十六.決戦前 
  

  快晴の空のもと穎川の地にて、官軍と黄巾賊との一大決戦が繰り広げられようとしていた。 
  黄巾賊は既に渠帥の波才と地公将軍・張宝を失っている。 
  士気としては、それ程高くないはずだが、それを必至に盛り立てているのは知将・張曼成の存在である。
  初めは書生と軽んじられていた彼も次第にその頭角を表し、穏和な物腰から下級兵からも慕われ、黄巾賊内におい
 てその影響力というのは日増しに増大していくのであった。 
  「張曼成。いつまでこうした睨み合いを続ければよいのだ。」 
  黄巾賊の帷幕の中で、人公将軍・張梁が傍らにいる張曼成に問うた。張曼成の画策した長期戦に持ち込んだは良い
 が、一方で黄巾賊の士気も低下している。 
  それは黄巾賊本拠にいる大賢良師・張角が病に倒れたという話がどこからともなく噂されるようになり、それがも
 とで黄巾賊内は一様に浮き足立った状態となったのだ。 
  事実、弟である張梁もこの噂に蒼白となり、直ぐさま、確認の使者を送った。 
  程なくして、使者は戻り。兄、張角からの書面を見てホッと胸を撫で下ろすのだった。 
  その張角直筆の書面を張曼成が陣中に貼りだす事により、混乱が広がっていくのを防いだわけだが、士気の低下ま
 では防ぐ事は出来なかったのである。 
  「放った間者の情報によりますと官軍にも何か大きな動きがあるようです。相手の出方次第では、我らのつけいる
 隙があるかもしれません。」 
  「では、そろそろ決着をつけるのか?」 
  「場合によっては・・。」 
  張曼成が張梁の言葉に慎重に答える。そこに張曼成が放っていた間者の一人が駆け込んできた。 
  「いかがした?」 
  「はい。官軍が陣払いをし、洛陽に向かって退却していきます。」 
  「な、何と!それは、一体?」 
  「漢中の米賊が兵を挙げ、長安を襲撃しました。結果、長安は陥落し、その余勢を駆って洛陽に迫っているそうで
 す。」 
  米賊とは黄巾賊の太平道と同じく、道教の一つ、五斗米教を信仰する集団のことである。今は、開祖・張陵
 (ちょうりょう)の跡を継いだ息子、張衡(ちょうこう)が教祖として信者を指導していた。 
  「それは、真実か。」 
  「官軍の慌てようから、察しますと間違いございません。」 
  間者がはっきりと肯定すると張梁は腕を組んで考え込んだ。官軍が総退却となれば、追い打ちをかけて全滅に追い
 やる事も難しくない。 
  しかし、罠かもしれぬという疑念がある。今回の一大発起には、米賊とは連携を取っていないので動きが全く分か
 らないのだ。 
  しかし、その真実を確かめるべく、今から間者を送るのでは千載一遇の機会をみすみすと逃してしまう。 
  張梁は非常に難しい選択に迫られる事となった。 
  「私が物見に行き、確かめて参ります。張梁様はいつでも軍を動かせるように整えていて下さい。」 
  悩める指揮官に張曼成が献策した。張曼成自身も事実か罠かの見極めはついていない。いや、敢えて言うならば八
 割方、敵の仕組んだ罠と踏んでいる。 
  が、残りの二割の可能性もあるわけだし、よしんば、罠であっても敵の布陣を見れば、その罠を上回る策が思いつ
 くかもしれない。 
  張曼成は、報告に来た間者を伴って帷幕を出ていった。 
 
