十四.太平道本殿 
  

  南陽の張宝が討たれた翌日、同じく南陽の地を任されていた張曼成(ちょうまんせい)は冀州鉅鹿(きしゅうきょろく)
 郡の黄巾賊本拠地に戻っていた。 
  それは首領張角が倒れたとの情報を、遊軍として動いていた張曼成軍がいち早く掴んだためであった。
  官軍に対して優位に立っていた数ヶ月前とは違う。今は五分どころか逆に押され始めたこの時期に精神的主柱の大
 賢良師・張角を失うことは、敗北の未来を予想させる。 
  いや、敗北以前に張角のいない太平の世など張曼成にとっては何の意味もなさない。 
  普段、冷静な張曼成もこの時ばかりは、焦りの表情を浮かべ張角のいる太平道総本殿に登殿する。 
  そして、一室に通された張曼成は驚きとともに安堵に胸を撫で下ろした。 
  「張角様。壮健そうで何よりです。」 
  「おお、張曼成ですか。私は今、夢寐(むび)のような心地で曇りのない大空に身を置いている気分です。」 
  そう答えた張角は豪奢(ごうしゃ)な椅子に端座し、普段と変わらぬ笑顔を向ける。が、一つだけ違うのは、以前の
 体躯とは比べものにならないくらい痩せ細っている事だった。 
  「張角様。残念ながら、南陽は落ちました。」 
  「うむ。張宝が逝ってしまいましたね。」 
  「はい。私はこれから穎川に向かいます。かの地も落ちますと鉅鹿は丸裸同然となってしまいます。」 
  張角は今にも折れそうな腕を上げ、張曼成を招き寄せるとその頭に手を乗せる。 
  「しかし、無理はいけませんよ。漢帝国の朽廃(きゅうはい)した土台から息吹く新しき芽には抗しがたき力があり
 ます。」 
  「はい、それは私も感じております。」 
  「うむ。貴方は先見の明と自重する勇気を知っています。それと断をくだせる意志。太平の世の礎となることを願
 います。」 
  「はい。しかと服膺(ふくよう)しました。」 
  張曼成は師の言葉を肝に銘じると、すくっと立ち上がる。張角は立ち上がった張曼成を追った目を切り、視線を部
 屋の入口に向けると、 
  「貴方は何かに迷っておられるようですね。どうぞ、こちらへ。」と、そこに立つ若武者に声をかけた。 
  張曼成とともにこの部屋に入った後、ジッと入口で立っていた若武者は、張角の言葉に従って中央に進み出る。
  「趙雲殿。礼を取って下さい。」 
  「いえ、かまいません。太平道以外の方に敬われるいわれはありませんから。」 
  しかし、趙雲は年長者に対しての礼として、張角に軍礼を取った。 
  黄巾賊ではない彼が張角に平伏するのもおかしいし、宗教上の挨拶も知らないので考えた挙げ句にとった行動であ
 った。 
  張角は趙雲の顔を直覧(じきらん)する。趙雲も知らぬ間に硬くなっていたのか、ふと、力の抜ける笑顔だった。
  「ふむ。初対面で先程の言は失礼でしたね。」 
  「気にしてはいません。いや、むしろ本心を見抜かれたようで驚きました。」 
  趙雲は素直に述べた。張角の前では構えることなく自然体でいられる。 
  槍で打ち込めば簡単に倒せそうな細い体から、威圧とは違う安らかな圧力が趙雲の体を包み込む。 
  今まで体験した事のない不思議な感覚であった。 
  「この迷いは?一体、どうすれば・・・」 
  普段、戦場で見せる事のない弱気な表情で趙雲は訴えた。 
  「貴方は今、闇夜に照らす一条の光を求めています。」 
  「光?」 
  「はい。」 
  張角は微笑みを絶やさず、ゆっくりと趙雲に語りかけた。 
  「貴方の技量、胆力はともにこの中華でも五指に入るでしょう。しかし、残念ながらそれを発揮する場を得られて
 いない。」 
  「その場・・・ですか。」 
  「そうです。私は人の批判を出来る立場の人間ではありませんので、これ以上は申し上げませんが、貴方には本当
 の意味の主君たる主君が必要です。」 
  「主君・・・」 
  確かに張燕は主君と言うよりも朋友に近い。しかもその友情もお互いに遠慮をして成立している。 
