十一.義憤 朝靄(あさもや)が煙る中、旅塵(りょじん)を被りながらも払うことなく、一心不乱に騎馬を操る集団がいた。それ は、幽州の義勇軍である。 先頭を駆る劉備は、恩師である廬植北中郎将の駐屯地、広宗(こうそう)へと急ぐ。 黄巾賊との戦いの中で、知り合った曹操という男の言葉を信じれば、その師は罪人として、都に送還されるという。 真偽については分からなかったが、少なくとも曹操という人物は信用に足りると劉備は感じたのであった。 「長兄、少し速度を抑えませんと、後ろの方では脱落者が出てるようですぞ。」 あまりに過酷な行軍に堪らず関羽が声をかけた。劉備軍はこの行軍に移る前、穎川(えいせん)の地で黄巾賊と死闘 を演じていたのである。そして、息を整える間もなく、この猛進である。 いかに精強な劉備軍といえど、ついには一人、また一人と脱落者を出してしまったのである。 しかし、劉備にはその言葉に頷くことは出来なかった。 「すまねぇ。これはおいらのわがままだ。けど・・・」 「分かりました。・・簡雍。」 劉備の瞳を見つめ、師への想いの大きさを知った関羽は黙って納得するしかなかった。かといって、このまま脱落 者を増やすわけにもいかない。 関羽は簡雍に脱落していく者をまとめて、広宗の地で落ち合うよう約束した。 そして、劉備軍は陽が天高く昇った頃にようやく広宗の地に着いたのであった。振り返ると二千にまで増えた軍勢 が半分近くも減っていた。 「悪いな、みんな。」 劉備が手綱を弛め、一息吐くとその場で息も絶え絶えという仲間に声をかけた。不眠不休でここまで来たのである。 不平不満が出てもおかしくないのだが、劉備が声をかけて回ると義勇兵達は早く廬植将軍の元へ急ぎましょうと逆 に叱咤(しった)されるのである。 以前、廬植が駐屯していた陣地まであと五里。劉備は再び先頭に立ち、今度は遮二無二馬を駆るのではなく、軍を 整然と整列させながら歩を進めた。 一里、二里と進むうちに息を整える。 そのまま、五里程進むが、以前の場所には官軍の姿はなかった。やはり、曹操の言通り、廬植は更迭され陣払いを したのであろうか。 しかし、ここは黄巾賊の主戦力が集う戦場。官軍が簡単にこの地を放棄するとは思えない。 劉備達が思案に暮れてる中、戦の鬨の声が耳の中に飛び込んできた。 「どこだ?」 「あそこの谷のようです。」 どうやら、関羽が指すように吹きさらしになっている谷から声が聞こえているようだ。劉備達は、馬に鞭打ってそ の谷を目指した。 「見た事ねぇ、旗印だな。」 「しかし、官軍である事は間違いなぇだろ。」 劉備達が見下ろす地で官軍と黄巾賊の戦闘が繰り広げられている。旗色は官軍の方が悪い。 正直言って、劉備軍の中では黄巾賊は許す事が出来ないが、官軍と共闘するのも皇甫嵩から受けた仕打ちを考える と賛成できるものではない。 しかし、今は廬植の情報が少しでも欲しい。 迷いを断って、劉備軍は谷を駆け下りた。 「おい、官軍ども、援軍に来たぞ。」 これまで優勢に戦をすすめていた黄巾賊であったが、突然天から舞い降りた軍勢に虚をつかれ、浮き足だった。 そこに関羽、張飛がいいように斬りまくる。この二人には、長い行軍の疲れなど微塵もないようである。 この時、黄巾賊を指揮していたのは、趙弘(ちょうこう)という武将であったが、その趙弘の元には混乱のためか様 々な誤報が伝わり、結局、劉備軍の正確な数も伝わらないまま撤退を余儀なくされた。 その後人伝(ひとづて)に二人の猛将の話を聞いて背筋を寒くさせたが、今は戦況の変わり様に歯軋(はぎし)りをす るだけであった。 「よし、もういいだろう。」 黄巾賊が完全に撤退したのを認めると、劉備は自軍に追撃の手を弛めるよう指示する。 折しもその時、劉備に声をかけてくる青年がいた。身なりからは官軍の将校と想像できる。 「おお、徳然(とくぜん)。」 その人物の名は劉徳然。劉備の従兄弟であり、廬植の元で同じ学問を学んだ同窓である。付け加えるならば、劉備 に学資援助をしてくれた劉元起(りゅうげんき)の息子であった。 