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     「関兄。こりゃ、まじで長安が落ちたんじゃねぇよな。」   「ふっ、確かに皇甫嵩軍は迫真の演技をしている。私もそんな錯覚に陥るな。」   劉備軍も皇甫嵩の本軍に併せて退却をしている。その中、関羽と張飛は馬上でそんな会話を交わした。   この二人が疑うのも無理はなく、官軍は糧食から資財、全てを戦地に置き去りにして退却をしている。又、その退  却も陣形というのは全くなければ、歩兵も騎兵も何もなく。我先に駆け出しているので、それこそ、逃げ出している  といった表現に近かった。   ただ、関羽は張飛より更に一歩、こうまでしなくてはならない、敵将・張曼成という存在を意識するのであった。   「おい、二人とも。落ち着きすぎだよ。もっと、慌てなきゃ。」   そこに二人の長兄であり、主君である劉備玄徳が表れた。   しかし、その姿を見て二人は言葉を失う。   「長兄、その出で立ちは・・・」   劉備は雌雄一対の剣こそ帯びているが、その他は何も身につけておらず、殆ど裸に近い格好であったのだ。   「ああ、おいら達は逃げ出してるんだぜ。慌ててよ。だからだよ。」   劉備が得意の笑顔で二人に話した。張飛はそれに触発され、自分も鎧を脱ぎ出す。   「おお、面白そうじゃねぇか。俺様も迫真の演技って奴を見せてやるぜ。」   「そうこなきゃ。ほら、雲長、お前さんもだよ。」   「仕方ありませんな。」   豪快に脱ぎさる張飛の傍らで、関羽も鎧をとった。そして、三人は各々大声を張り上げて、兵達の不安を煽るよう  に軍中を右往左往するのであった。   「何だ、あの馬鹿どもは?」   そんな姿を遠目で見ていた夏侯惇は、呆れ顔で独り言を洩らした。   「戦を楽しんでいるのだろう。」   「孟徳か。」   突然、後ろから声をかけられれば誰だって驚くのは当然だが、曹操と長い間一緒にいるとそんな事では、一々驚い  ていられなくなるのか、夏侯惇は当たり前のように曹操の名前を出した。   そして、その声の主は推察通り、曹操孟徳であった。   「これから一大決戦というのに、あのはしゃぎようは羨ましくもあり、・・・脅威を感じる。」   「それは責任の問題だろう。お前は戦局の機微を知り、勝利に導かねばならん。」   「いや、立場が一緒でも彼らは変わらないだろう。見習わねばならぬ。」   「孟徳?」   そういうと曹操は、夏侯惇を残して馬を駆るのであった。その背中には並々ならぬ意志を感じるのであった。    
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     「黄巾賊だ。」   どこからともなく、そんな悲鳴が響き渡る。   官軍が陣を捨て、五里ほど行軍したところで黄巾賊の先鋒部隊が姿を見せたのだ。   それは官軍の演義に引っ掛かったのか、それとも罠と知りつつの攻撃なのか今の段階では曹操にも分からなかった  が、取り敢えず今まで動かなかった戦局が動いた事には間違いなかった。   「よし、来たな。作戦通り事を進めるぞ。」   曹操の立てた作戦では、このまま黄巾賊の攻撃を受けつつ、最低でも十里は後退しなければならない。   それまで官軍が持ち堪えられるかが一番の問題であった。   「なに、劉備殿の義勇軍が多少なりとも足止めをしてくれる。いきなり、全滅はないだろう。・・・が、惇。」   「分かっている。劉備達の後詰めにつく。」   自軍の精鋭を割くのは痛いが、黄巾賊の先鋒にあの白い槍術者がいた場合の事を考えると念を押しておく必要があ  ったのだ。   打てる手はこれで全て打った。後はもう・・・   「ふっ、この曹操孟徳が神頼みか。」   曹操をしてもこの戦の勝敗は分からないのである。しかし、そんな状況の中でも抑えられない興奮を曹操は感じ取  っていた。   これも劉備の影響かも知れぬと苦笑いを残し、曹操は退却の指示を徹底させるのであった。   
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     「へっくしょん。」   劉備が一際大きなくしゃみをした。後ろでは簡雍が呆れた顔をしている。   「そんな格好でいれば風邪を引くのは当たり前です。」   「いや、これは誰かが噂してるんだよ。おいらの事を。・・・多分、どっかの可愛い娘さんだな。」   「徐州糜家の令嬢に言いつけますよ。」   「ば、馬鹿。関係ねぇだろ。」   劉備が慌てている姿を簡雍は楽しんだ。何か劉備の弱みを握ったような気がしたのだ。   「冗談です。まずはこの戦地から生き抜かなければなりませんから。」   「そ、そうだよな。・・・・おっと、来なすったぜ。」   劉備の視界には、いつぞや対戦した白い槍術者を先頭にした黄巾賊がいたのだあった。   「趙雲子龍か。今日は、どっちが相手すんだい?」   劉備は関羽と張飛を見やったが、返事をする前に張飛が趙雲に向かって駆け出していった。それを見て、関羽が肩  を竦(すく)める仕草をする。   「ま、仕方ねぇか。」   劉備は対峙する二人の充実した闘気に目を細めた。   こうして、黄巾賊との一大決戦の火蓋は切って落とされるのであった。  




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