十二.偽善者 渠帥・波才(はさい)討たれるの報は、同じく穎川地方に進出していた張梁(ちょうりょう)はもとより、南陽に陣を 布く張宝(ちょうほう)にも驚愕を与えた。 戦の駆け引き、統率力、どれをとっても波才は他の渠帥達に比して、飛び抜けて秀でていたからだ。 実際にはその将帥としての力量を発揮する前に、どこからともなく飛来した矢により命を落としたのだが、波才率 いる方には生存者がいない。 詳しい情報は全く分からなかった。ただ、噂が噂を呼び、とてつもなく強い官軍という印象を黄巾賊に与えるので あった。 また、張宝の頼む相方というのが実戦経験のない書生の張曼成(ちょうまんせい)である。張宝の目には、波才と比 較し数段見劣りして映る。 張宝は不安から、日に日に酒の量が増え、近臣達に当たり散らすという体たらくを見せるのであった。そして、そ んな張宝をますます不安にさせる情報がもたらされる。 張宝と直接対峙している朱儁(しゅしゅん)のもとに援軍が届いたというのだ。しかも、その援軍というのが武勇の 誉れ高い別部司馬の孫堅(そんけん)だという。そして、謎の義勇兵。 張宝は義勇兵については気にもとめなかったが、孫堅についてはそうはいかない。かの天才軍略家、孫武(そんぶ) の末孫(まっそん)と称するだけに戦上手は天下に聞こえ、会稽郡(かいけいぐん)での許昌(きょしょう)の反乱を僅か な手勢で鎮めたのは記憶に新しいのであった。 一方、張宝に軽んじられた義勇兵とは、劉備率いる幽州の義勇軍である。 董卓のもとを離れ、再び戦場に戻る劉備達であったが、黄巾賊を討つ作戦上で自分達まで焼き払おうとした皇甫嵩 のもとには行く気はせず、師である廬植もいない。 となれば残っているのは、右中郎将の朱儁しかいなかった。 まあ、そこも気に入らなければ離れてもいいと劉備は思っている。皇甫嵩、董卓といった漢軍の高官に接し、官軍 と自分達には相容れないものがあると感じたからだ。 ただ今回は、朱儁の方も自分が待望していた孫堅が参入してきたので、劉備達とは必要以上に接する事をしなかっ たので無用の摩擦がなかったのが幸いする。 「はっはっはっ。あんたが幽州義勇兵の頭かい?」 朱儁の陣地で闊達(かったつ)に笑いながら話し掛けてきた人物がいた。それは孫堅文台であった。 「ん?そうだけど、あんたは?」 ほぼ同時期にこの軍に加わった孫堅の事を劉備は知らない。いや、知らないというのは語弊があり、顔を知らなか っただけで、当然、孫堅文台という人物と活躍については劉備の耳にも届いている。 「はっはっはっ、俺か?俺は孫堅文台よ。」 「へー、あんたが江東の虎かい。噂通り、強そうだ。」 劉備はそう言うとその見事な体躯に見とれた。自分の義兄弟、関羽や張飛と比較しても遜色(そんしょく)はない。 その孫堅は熊のような大きな体をそっと劉備に近づけ、耳打ちをする。 「あんただろ。波才軍を破ったのは。」 劉備は孫堅の言葉に驚いた。世間的には波才を討ったのは皇甫嵩となっている。劉備達は穎川での戦の後、息吐く 間もなくその地を離れ、廬植の元に向かった。 それを良い事に皇甫嵩が波才軍を自分達が破ったと大々的に宣伝したのである。 一応、皇甫嵩の立てた作戦で波才を倒したのだから、間違いではない。劉備もそんな手柄話などには興味がなかっ たので、今まで黙ったままでいたのだが、その情報を孫堅は知っているというのは大いに驚くべき事であった。 そして、更に孫堅は劉備を驚かせた。 「最も、天からの救いもあったそうだが。」 孫堅はあの何処からか飛来した矢の事も知っているのだ。孫堅文台、ただ力任せに戦をするではなく、情報に裏付 けられた分析によって戦をするのであろう。 