。 趙雲が無言で繰り出す槍は、無数の光弾となって張飛を襲う。それを張飛は防戦というには、あまりにも不格好に 受ける。 致命傷は何とか免れているが、皮膚が破け、アッという間に血だるまとなった。 この一騎打ち同様に官軍と黄巾賊の戦局も一方的である。引いて戦うことは予め予定されていたことだが、今の状 況は果たして戦略を立てた曹操の思惑通りなのであろうか。 中軍に陣取る曹操の胸中は、隣りに立つ曹仁には計り知れない。が、その双眸に光が失われていない事を見て取る と安堵に胸を撫で下ろす。 「私も惇兄の後につきましょうか?」 声をかけられた曹操はジッと遠く戦場を眺めていたが、従弟の曹仁を一瞥(いちべつ)すると首を横に振った。 「いや、その必要はない。これから劉備軍が反撃に出る。」 確信に満ちた強い口調で曹仁にそう言うと、曹操は踵(きびす)を返して自軍に檄を飛ばす。 「我らはこれより、作戦通りに左前方にある林を目指す。敵に悟られぬよう素早く進軍するぞ。」 曹操軍はその指示通り、静かに動き出す。曹操は進軍の中、視線を一度劉備軍の戦地に向けた後は振り返らず、期 する思いを胸に押しやるのであった。* * * * * * * * * * * *曹操の予見とは裏腹に劉備軍はジリジリと押されていた。と、いうのも趙雲と張飛の一騎打ちが黄巾賊に勢いを与 えているためである。 趙雲の繰り出す槍は致命傷こそ浴びせる事ができないが、確実に張飛の体力を奪い、その気力すらも殺(そ)ぎ取る 所まで来ている。 打ち合っていた初めの頃は、張飛も反撃に出ていたのだがその手数は減り、今は完全に攻撃の手は止まってしまっ た。 「長兄、私が出ましょうか。」 堪らず関羽が劉備に問いかける。劉備の大望を達成するためには、張飛という存在は欠かせない。いや、それ以前 に掛け替えのない義弟なのである。 「いや、いい。・・それより雲長、勢いに乗っている雑魚共を任せる。」 「はっ。」 関羽は劉備の言葉に疑う余地もなく頷き、馬に跨って前戦へと駆けて行った。劉備が張飛の力を信じきっているの を察したからである。 自分も義弟がこんな所で命を落とす訳がないと強く念じるのであった。 その期待の張飛は変わらず、何とか趙雲の槍を受けるのに精一杯で、反撃に糸口すら掴めないでいる。 『くそ、この俺様が何て様だ。』 張飛には焦りに似た感情が沸き上がってきた。ここまで自分自身が追い込まれ、無力感を感じたのは、あの盗賊の 頭、呂布と闘った時以来であった。 『呂布か、懐かしいぜ。・・・まさか、あいつ以上の使い手がいるとは思ってもいなかったぜ。』 「何が可笑しい。」 打ち合いの中、不意に趙雲が張飛に話し掛けてきた。 「もはや、討ち取られるのみというのに、何故、笑う。」 『笑う?笑っているのか、俺は。』 趙雲に言われるまで、自分がこの状況で笑っている事には気付かなかった。それはそうだろう。本来であれば必死 の形相で、趙雲の繰り出す致命打を防いでいなければならない。 『この期に及んで、笑う余裕があるとはね。我ながら、図太さには驚くぜ。呂布の時はそんな余裕なんてなかった てのによ。・・・いや、そうだ。そんな余裕がある訳ねぇぞ・・・ひょっとしたら、こいつは呂布より強くねぇんじ ゃねぇか。俺は呂布と闘って生き残っている。・・・そうだ。俺の方が強ぇ。』 「おーい、益徳。何時まで遊んでるんだよ。てめぇ、中華最強を目指すんじゃなかったのかよ。」 劉備の大音声(だいおんじょう)が張飛を包み込む。今、間違いなく張飛に追い風が吹いた。 「そうだ、長兄。そこで俺様の目ん玉飛び出るくらいの強さを見てな。うぉぉぉー。」 劉備に劣らぬ張飛の大声が響く。それと同時に丈八蛇矛にあしらわれている女か(にょか)の細工が赤い光を帯びた。 「うぉぉぉぉぉー。」 吠えながら打ち返す張飛の一撃に趙雲は受け止めながら体勢を崩す。そして、怒濤の攻撃が始まった。 今度は逆に趙雲が防戦一方に変わる。 「遅ぇよ。馬鹿。」 ようやくの反撃に劉備は笑いながら毒づいた。 「よし、おいら達も反撃だ。ここから押し返せ。曹操孟徳の奇策が待ってるぜ。」 劉備の呼び掛けに応じ、軍もよく動く。関羽の鬼神の働きもあり、黄巾賊の猛攻に抑え込まれていた官軍が息を吹 き返してきた。 が、流石に押し返すまでには至らず、両軍の戦いは一進一退となる。正に乱戦といった形容が正しかった。暫くそ の戦況は続き、両軍の兵士がバタバタと倒れていく。 「劉備様。このままでは例え勝っても被害は尋常なものではありません。曹操殿の奇策とは、まだですか?」 戦場で片時も劉備の元を離れかった簡雍が悲鳴にも近い声で叫んだ。 「作戦通り、この地で踏ん張ってるんだ。そろそろ、孫堅、曹操の両軍が背後を突くはずだ。・・・が、・・・。」 劉備は最後の言葉を飲み込んだ。黄巾賊の張曼成の存在が気になったのだ。 これまでこの戦場にその姿を現した様子がない。黒山賊まで動かした切れ者と聞く。 果たして曹操の立てた策略が通じるのであろうか。この劉備をしても不安はあるのであった。 しかし、それを口に出すわけにはいかない。 とにかく今はこの現状を維持していくしか手はないのである。 「大丈夫、この戦は勝つ。何故なら、おいらがこの地にいるからだ。」 理由にならない理由を劉備は大声で叫ぶ。 「何だ、簡雍。おいらの言葉を疑うのか?」 あまりにも突飛な意見を言い放つ劉備に簡雍は思わず呆けてしまったのだ。しかし、この声が、今まで劉備軍に数 多くの勇気を与え、数々の戦場を生き抜く糧(かて)となったのだ。 「いえ、まさか。この簡雍、生涯、劉備様に付き従います。その言を疑うことは、一度もありません。」 「へっ、ありがとよ。」 劉備は照れ笑いをしながら、簡雍に向けて剣を振り上げて見せた。その笑顔を見ると簡雍は、堪らない気持ちにな る。 この人物なら、自分の命を投げ出しても構わないと・・・ 「簡雍、生き抜くぞ。」 一瞬、死という言葉を美化した気持ちが簡雍に過(よ)ぎった。それを見透かしたように劉備が変わらぬ笑顔で話し 掛けたのである。 「劉備殿、助太刀に参った。」 その時、後方から凄まじい勢いの騎馬隊が現れた。それは夏侯惇率いる曹操軍であった。 「こいつは、ありがてぇ。夏侯惇殿。」 思いもよらない援軍に劉備の笑顔の輝きが増す。 「な、簡雍。こうなったら、意地でも生き抜こうぜ。」 「はい。」 簡雍は涙ぐみながら、大きく頷くのであった。