「玄徳。見違えたな。」 劉徳然は相好を崩して、劉備の肩を叩いた。 劉備と別れて数年しか経っていないというのに、劉備が一軍を率いるまでに成長しているのを喜んでいるようであ った。一緒に席を並べていた頃は、学問そっちのけで遊んでばかりいた劉備を何かと気にかけ、窘(たしな)めていた のがこの徳然であった。 「いや、徳然。悪いが、ここで昔の思い出話してる場合じゃねぇんだ。」 「うむ。廬植将軍の事だろ。」 徳然は劉備が気にかけている事を素早く言い当てた。劉備は、得たとばかりに次の言葉を待つ。 「・・それが・・」 が、歯切れの悪い言葉に濁されて、真意を掴むことが出来ない。 劉備は焦(じ)れたように徳然に詰め寄った。 「だから、どうしたんだよ。やっぱり、更迭されたのか?」 「ああ。」 力無く頷く徳然の姿を見たとき、劉備は愕然(がくぜん)とする。「どうして。」 初め小声だった劉備の声が次第に大きくなり、ついには徳然の襟首を掴んで怒鳴りだした。慌てて、関羽、張飛二 人掛かりで劉備を取り押さえる。 「何があったんだ。一体。」 少しは落ち着いてきたのか、それでも息を弾ませながら劉備が言った。そんな劉備の姿に徳然は意を決して事の真 相を話し始めた。 事の発端は十日前、陣中視察と称して都から、査察使の左豊(さほう)という宦官がやって来たのに始まった。 左豊は小黄門(しょうこうもん)という身分で、いわば後宮の雑用を任され十常侍よりは格下の宦官であった。しか し、天子の身近にいるという点では変わりなく、その威光を借りて訪れた陣中でも我が者顔に振る舞っていたという。 廬植はその行為に難を示しつつも、都からの使いとの間に無用な諍(いさか)いを起こす事も出来ずとして、無視す る事にしたのであった。 ところがそれがかえって左豊の増長を誘う結果となる。 日に日に左豊のぞんざいな態度は肥大し、ついには軍資金の一部を賄賂として要求したのであった。 これには流石の廬植も見過ごす事が出来ず、左豊及びその侍従を一喝して追い出したのであった。 この行為、清廉潔白な廬植の性格が自分の首を絞めた事になる。 廬植更迭の勅使がやって来たのは、左豊が這々(ほうほう)の体で逃げ帰ってから二日と経たなかった。罪状は、軍 資金横領だという。 「それで、徳然。お前は黙って先生を引き渡したって言うのか。」 「勅命だ。仕方ないだろう。」 徳然にも当然、自分の師が言われもない罪で捕らわれるのは我慢できない。しかし、我慢するしかないのだ。 勅命は天子の命令である。それに逆らう事は誰にも出来ない。 「くそ。」 劉備は土を蹴って苛立ちを表す。そこにこの官軍の指揮をとっている、恰幅(かっぷく)のいい男が現れた。 「董卓将軍。」 徳然は慌てて軍令をとる。「何者だ?」 そんな徳然の姿など目に映らないのか、董卓は劉備の前に厳(おごそ)かに立った。 「そう言うあんたは何者だい?」 「雑兵が儂に名を問うのか。」 劉備は董卓の言葉に眉をひそめた。『雑兵』という言葉に引っ掛かりを感じたのだ。 「雑兵?その雑兵に自軍の危機を救われたんじゃねぇのか。」 「廬植に仕えていた軍の力量を図ったのよ。結果は不甲斐ないものであったがな。」 劉備の隣りに立っていた徳然が肩を落とす。今は董卓が廬植の軍勢を吸収したようだが、廬植が去ると決まったと き、一時的に軍を預かったのはこの徳然である。 遠く徳然の軍事能力のなさを指摘したのである。 「ふん、廬植などという腐れ儒者のもとにいるからそうなるんだ。」 「なにぃ。」 董卓は続けて、二人の師に暴言を吐いた。これには劉備はもとより控えていた関羽、張飛も色めき立つ。 「控えろ、玄徳。」 勢いに任せて、劉備が剣の柄に手をかけたとき、徳然がいち早く取り押さえ、その頬を殴打した。そして、倒れ込 んだ劉備の横で地に手をついて董卓に謝罪する。 「済みません。この者、私の従兄弟なのですが何分、田舎者で言葉というものを知らず。」 「ふん。まあ、よかろう。劉徳然、軍をまとめついて参れ。」 