そして、それが戦の天才と言われるゆえんなのだ。 「はっはっはっ。そんな怖い顔をするな。気を悪くしたのなら、謝る。」 「いや、ただ驚いただけさ。」 劉備は素直に感想を洩らした。穎川の地では曹操孟徳という傑物に出会ったが、その曹操のような隙のない強さと は違った強さを持つこの孫堅文台。 世の中の広さを改めて思い知るのである。 「こりゃ、強いはずだわ。」 「はっはっはっ。何を言う。波才を破ったあんた達だって十分強い。できれば敵に回したくないな。」 「今ん所、黄巾に寝返るつもりはねぇから、大丈夫だろ。お互いに。」 「はっはっはっ。それはそうだ。」 孫堅は豪快に笑い飛ばすと劉備の肩を二、三度叩いてその場を去って行く。その強さに劉備は咳き込みながらその 後ろ姿を見送るのであった。 そして、その三日後、張宝との決戦の火蓋が斬って落とされた。 総大将の朱儁が中央に、右翼には孫堅、左翼には袁術公路(えんじゅつこうろ)が陣取った。 袁術とは、大将軍何進の元にいる袁紹の従弟にあたる。官職は折衝校尉(せっしょうこうい)。 袁紹と同じく名門の出であったが、大将軍の下、中枢で画策している袁紹と比較するとその役職は大変、低いもの であった。 それが袁術には不満であり、そして、今回は後から陣に加わった孫堅にばかり注目が集まり、袁術の自尊心は大い に傷つけられる。 袁術はこの戦で功を立て、袁紹ともども孫堅に一泡吹かせてやろうと企むのであった。劉備はそんな袁術と同じ左 翼に配置される。 最も功に焦る袁術軍が前面に押し出て、劉備軍は端に追いやられている。目の前には袁術軍の歩兵の壁が出来てお り、これでは劉備軍の騎馬隊の機動力が失われ、威力を発揮することが出来ない。 劉備は堪らず、袁術に申し立てたがまるで取り合ってくれない。仕方なく、そのままの配置で戦が始まってから、 乱戦に紛れ込んで軍を動かそうと考えるのであった。 戦が始まると左翼は劉備軍の活躍なくとも優勢に進め、黄巾賊を押しまくった。三度の激突に全て勝ち、黄巾の右 翼を三里ほど後退させ、完全に本隊と切り離すことに成功した。 そこで調子に乗った袁術は、自軍の兵を半分に割き、その半分を張宝率いる本隊にぶつけた。敵の本隊を裏から強 襲しようというのだ。しかし、それは間違いの素であった。 黄巾の右翼が本隊と切り離されるほど後退したという事は、同じく官軍の左翼も本隊と離れている事を意味する。 黄巾賊はまさしくそれを誘っていたのだ。黄巾の右翼を指揮していた厳政(げんせい)は、ここぞとばかりに兵を叱 咤(しった)し、少なくなった官軍左翼の切り崩しにかかる。 袁術は慌てふためいて、兵を再び呼び戻すが一度崩れた陣形を立て直すのは容易な事ではない。 「ちっ。ったく、何やってんだよ。」 劉備は左翼の後曲に控えていたが、目の前の壁が開けたかと思うとそこには黄巾賊が槍を構えて対峙している。あ れ程、張り切っておきながらの袁術の用兵のまずさに劉備は舌打ちしたのであった。 「雲長、益徳。ここは一旦、退く。」 劉備は黄巾賊の勢いに抗しがたいと判断し、兵を退いた。ここは気勢をそぐ必要があるのだ。しかし、その意図が 袁術兵には伝わらない。 あたら無駄に黄巾賊に立ち向かい、次々に討たれていく。 これでは黄巾賊の勢いが増すだけで、気勢をそぐどころではない。 「・・しょうがねぇ、雲長、横に回れ。益徳、正面から衝くぞ。」 「はっ。」 「おう。」 劉備はこれ以上退くことは無理と判断し、関羽と張飛に手勢を分け黄巾賊を衝くよう指示する。 もとより、退くことより戦う事に本望を感じる両名は、喜び勇んで黄巾賊に立ち向かって行った。 