  「では、その主君足り得る人物が、目の前の貴方だと言うのですか?」 
  趙雲の問いに張角は頭(かぶり)を振る。 
  「残念ながら、私は貴方を入れる程の器ではありません。」 
  「張角様!」 
  張角の発言に張曼成が奇声を上げた。自分が絶対と信じる指導者が自らを卑下するような発言をしたためだ。 
  「いえ、張曼成。これは事実ですよ。」 
  更に張角は得心いかない様子の張曼成に諭すように言葉を送り込んだ。 
  「ここに居られる趙雲子龍という人物は、当代の虎将。そんな人物を収める事が出来るのは同じく武人でなくては
 ならないのです。」 
  「しかし、先程、今の・・・いや、・・・張燕殿も一角(ひとかど)の将、その張燕殿をして足りないと言うのであ
 れば、武人というこだわりは理解できません。また、張角様を上回る人物などいるわけがありません。」 
  張角は、張曼成を駄々っ子を見るような目でみつめ、落ちついた口調を崩さずに語り続けた。 
  「なぜ、武人でなければならいか。それは趙雲殿と同じ言葉で語れないからです。そして、どうして張燕殿では駄
 目なのか、それは・・・。」 
  張角の言葉に張曼成は元より、趙雲も固唾を飲んで聞き耳を立てた。何かこれからの自分の運命を告げられるよう
 な気分になる。 
  「張燕殿が武将としての能力に長けているためです。」 
  この不可思議な言いように張曼成、趙雲ともに言葉を失うように黙り込んだ。長らく沈黙が続いた後、張曼成が張
 角に問う。 
  「張角様。この不肖、張曼成にはおっしゃる意味が分かりません。こちらの趙雲殿も同様かと。」 
  張曼成の言葉に趙雲が端正な顔をしかめながら頷いた。趙雲の同意を得られたところで、張曼成が繰り返す。 
 「 張角様のお言葉を吟味いたしますと、武人であり武将としては能力が低い、それでいて張角様を上回る人物がこ
 の中華にいると言う事ですか?」 
  「いや、これは私の言葉足らずでした。私が言いたかったのは、戦場に身を置きながらもその双眸は遙か遠くを大
 局を見つめている人物。つまり、その場の武将としての能力に長けているだけでは駄目だという事です。」 
  これまで戦場では戦の事しか頭になかった。目の前の敵を倒す事しか考えていなかった趙雲は、胸中に衝撃が走る
 思いだった。 
  「しかし、そんな人物がいるのでしょうか?」 
  「いますよ。」 
  張角は言い切った。しかし、言葉は、それ以上続かなかった。 
  焦れた趙雲が張角に問いかける。 
  「一体、誰ですか?」 
  「それは、貴方の目で探すべきです。そして、それが貴方自身の成長にも繋がるはずですから。・・貴方の才能が
 結実する事を祈ります。」 
  そう言うと急に張角の力が抜け、体が前のめりに傾きだした。近くに立っていた趙雲が慌てて手を差し伸べる。 
  趙雲の太い腕に支えられて、張角は態勢を維持する事が出来た。 
  「大丈夫ですか?」 
  「張角様!」 
  張曼成が金切り声をあげる。最悪の事態が脳裏を駆けめぐった。 
  「張曼成殿、誰が医師を。」 
  趙雲のこの言葉がなければ、張曼成はこのまま半狂乱していたかもしれない。自分を取り戻した張曼成は、張角を
 趙雲に託し部屋を飛び出していった。 
  「大丈夫ですか?」 
  趙雲は、再び張角に声をかけた。が、返事はない。 
  このままの姿勢にしておくのを気遣い、趙雲は張角を抱き上げる。丁度、奥に寝台が見えたので、そこに静かにの
 せた。 
  その時、微かに張角の口元が動く。声は発していないようだが、間違いなく何かを伝えたいようであった。 
  趙雲は口の動きから、その真意を読みとった。 
  そして、驚愕する。 
  「そ、それは本当ですか。」 
  当然、答えは返ってこなかった。そして、趙雲は、そのまま押し黙るのでった。  




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