董卓は劉備が剣の柄を握ったにもかかわらず、余裕の表情で返答すると、そのまま背を向けて去って行った。その 後ろ姿を見届けると、徳然は手を差し出して劉備を立ち上がらせる。 「殴って済まなかった。」 「いや、おいらもどうかしていた。らしくもなく、つい、かっとしちまった。」 劉備は服に付いた土埃を払う。「それに悔しいのは一緒だよな。」 「ああ。そんな事より、廬植将軍に会いたいか?」 「会えるのか?」 徳然が言うには、廬植が護送されたのは今朝の事だそうである。馬で急げば、都に着く前に追いつけるのではない かというのだ。 劉備は嬉々として馬を駆った。但し、他の義勇兵は広宗までの行軍と先程の戦闘で膂力の底がついてる様子だった ので、徳然にお願いして一時的に預かってもらう事とした。 劉備とともに廬植の後を追ったのは、義弟の関羽、張飛の両名である。師に会えるという一心で扱く手綱は軽く、 長旅、連戦の疲れなど忘れていた。 劉備達が馬を駆ってから、二刻程経つ頃、ようやく囚人を乗せる檻車の姿が見えた。 鉄格子の中に衣服を剥ぎ取られた恩師の姿を見付けると、不覚にも劉備は目が潤んでしまった。 思わず、その鉄格子に近付こうとすると、この護送の警備を務める男達に行く手を阻まれる。この男達を薙ぎ倒す のは簡単なことであったが、それではかえって廬植に迷惑がかかる。 他なら恩師のため仕方なく、劉備はこの警備隊長に砂金の入った小袋を渡した。 思えば賄賂を求められ、逆に横領の罪を着せられた囚人に会うのに賄賂を必要とする。皮肉な話であるが、これが 今の漢帝国の状況を顕著に象徴していた。 「廬植先生。」 劉備は鉄格子越しに恩師に声をかけた。廬植は幻を見るように劉備の姿を見る。そして、確認するように劉備の顔 に触れ、熱い涙に濡れた。 しかし、断ち切るように廬植は劉備に言い放つ。 「玄徳よ。こんな所で何をしておる。」 「先生にお会いしたくて、こうして駆けつけて参りました。」 「未だ救われぬ民草を放ってか?」 師の声は雷喝のように鳴り響いた。頭では理解しても、抑えられぬ感情が劉備にもある。 そして、関羽、張飛にも見せていない一面、言葉が火山が噴火したように噴き出してきた。 「しかし、いくら賊軍と戦おうとも我ら義勇兵は雑兵呼ばわり。皇甫嵩には、我らを囮として黄巾賊もろとも焼き 払われる所でした。・・・これでは、あまりにも甲斐がありません。」 劉備の言葉に関羽は黙想し、張飛は大きく頷く。ともに心に期する所だったのだろう。 「おいらは、まだいい。・・けど、これじゃあ、おいらについて来てくれてるみんなに・・。」 「玄徳、仲間に報いてやりたい気持ちは痛いほど分かる。しかし、漢がお前を認めずとも必ず良き日はやって来る。 お前の事を天は見、地は知り、人は語り継ぐ。いずれ、風聞となって、吉報をもたらす。」 「そうでしょうか。」 劉備には廬植の言葉を現実的とは思えなかった。劉備軍の中には武に長けた者は関羽、張飛を含め多数いたが先見 に長けた者はいなかったので、廬植の言わんとするところが分からなかったのだ。 「ふふふ、いずれ分かる。それにお前の仲間は、損得勘定でついて来ている訳ではあるまい。少なくとも後ろの二 人はそうであろう。」 劉備が振り返るとそこには大きく頷く関羽と張飛がいた。心にあったモヤモヤを吹き払うような笑顔をお互いにし ている。 今はこれでいいのかもしれない。関羽、張飛。生死をともにと誓った仲間。いずれ必ず報いてみせるが、今はそん な仲間に甘えようと思うのだ。 「玄徳よ。これからは若いお前達の時代だ。今は余計なことに捕らわれず、ただ邁進(まいしん)せよ。」 「はい。」 「関羽、張飛、この不肖の弟子を頼むぞ。」 この言葉を最後に廬植は劉備達の前から連れ出された。再び、囚人として都まで護送される。 いくら十常侍の悪政蔓延(はびこ)る都とはいえ、常識を持った知識人も必ずいるはずである。その人物達が廬植を 放って置くわけがない。 劉備達は廬植を乗せる檻車を見送りながら、恩師の無事を祈るのであった。