「くっ、この調子にのりやがって。」 手勢を割いた関羽は、横に迂回するためにまだ少し時間がかかる。ここは士気が低下した袁術兵と残りの劉備軍で 厳政の進軍を止めるしかないのだ。 「劉備殿、分けられた関羽殿を戻した方がよいのではありませんか?」 「いや、あいつらは今、勢いに乗って攻めてきている。が、前しか見えてねぇ。もう少し堪えればおいら達の勝ち だ。」 黄巾賊の攻勢に堪らず簡雍が進言したが、劉備は即座に退けた。 「大丈夫、益徳が残っている。一気にやられる心配はねぇさ。」 劉備の言葉通り、張飛の武によって、崩れかけた官軍の陣形は少しずつ立て直しつつある。そして、逆に攻め立て ていた黄巾賊の陣形が崩れだした。 迂回していた関羽の兵が調子に乗り伸びきった黄巾賊の横っ腹を衝いたのだ。 「よし、今だ。一気に決着(けり)をつけるぞ。」 前後に分断された黄巾賊は、劉備軍と袁術軍に各個撃破されていった。厳政は形勢不利とみると素早く前曲の兵を 見捨てて、本軍に合流する。 劉備は深追いする事なく、同じく兵を退き、隊列を整えて被害の状況を確認した。 激戦だった割には被害は少ない。しかし、その分、袁術軍の被害たるや散々としたものであった。 劉備の足下にも呻き声を上げている袁術兵が数十人といる。 「おい、大丈夫か?」 劉備はその一人に声をかけた。その男は返事をするのも辛いのか、劉備に声にならない声で反応を示す。 劉備は馬上から降りてその男を抱きかかえ、口元に耳を当てた。 「・み・・ず、みず・・を・くれ。」 僅かな力を振り絞って、その男は劉備に水を要求した。「おい、簡雍。」 呼ばれた簡雍はすかさず腰の竹筒を劉備に差し出す。 「ほら、水だ。」 男は弱々しい動作で劉備の持つ竹筒に手をかけた。その時、劉備の手は何者かによって弾かれた。水の入った竹筒 が下に転がる。 「弱兵に施しは無用。」 見上げればそこには袁術とその部下の紀霊(きれい)が立っていた。そして、袁術が顎で合図すると転がり落ちた竹 筒を紀霊が踏みつける。乾いた地面は竹筒からの水をアッという間に吸収した。 袁術を睨み付ける劉備の腕には、もう、男の力は伝わってこない。 「てめぇ。」 「何だ。その男に水を与えてどうする。ここは戦場ぞ。助ける術などないであろう。」 袁術の言う通り、ここは戦場、すぐに医者に診せられるわけではない。水を与えた所でどうにもなるまい。が、 『違う。』と劉備は考える。 「てめぇが同じ立場になったときにも、そう言えるんだろうな。」 「ふん、名門袁家の嫡流たる余が、このような無様な姿になるはずがなかろう。」 劉備の怒りは収まらないが関羽が慌てて仲裁に入る。 「長兄。今はまだ戦は終わってません。ここは味方同士で争っている場合では・・・」 関羽の言っている事はよく分かる。すぐに兵を反転させ、膨れ上がった敵の本隊を討たなければ、劉備の仲間達も 手の中にいる男のようにならないとも限らない。 劉備は怒りを抑えそっと男を地面に降ろしてから、馬上に戻り、厳政の後を追うべく兵をまとめにかかった。 「田舎者が偽善者ぶりおって。」 その劉備の背中越しに袁術が毒づいた。この男には何を言っても無駄と劉備は悟り、振り返りもせず仲間に号令を かけた。 「みんな。敵本隊の裏を衝くぞ。」 劉備は怒りが過ぎ、徐々に冷静になっていく頭で考え込んだ。袁術の最後の言葉。『偽善者』 『確かにおいらは、皇帝になる野望を抱いておりながら、一方では漢の民を憂いでいる。・・でも、どちらも紛い ようもなくおいらの気持ちだ。・・偽善者か・・・』 劉備は敵軍の土煙を視界に捕らえ、鞭振る腕に力を込めるのであった。